三章・3
小春――四姫が、どうしても竜田の間に戻りたがらなかったため、夕食は佐保の間に運ばれることとなった。
普段、四姫が神と対話しやすいように、と何も置かれていないその部屋に、暖房器具や柔らかな座布団、木のテーブルなどが、四季宮の男たちの手によって次々と運び込まれてくる。
最後に、楓が以前に見かけた家政婦が食事の準備を始めた。
ひどく神経質そうなその女性は、終始無言のまま四姫の様子だけを気にし、食事の準備を終えると足早に部屋を去っていく。
その気配が完全に消えた頃、四姫はぽつりと呟いた。
「あの人、今、楓ちゃんを見ていなかった……?」
突然何を言い出すのかと、楓は軽く目を瞠った。
「見ている……見ていたわ。嫌ね、早く消えてもらわなきゃ」
「……姉さんの気のせいだよ。それより、早く食べよう」
こういったことは珍しくない。そのため、楓の対応も慣れたもので、四姫は微かに小首を傾げる。
「そう、かしら……」
「そうだよ。だいたいこの四季宮で、姉さんに逆らってまで僕にどうこうしようなんて人間はいないさ」
四姫が楓を偏愛し、手元に置いていることは、四季宮の構成員ならば誰もが知っている事実だ。そのため、楓はあまり内部の人間と関わろうとしない。
四季宮の人間は、そのほとんどが四姫の美貌と能力に魅せられ、彼女を崇拝している。嫉妬と敵意ばかりを向けられる環境に、誰が進んで飛び込むものか。
「……それもそうね」
どこか茫洋とした表情を浮かべる四姫を、楓はため息混じりに見つめた。
「さ、せっかくの食事が冷めるよ」
「ええ、いただきます」
四姫が箸を取るのを確認し、楓も食事を始めた。
「……ねぇ、楓ちゃん。さっきの話だけれど」
四姫が、汁物の椀を開けながら口を開く。
「こうして会いに来てくれたから、お姉ちゃんが少しだけヒントをあげる。きっとまだ、楓ちゃんの調査はそこまで辿り着かないでしょうから」
「……ありがとうございます、姉さん」
まだ隠し事があるのか、とか、最初から情報は公開しろ、とか。言いたいことはいろいろあるのだが、楓はそのすべてを胸の中にしまい込む。ここで四姫の機嫌を損ねてしまっては、元も子もない。
しかし、わざわざ楓が無能だと強調するかのように言うことはやめてほしいものだ。気付かないのか、わざとやっているのかは知らないが。
椀が開くと、ふわりと柚子の香りが部屋に広がる。
「あなたが調べている石塚さん……彼も、わたしの婚約者候補の一人よ」
「……それは、本当ですか」
冷静に答えたつもりだったが、やはり驚きが顔に出ていたのだろう。楓の様子を見て、四姫が満足そうに微笑んだ。
「ええ。ふたりとも、とても熱心に求婚してくださったわ。……もっとも、お互いが求婚者なのだは知らないでしょうけど」
顧客情報は常に最上級機密だ。たとえ大学の同窓生で、しかも親友とはいえど、四季宮に関係していると知る術はない。
四姫は汁物をひと口含むと、
「やっぱり、冬は柚子の香りが一番ね。楓ちゃんも食べてみて。美味しいわ」
「あ、うん……」
言われ、汁物を一口含む。柚子で風味を付けた、茸のお吸い物だ。複雑な香りが口の中に広がり、普段ならば思わずため息をついてしまいそうなものだが……今はあまり、食べ物の味に関心を払ってはいられない。
「……姉さん。石塚さんから何か、鮎川さんについての話を聞いたりしましたか」
楓の質問に、四姫は目をつぶって少し考え込む。やがて。
「……そうね。石塚さんは、鮎川さんに対して、どこか劣等感を抱いているようなところがあったわ」
四姫はすんなりと話してくれた。
石塚卓巳は、真面目だけがとりえの、四姫にしてみればつまらない男だったという。
それに対して、鮎川友博は社交性に富んだ男で、口もよく回る。学生時代はいつも、彼の周りには人が集まっていたそうだ。
「……何故、そんな二人が親友だったんでしょうね」
「さぁ……? 少なくとも鮎川さんは、とても石塚さんのことを褒めていたわよ。何にでも中途半端な自分よりも、目標に向かって努力できる石塚は素晴らしい……って。わざわざ、わたしの前で言うんですもの。驚いたわ」
確かに、それは人を口説くときに言うようなことではない。
「……もしかしたら、鮎川さんは石塚さんも求婚者の一人だと気付いていたんでしょうか」
「さぁ、わたしには分からないし、興味もないわ」
四姫は、冷めた口ぶりでそう話す。
「楓ちゃん以上に好きな人なんていないもの。わたしには、本当にどうでもいいことよ。ただ、楓ちゃんが知りたいと思っているだろうから、話しただけで」
「……ありがとう、ございます」
こういうとき、楓は四姫の中に『小春』を視る。
普段、楓にばかり興味を示している四姫だが――その内面はとても理知的なのではないかと、楓は思っていた。
彼女は分かっているのだ。楓がどれほどの情報を収集できるか、そして、どんな情報を欲しがっているのかを。
けれど四姫は、それらのことを自ら進んで話そうとはしないし、ましてや、個人的に神託を授けてくれたりなどはしない。
情報を明かさないのは、恐らく、楓の能力を信じ……もしくは、測っているからだろう。
実際、楓は四姫のそういった計らいのおかげで、今もこの地位にいることができるのだ。立場が特別で、仕事まで特別扱いされるとなれば、すぐにでも四姫の傍仕えから外されてしまうに違いない。
そして、一方の神託はといえば。そもそも四季宮内部の人間は、四姫から神託を授かることを禁じられていた。四姫と共に神に仕える人間が、その神から言葉をいただこうなどとは、おこがましいにも程がある。
もっとも、これは現役の構成員の話であって、辞めた後のことは関係ない。
そもそも四季宮の構成員というのは、パトロンをしている家の身内や、四季宮との繋がりを強めたい顧客の家族がほとんどを占めていた。
楓も、例外ではない。
(……そう考えると、石塚卓巳は異質だな)
彼は父・嵩志の秘書ではあるが、ただそれだけだ。一般的な家庭に育ち、少しばかり偏差値の高い大学に行って、議員秘書として多忙を極めてはいるものの――それだけだ。特に家柄がいいわけでも、特殊な職業についているわけでもない。既に、そういった報告が竜哉たちから上がってきている。
そんな彼が何故、四姫の求婚者に名前を連ねられたのかといえば――。
「……父さんは、石塚さんについて何か言っていましたか」
「いいえ。そもそもわたしは、四姫に就任してからは数えるほどしかお父様に会っていないもの。……だから、自分の秘書を求婚者に加えたのかもしれないわね」
それは父親として娘を心配しているのか、もしくは――。
(……父さんはどこまで、姉さんを利用すれば気が済むんだ)
もしくは、子飼いの部下と娶わせることによって、俗世と関係ないとされる四姫と、父である自分の繋がりを強固にしようとしたのか。
楓には、後者としか思えなかった。
「……楓ちゃん、わたしの前でそんな顔しないで」
そんなにひどい顔をしていたのだろうか。四姫はそう言うと、自分の前に置かれていた皿のひとつを楓の方に寄せた。
「楓ちゃんが好きな鴨のロースト、あげるから。元気出して」
「……それは、姉さんが嫌いなだけじゃないか」
遠い昔を思い出してしまい、楓は思わずくすりと笑う。幼い頃、楓はよく、こうして小春の嫌いなものを食べてあげていたものだ。
「でも、いただきます。……ありがとう、姉さん」
大人しく受け取る楓を見て、四姫は満足そうに微笑んでいた。
(……僕も、狂ってしまったのかもしれないな)
『四姫』である小春を、楓は小春とは認めていない。
いないはず、なのに――。
「こうしていると、昔に戻ったみたいね」
「そうだね」
「……でも、昔には戻れないのよ」
「…………姉さん」
「愛しているわ、楓ちゃん。世界で一番、あなたが好き」
甘く囁かれるその言葉こそが、今の二人の立場を引き裂いていく。
残酷なほどに実感するのだ。
(この女は、四姫だ。姉さんじゃない……)
楓は鴨のローストを咀嚼する。味は、分からなかった。
静寂が落ちる。
不意に、携帯電話の低い震動音が鳴った。
「……姉さん、ちょっとごめん。竜哉だ」
「タッくんなら仕方ないわね。どうぞ」
共に過ごした時間は短いが、小春にとっても竜哉は幼なじみだ。四姫は仕方ない、という風に首を振る。
「もしもし、僕だ」
『楓、石塚卓巳についてのことなんですが……』
「行方は?」
『分かりません。目下、捜索中です』
「そうか。こちらは……」
楓は四姫との会食から得た情報を、竜哉に伝えた。
「明日は土曜日だ。僕も捜索に参加し……」
「駄目!」
いつの間にか楓に接近していた四姫が、叫び声と共に携帯電話を取り上げた。
「姉さん!?」
「もしもし、タッくん? 明日、学校はお休みなんでしょ。なら、楓ちゃん借りるから」
電話の向こうからは、困惑している風な声が聞こえてきた。
当然だ。楓は現場の総責任者なのだから、彼が指揮を離れれば、部下の職務の遂行に支障が出る。
しかし当然のことながら、四姫が竜哉の言葉に耳を貸すわけがない。
「とにかく、明日は駄目よ。大事な用があるんですもの」
「姉さん……!」
楓がやっとのことで携帯電話を取り返したときには、既に電話は切れていた。
慌てて掛け直したものの、竜哉が電話に出る気配はない。呼び出し音が空しく響くだけだ。
すぐ隣では、四姫が満足そうに微笑んで、楓の腕にまとわりついている。
(……最悪だ)
四姫は言い出したら誰の言葉も聞き入れない。この分では、今日は母屋――筒の屋敷に泊まる羽目になるだろう。
「さ、楓ちゃん。ゆっくりご飯を食べましょう。ふふ……」
そう言って涼やかに笑う四姫は、楓にとって悪夢以外の何物でもなかった。