三章・1
幸せは永遠に続くものだと信じていた。
否。それが幸せというものだと、その頃の楓は気付いてすらいなかった。
当然のことだ。その頃、楓はまだ、四つか五つになったばかりだったのだから。
――それは、思い出せる限りで一番古い記憶。
今では足も運ばなくなってしまった、遠野の家で。大きな屋敷の大きな庭の片隅にある、小さな池を覗き込んで楓は笑っていた。
池の中には祖父の自慢の錦鯉や、姉が貰ってきた数匹の小さなおたまじゃくしが泳いでいる。今では何が楽しいのかも分からないが、その頃の楓にとっては、この場所が一番のお気に入りだった。
「楓ちゃん、見ぃつけた!」
そこに、鈴を鳴らしたような声がかかる。
走ってきたのは、真っ赤なランドセルを背負った姉、小春だった。
楓のふたつ上だから、まだ小学校に入学したばかりだろう。ランドセルは背負っている……というより、逆に小春が背負われているように見えた。
「おねえちゃん、おかえりなさい!」
幼い楓は、大好きな姉、小春に勢いよく抱きついた。
小春が小学校に上がってしまってからというもの、楓はとても寂しい思いをしていた。
姉弟はずっと一緒に幼稚園に通っていたし、一緒に帰ってきてもいた。それが別々の送迎になってしまったのだ。寂しさに、何度か泣いた覚えもある。
けれど、小春は利発な少女だった。
彼女は楓が寂しがるたびに、こう言うのだ。
「小学校に入れば、また一緒に通えるし、休み時間も一緒に遊べるよ。勉強だって教えてあげる。ずっと、ずーっと。……だから、それまではおうちで遊ぼう。ね?」
そう言って、小春は頭を撫でてくれるのだ。そんな優しい姉が、楓は大好きだった。
「きゃっ!」
小さな体を支えきれなかった小春は、楓を受け止めて後ろにひっくり返ってしまった。
「あらあら、大変。二人とも大丈夫?」
物音を聞きつけたのか、縁側に出てきた人影がある。
その声に、幼い姉弟は二人とも、たちまち顔を輝かせた。
「おかあさん!」
「お母さん、起きて大丈夫なの?」
背中のランドセルが衝撃を吸収したため、小春には傷ひとつなかった。小春は立ち上がると、楓を優しく地面に立たせてやり、手をつないで母のいる縁側へと走っていく。
母である秋乃は、とても病弱な人だった。
少ない体力のほとんどを、楓を産む際の難産に使ってしまったのだという。元からよく体調を崩していた秋乃は、楓を産んでからはほとんど床を離れられなくなってしまったそうだ。
そのため、楓にはあまり、母とどこかに出かけた……というような記憶はない。遊びに行くときはいつも小春と一緒で、それが少し寂しかった。恐らくは、小春も同じ思いだったのだろう。秋乃は家で一人なのだから、と姉弟で泣いて、外に出なかったこともあるくらいだ。
秋乃はそんな母思いの小春と楓に感激し、強く抱きしめてくれた。
「わたしはすごく幸せね。こんなに可愛い子どもが二人もいるんですもの」
「おかあさん、しあわせってなぁに?」
楓の可愛らしい質問に、秋乃は「秘密よ」と前置きして、小さな声で話し始めた。
「実はお母さんね……なんと、昔はお姫様だったのよ」
「お姫様! お母さん、お姫様だったの?」
小春が顔を輝かせた。女の子なら、その単語には誰もが一度は憧れるものだろう。
「ええ、そうよ。四人の女神様の言葉をお伝えする、お姫様だったの。……だけど、お父さんのことを好きになって、やめちゃった」
ふふ、と秋乃は微笑む。
「お父さんが、お母さんの王子様だったの」
けれどその言葉に、幼い楓は表情を曇らせた。
「……でも、おとうさん、かえってこないよ」
「だめだよ楓ちゃん、そんなこと言ったら。お父さんは、お母さんやわたしたちのためにお仕事をがんばってるんだから」
「ふふ、小春は優しいのね。……楓も、優しい子よ。二人とも、わたしを心配してくれてありがとう」
秋乃はそう言うと、細い腕で二人を抱きしめる。
「……おかあさん……」
その腕の中で、楓はいつもこう思っていた。
(おとうさんが、ほんとうにおかあさんのおうじさまなら……なんで、たすけにきてくれないの?)
そんなとき、隣で同じように母に抱かれている小春は、楓の手を優しく握ってくれた。
「大丈夫よ、楓ちゃん」
そう言って、微笑んでくれた。
不安を吹き飛ばすように、いつも。
たびたび寝付いては衰弱していく母の姿を、幼いながらに目の当たりにして、そのことの意味を否応なしに理解してしまった楓にとって――小さなその温もりは、どれほどの支えになっていたことだろう。
「楓ちゃん、大好きよ」
はにかんで囁かれるその言葉こそが唯一の永遠なのだと、そんな夢を見たことを。
誰が、責められるだろう――。
「お姉ちゃんを……守ってあげてね」
やがて、そう言い残して母が亡くなったとき、楓は誓った。
肩を震わせて泣いているのにも関わらず、楓を守るように強く抱きしめてくれる、たった一人の姉。
大切な人。小春を――いつまでも守り続けよう、と。
優しい彼女が、ずっと微笑んでいられるように。
けれど、現実というものは残酷だ。
楓がそれを理解したのは、それからすぐのことだった。