第12話 夢の中の声
「…………なんでだよ…………」
子供の声だった。
「うそつき、うそつき……」
ゆっくりと瞼を開ける。辺りは青暗かった。
「約束……やぶった……うそつきだ……」
それは切ない呟きだった。
だが、辺りを見渡しても何も見えない。果てしない世界が続いているだけだ。
ゆっくりと一歩を踏み出す。ちゃんと歩いているはずなのに、視界がふらふらと定まらない。
――――…………どこにいるんだ?
「きらいだ、きらいだ、きらいだ、……」
――――……どこなんだ?
問うても、こたえは返ってこない。
「うそつきうそつきうそつき」
頭が痛い。眩暈がする。
「裏切り者、裏切り者……ッ!」
吐き気がする。
「………………殺してやる…………」
「………………ッ!!」
目を見開く。視界はぼやけていた。
「起きたのか、シュトラウス?」
馴染み深い声。
シュトラウスはそこで深く息を吐いた。
「どうしたんだ?汗がすごいぞ」
額に掌をあてるとそこはぐっしょりと濡れていた。額だけじゃない、首筋も腕も、身体じゅうが冷たい汗をかいていた。
ゆっくりと鮮明になる視界で、群青の瞳が心配そうに自分を見つめている。
シュトラウスは袖で汗を拭うと肩をすくめた。
「なんでもない。ちょっと、変な夢みただけだ」
「本当か?」
ルノアンは半信半疑といった風に見つめてくる。
「本当だ」
嘘は言っていない。
シュトラウスは話題をかえるようにルヴィに視線を向けた。
向かいの座席に座っている赤毛の少女は、背もたれに寄りかかって眠っている。長い間馬車に乗っていて疲れたのだろう。身じろぎ一つしない。
「ルヴィも寝てたんだな。その間、お前、暇だったんじゃないか?」
納得のいかない様子のルノアンだったが、彼はあえて同じことを言わなかった。
その代わり、手に持っていた本を掲げた。
「ちょうど良い読書時間になった。
……そろそろ街との中間地点になる村につくはずだ。それまで、外の風景でも見ていたらどうだ。なんだったら、話し相手になるが」
「…………」
シュトラウスは首の後ろを掻いた。
「いや……のんびり景色でも見ているさ。お前は読書を続けてろよ。ま、馬車酔いしない程度にな」
ルノアンは素直に頷くと読書を再開した。
その姿を少し眺めていたシュトラウスだったが、座席に強張っていた背を預けると窓枠に肘をつけ手に顎をのせて、朱に染まっていく空を眺めた。雲もだんだんとオレンジ色になっていく。
「殺してやる」
ふざけて言ったのではない。きっと、本当に殺すつもりで言ったんだ。
「またかよ……」
いったい誰の心の叫びだったのだろうか。
シュトラウスは掌に顔を埋めた。
「ああぁぁぁッ!!!!!!!」
馬車の中まで響く叫びに、シュトラウスは顔を上げた。
「何だ?」
ルノアンを見ても、彼はただ首を横に振るだけだった。
恐らく御者の男の声だった。
シュトラウスは御者台を覗ける小窓に顔を近づけたが、様子を窺う前に馬車が急停止をした。反動で身体が浮く。
「うわぁ!!」
流石に目覚めたルヴィも含め、三人は馬車の壁に頭や肩をぶつけるはめになった。
シュトラウスは脇腹を摩りながら馬車の扉を蹴り開けると、転がるように外に跳びだした。
「御者のおっさん!?」
乾いた土の上に男が倒れている。乗車の際、にこやかな笑みを浮かべていた瞳は閉じられていた。
慌てて傍によって口元に手を翳す。
息はある。
しかしほっと息をついたのも束の間だった。
シュトラウスは気配を感じてとっさに御者の身体の上に折り重なるように身を伏せた。
頭上を大きな影が素早く、風の唸りを上げて通り過ぎた。
「シュトラウス、上だッ!!」
その声に反応してとっさに御者を腕に抱えると、そのままその場から無理やり離れた。
轟音と風の中、たった今シュトラウスと御者がいた場所には、赤黒い皮膚が張り付いた太い尻尾が突き刺さっていた。移動していなかったら確実に二人は串刺しになっていただろう。
馬たちの悲鳴が聞こえる。
朱の光の中に、馬車よりも三倍は大きい生き物が立っていた。
姿はトカゲを大きくしたような生き物だ。だが、トカゲよりも大きな目と大きな口から覗く鋭い歯は、シュトラウスを威嚇するように攻撃的だった。
一瞬ルノアンに視線を向けると、彼はルヴィを抱えて馬車の傍に立っていた。
「ルヴィとおっさんを、安全なところまで!」
「了解したッ」
腰から素早く剣を引き抜き魔族に剣先を向ける。首がいたくなる程見上げなければならない相手だ。
だが、こういう相手と一人で戦ったことは何度かある。どうにもならない相手、というわけではないはずだ。
魔物が再び尻尾を振りかざしてくる。
だが魔物は身体が大きすぎて若干動作が鈍い。シュトラウスは魔物の正面に回り込み、一度腹に切りかかる。
劈くような叫びが上がるが、それでも彼の一撃は浅いとしか言えなかった。とてもじゃないが、致命傷にはならない。
怒り狂う魔物は足踏みをする。地面が微かに揺れた。
シュトラウスは今度、尻尾の付け根を狙うために襲い掛かって来た尻尾を避けると、付け根に思い切り刃を突き刺した。
「ギョエ―――――ッ!!!!」
刺した感触が消える。
同時に腹部に鈍痛が走った。
「シュトラウスッ!!!」
魔物の尾で吹き飛ばされたシュトラウスは、地面に叩きつけられた衝撃で肩と左足を強く痛めてしまった。反応したくても、身体が言うことを聞かない。
「炎帝よッ!」
焦げ臭い匂いが立ち上る。
痛みを堪えて身体を起こすと、炎に包まれている魔物の姿がそこにあった。
だが―――――――
やがて炎は消え、何事もなかったように魔物はルノアンの目の前に立っていた。
「な、ぜだ……っ?」
逃げろ。
そう叫ぶ前にルノアンは吹き跳ばされた。
子供たちが遊びで小石を投げるように、「物」のように。それはいとも容易く宙に跳んだ。
血の気が、引いた。
「ルノアンッ!!!?」
痛みが感じられなかった。
ただその時はとにかく夢中で、シュトラウスは剣士としては大変な失態をしでかした。
剣を置き去りにして、ルノアンのもとに走ったのだ。
「ルノアン!」
地面に倒れている青年を抱き起こす。彼の口からは血が零れていた。
だが、ルノアンに意識はあった。
「馬鹿……者。私よりも先に……」
「しゃべるなッ!!」
だが、魔物は既に二人の真後ろにいた。
振り返る暇がないのは分かっていた。
ただ強く、幼馴染を護るように腕に力を込めた。
「雷神の加護を与え給え!」
誰かがシュトラウスたちと魔物間に割り込んだ気配がするのと同時。
声になっていない叫び声が黄昏の空に響いた。
「お前……は……」
微かにルノアンがそう呟き喘いだ。
後ろを振り向いたシュトラウスは驚愕に眼を瞠らせた。
恐らく女性が――手に持った棒のようなものを、シュトラウスが魔物の尾の付け根に刺した剣に当てていた。
ただそれだけだった。
だが、魔物は身体の一切の動きを止め、その瞳はだんだんと白く濁っていく。
そしてとうとう、大きな身体は力を失い地響きを立てて崩れ落ちた。砂埃に辺りが覆われるが、女性が長い棒を下ろしたのが分かった。
「大丈夫ですかッ!?」
ルヴィが真っ青な顔で走ってきた。
シュトラウスはゆっくりとルノアンを地面に横たえた。
意識はあるが、怪我の方は良くなかった。シュトラウス自身は打撲ですんだようだったが、ルノアンは最悪、骨が折れているかもしれない。ローブの袖をまくった腕が赤く腫れていた。
「添え木をしないと……。ったく、お前、ちゃんと逃げろよなッ!」
八つ当たりなのは分かっていたが、言わずにはいられなかった。
ルノアンは困ったように笑う。
「悪い。どうも運動神経は昔から良くならなくてな……」
ルヴィが肩から提げていた鞄から皮袋を取り出し、その中から薬草を出した。
「助かるよ、ルヴィ」
「いいんです。それよりも、早くルノアンさんの手当てをしないと……」
だがルヴィは薬草を腫れた腕に当てると、その上から彼女の掌をあてがった。彼女はゆっくりと目を閉じた。
「ルヴィ?」
不思議そうなシュトラウスとルノアンをよそに、ルヴィは瞼を閉じたままじっとして動かない。
ルノアンは驚きの声を上げた。
「温かい……。……もしかして、ルヴィは……」
ルヴィの掌から温かい光が溢れる。
傍にいたシュトラウスもその光が心地好いことに気がついた。
「治癒師ね」
いつのまにか女性が三人の隣に立っていた。
近くで見るとまだ少女といっても良い程の年齢だということが分かった。
「その歳で治療専門の魔法が使えるなんてすごいわ。才能あるのね」
褒め言葉にルヴィは顔を赤く染めた。
「そ、そんなことないです。わたし、薬草を使わないと治癒できませんし……。
それに本当の治癒師はもっと早く、しっかり傷を癒せますけれど、わたしではその人自身が持つ回復能力を高めることしかできません」
「ううん。魔術師も治癒魔法は使えるけれど、治癒師に比べたらほんの初歩程度しか扱えないもの。魔術師に比べて治癒師は本当に少ないしね」
「へぇ……すごいじゃないか、ルヴィ」
ルヴィは先ほどよりももっと真っ赤になりながら首を振った。こういう所は本当に可愛らしい少女だ。
「ところで、あんたにはお礼を言わなきゃな。
俺はシュトラウス。助けてくれて有難う」
手を隣にいた少女に突き出すと、彼女は数回瞬きしてその手を見つめた。
彼女は肩にかかっていた金髪を後ろに払った。
「別に、お礼を言われるものではないわ。ただ、知った顔があったから、ちょっと手を出してみただけ」
「え?」
少女は出したままのシュトラウスの手を握ると、微笑んだ。
「まぁ、名前を教えてもらって名乗らないのも失礼ね。
わたしはクリスティーナ・アリス・オルブライト。クリスって呼んでね」
背中まである金髪の髪に青い瞳をしている、なかなか綺麗な女の子である。
おかげで、本当にこの子が魔物を倒したのか首を捻りたくなる。
急にクリスティーナ……クリスは完治とはいえなくても、腕を癒してもらったルノアンのローブの胸元を掴むと、そのまま自分の顔に近づけた。
一瞬キスでも目の前で始めるつもりなのかと、驚いてシュトラウスとルヴィが見ている中、クリスはルノアンの額に…………
――ゴンッ!
頭突きをかました。
分かりづらい場面があるんじゃないかといつもひやひやしています。
今回みたいな戦いっぽいシーンは特に…。