二章・4
――佐保の間。
そこは、仄暗い闇と、凍るような寒さが支配する空間だった。
畳の敷かれた室内は広く、けれどそこに存在する人物は三人しかいない。
一人は、部屋の下座で平伏している、グレーのスーツを着た中年の小男だ。その体はかなり太っており、スーツも中に着ているワイシャツもぱんぱんに膨らんでいた。首元など、豚の首にネクタイを巻きつけているようにしか見えない。
これだけ体に肉が付いていれば、外套なんて必要なくなるのではないだろうか――そんなことを冷たく考えているのが、上座に座っている二人目だ。
今日は黒地に椿の描かれた着物を着ている美しい少女、四姫である。
「……そうね、あなたの選択は決して利口なものとは言えなかった。少なくとも、周囲にはそう見えていたでしょう」
「で、では……! では私は、どうすればよろしいのですか……!?」
小男は勢いよく顔を上げると、四姫に取り縋ろうとした。すかさず、部屋にいた三人目の人物――夏月が、男の体を抑え付ける。
「落ち着きなさい。四姫の神託は、まだ降りてきておりません」
「し、しかし……」
何かを言い返そうとしていた男だったが、夏月の表情を目にした途端、口を噤んだ。
「夏月、あまり怖い顔をしないで頂戴。お客様が怖がっているわ」
「……申し訳ありません、四姫」
男に暴れる意思がないことを確認すると、夏月は彼を解放した。
小男は再び、畳に額をこすり付けんばかりに平伏する。
「四姫様、どうか私に道をお示しください。今は、わが社が世界に進出できるかどうかの瀬戸際なのです……!」
小男の言葉を、四姫が聞いている様子はない。
「……静かに」
男がなおも言い募ろうとすると、夏月が小さくそれを制した。
と――一瞬で、部屋の空気が変わった。
小男は驚いた。何処からともなく、温かな風が吹いてくるのだ。それだけでなく、芳しい花の香りまでが部屋に満ち溢れていく。
そんな中、四姫はおもむろにその赤い唇を震わせた。
「春……ね」
「はい?」
小男は、戸惑いがちにそう聞き返す。
「春の花を待ちなさい。その言葉にこそ真実と、あなたの決断があるでしょう。ひと欠片も疑ってはいけないわ。あなたがすることは、その言葉について考えることと、決断するだけ。『わたくし』の言葉を、疑ってはいけない」
四姫は、そこまでを一息に告げた。
小男は次の言葉を待った。けれどもそれは一向に訪れる様子もなく、やがて部屋には完全な沈黙と、元の寒さが訪れる。
「……神託は下ったようですね」
静寂を打ち破ったのは、夏月の言葉だった。
「ま、待ってください。私には、何が何やら……」
小男は明らかに焦っていた。四姫の神託は抽象的、もしくは詩的だと聞いてはいたが、これではさっぱりわけが分からない、とばかりに。
焦る彼を見て、四姫は不快そうに眉を寄せる。
「自分で考えなさい。あなたには疑うことは許されないと、神様もおっしゃいました。ただ……そうね、ひとつだけヒントをあげるわ。春の花、そう聞いて思い当たることは、何もないの?」
四姫の言葉に、小男はしばらく考え込んでいるようだった。
……やがて。
「妻の、名前が……雛菊というのですが」
「デイジーね。確かに、春の名前だわ。待つ、ということはどこかに出かけてらっしゃるの?」
四姫の言葉に、小男は得心したという風にうなずいた。
「女友達と一緒に、一週間温泉三昧だと言って旅行に行きました。帰ってくるのは……明後日だったと思います」
「じゃあ、話は簡単ね。奥様が帰ってきたら、自分の悩みをすべて話して、その答えを待ちなさい。ただし、奥様の言葉を疑ってはいけないわ。あなたがすることは……分かっているでしょう?」
微笑む四姫に、小男は何度もうなずいた。気付けばその目はわずかに潤み、四姫を見る視線には信仰、とでも呼べるような一途な輝きが宿っている。
何度も礼を述べながら退室していく彼を笑顔で見守って――夏月と二人きりになった瞬間、四姫は表情を一変させた。
「愚かな男だわ。少しは自分の頭でものを考えられないのかしら」
不機嫌そうに歪むその顔は、凄みのある美しさに彩られている。
「追い詰められて、怯えているのですよ。考えが萎縮していても不思議はありません」
「それはつまり、無能ということね」
四姫は正座を崩し、畳に足を投げ出す。
「少なくとも、楓ちゃんはそんなことにはならないわ。そして……あの人も」
あの人。
そう言葉にしたとき、四姫の瞳が揺れたことに――夏月は、気付いただろうか。
「楓ちゃんの調査はどう? 進んでいる?」
「今のところ、まだ。ただ、石塚卓巳のことを調べ始めた、とだけ窺っております」
「石塚を……何故? 彼はあの人の秘書でしょうに」
四姫は、微かに驚いた顔を見せた。
「昨日、楓はあの方と共に鮎川友博様の葬儀に行かれたそうです。本来ならば、それは石塚の仕事だったそうですが……彼は今、連絡の取れない状況にあるということです」
「ふぅん……」
石塚のことに、四姫はあまり関心を示さなかった。
「あの人と楓ちゃん、いつもみたいにひどい喧嘩をしてなければいいけど」
「楓が、心配ですか」
夏月の問いに、四姫は「当たり前でしょう」と、不機嫌さを隠そうともせずに答える。
「けれど……あの人のことも。あの二人がいがみ合うのは、嫌だわ」
「……そういえば四姫は、あの方にだけは無理を言わないのですね」
不意に、夏月がそう口にした。
「楓やその周囲に向けるようなものも、私に申し付けるような我が侭も言わない。あの方の前にいるとき、四姫はとても物静かで控えめです」
「……あの人は、四季宮の運営を大きく支えてくださっているのよ。失礼があってはいけないでしょう」
今さら何を言い出すのかと言わんばかりに不機嫌そうな面持ちで、四姫はそう答えた。
「そうですね」
そんな四姫の言葉に、夏月もまた無表情を崩そうとはしない。
けれど、その言葉が嘘だということくらい、二人とも分かっていた。
分かっている上での、やりとりだった。
と――不意に、室内を震動音が駆け抜ける。
夏月はスーツの胸ポケットから携帯電話を取り出した。
「夏月です。……ああ、どうしました。……今から? まあ、会えないことはありませんが……聞いてみましょう」
夏月は通話を保留すると、四姫の方に向き直る。
「楓が、今からこちらに来たいと。先ほどのお客様が最後の面会予定だったのですが、この後、楓をお通ししてもよろしいですか」
「楓ちゃんが?」
名前が出た途端、四姫の顔が華やいだ。
その様子に、夏月は四姫の返答を待つことなく保留を解き、楓の電話に了承の言葉を返した。
「すぐこちらに向かうそうです」
夏月の言葉に、四姫は満面の笑みを浮かべた。
「ふふ、楓ちゃんからわたしに会いに来てくれるなんて、いったい今日はどうしちゃったのかしら。どんな用事であれ、すごく、すごーく嬉しいわ」
今にも踊り出しそうな四姫の喜びようを見ても、夏月は眉ひとつ動かそうとしない。
「四姫は、楓をとてもお気に入りなのですね」
「ええ、もちろん。わたしは世界で一番、楓ちゃんを愛しているもの」
自信と喜びに満ち溢れた目で見られ、夏月は無表情のまま視線を伏せた。
「そうですか。……きっと、楓も光栄に思っていることでしょう」
その言葉にも、わずかな感情の欠片すら見えない。
やがて――。
楓は、到着するなり四姫に詰め寄った。