人喰い
早足は次第に小走りになっていた。
さらに坂を上っていき、二人は森の中へと入っていく。木々が生い茂り、太陽の大陸だというのに薄暗く見通しが悪い。
この森は影がよく出るため一般人など滅多に寄りつかない。ガーディアンでさえ仕事以外では入っていこうなどと思う人はまずいない。
そんなことを目の前を行く少女が知るはずもない。それでも陽菜は迷いなく森の中へと進んでいった。
しばらく行き、獣道が開けた広場に出た。奥に苔蒸した石碑がひとつ、佇んでいる。随分古いものだ。
「陽菜、止まれ」
とりあえず何も言わずについてきていた穂積が軽く腕を引きながら声を出すのとほぼ同時に陽菜の足が止まった。
穂積の顔を降り仰ぐ陽菜を見つつ、腕を後ろにまわす。穂積の手首を握ったままだった陽菜は穂積の腕と一緒に後ろへとまわされた。
「下がってろ」
目を閉じる。ざわめく木々の音に紛れてはいるが、確かに感じる。
間違いない。影がいる。
「穂積、」
「お前は俺が何か言うまでそこから動くな。絶対に手出すんじゃねぇぞ」
「・・・・・・うん」
渋々とした返事に若干の不安を覚えたが、気にしている場合ではない。
ひとつ、深呼吸をして右手に全神経を集中させる。陽菜が息を飲む音が小さく聞こえた。穂積の右手に現れた淡い光が次第に凝縮し、実体をもちはじめーー。
「来る!」
陽菜の叫び声と同時に穂積が目を開けて地面を蹴った。
薄暗い森の中に、さらにぽっかりと、まるでブラックホールのように光さえも飲み込んでしまったかのような、真っ黒な影が現れた。
穂積が跳躍と同時に素早く右半身を引き、捻った体の真横からロッドを水平に振り切り森の中の影を薙ぎ払う。影があたりに霧散し一瞬姿を消すが、すぐに霧散したはずの黒い霧状の影が集合しようとする。
地面に着地したと同時にさらにもう一度跳び、集まりかけた影に跳躍の勢いを乗せた突きをあびせ、再び霧散させる。
バックステップで陽菜の前まで戻り、中段にロッドを構えて影と正対する。
目の前の影の色が一瞬濃くなったように見えた。
「前からもう『一匹』来てる!」
後ろから陽菜の叫び声が聞こえた。
陽菜の声が早かったか、穂積が動くのが早かったか。穂積は上に跳んでいた。
真上から垂直に下ろしたロッドはわずかに遅く、かかってこようとした影が横に飛び退いた空間に突き刺さり、逃げ遅れた最初の影が完全に消滅した。
「ああ、そうみたいだな。『人喰い』も一緒とは聞いてないんだけどね」
穂積は目の前の影をひたと見据える。
その視線の先にいるのは森の中に浮かぶ不定形な闇では無い。薄暗い森の中でもはっきりと視認できる、実体を伴う物。
それは確かにそこに存在する。触ろうとすれば触ることができる。逆を言えば、奴らもこっちに触ることができる。
ただひたすらに黒い、四つ足を持つ獣型の化け物。
おそらく、元は狼か何かだろう。
けれど今目の前にいるそれには毛も、顔のパーツすらも見あたらない。多少の凹凸があるだけの、粘性の高いタールのようなヘドロのような体をしている。
心臓の鼓動がやけに早まるのを感じる。人型でなかっただけまだマシと考えるべきか。
「人、喰い・・・・・・」
陽菜の不安そうな声が微かに耳に届いた。
「影には二種類ある。実体を持たないものと実体を持つものだ。実体の無い影に憑かれた人間や動物は、中から魂を喰い殺されて実体のある影になる。そしてーー人を『喰う』んだ」
ロッドを握る手に力が入る。
「実体を持たないものは霧散するうちに勝手に消滅するけど人喰いは霧散しない。そうなったら、殺すしかない」
人喰いに正対したまま穂積が告げる。そうだ。戦うしかないのだ。そうしなければ人喰いはその名の通り人を喰い、殺す。
そうなる前に片をつけなければいけない。そうでなければ自分たちガーディアンが存在する意味がない。
気配を感じて視線だけで振り向くと、いつの間にか陽菜がすぐ後ろにいた。震える手で穂積の服の裾をつかんでいる。いや、震えているのは自分だったのかもしれない。
「・・・・・・穂積、大丈夫?」
「いいから下がってろ、動くなよ」
陽菜の問いに穂積は答えなかった。服の裾をつかむ小さな手を離し、そっと後ろへ追いやる。
大丈夫、実体は持っているがそんなに強い力は感じない。人喰いと言えど確かに小さい。
持ち慣れたロッドを握りなおして、目もないのに視線すら感じるような人喰いを睨み据える。
「くそ・・・・・・団長め、帰ったら覚えてろよッ!」
誰に言うでもなく文句を吐き、穂積はまた戦場へと跳んだ。
こうなったら仕方がない。陽菜が近くにいる以上、まずなるべく少ない手順で影を倒して帰還する。そして団長に文句を言いに行く。それしかない。
影がこちらに向かって伸ばしてきた鋭い爪をかいくぐり、上段へと構えなおしたロッドをまっすぐに獣型の人喰いの真正面、額の中央へ向かって突き出す。
「*******!」
人喰いが耳障りの悪い聞き取れさえしない音を発した。そんな声さえも無視してロッドを額へ突きつけ影の実体に触れるその瞬間、全神経を手の先へ、その延長上にあるロッドへと集中させる。
影が人喰いとなれば活動不能に追い込むまで戦うしかない。しかし、いくら光力の含まれた武器だとは言え、打撃攻撃が主であるロッド使いの穂積では決定打にかける。
そうであるならば。
「吹き飛べッッ!」
光力でねじ伏せる!
高速で繰り出された突きに合わせるように、人喰いの額にぴったりと突きつけられたロッドの先から白い光が迸り、人喰いを後方にある太い木の幹へと叩きつけた。
着地するとすぐにとどめを刺すべく木の根本にうずくまる人喰いへと走る。ロッドを真横に引き、もう一度ロッドへと神経を集中させていく。
そのとき、陽菜の叫び声が聞こえた。
「穂積、後ろ!」
はっとして靴底で土埃を巻き上げながらブレーキをかける。その反動をつかった振り返り際に、視覚よりも先に第六感が捉えた敵に対してロッドを振るった。
「クソッ!」
破裂音が耳をつんざき、視界一帯が真っ黒な霧に包まれる。
どうにか穂積のロッドが命中し、どこから現れたのか、そこに集まってとしていた他の影の群を蹴散らしていた。後ろの人喰いの気配が遠ざかっていく。
ロッドに込めた光力を空中に放出し、一面の霧を晴らす。威力は弱いが視界を確保するには十分だった。
晴れた視界に映ったのは蹴散らしたばかりの影が、すぐに陽菜のまわりに寄り集まろうとしている場面。
陽菜の手が穂積に向かって差し出されていた。事態を把握できていないのか、それとも体が言うことをきかないのか、まっすぐに影を見据えたまま彼女は逃げようとしない。
「あーもう!」
穂積が地面を蹴り、もう一度影に向かって光力を放とうとした時だった。
すさまじい速さで光の尾を引く刃が陽菜と穂積の間に割って入った。それは影に突き刺さり、一撃で影を消滅させた。
一拍遅れて軽やかに着地し、地面に深々と突き刺さった大身槍を片手で引き抜く小柄な少年。
うつむいて顔はよく見えないが、皮膚が日に焼けて浅黒く、顔にはこのあたりではあまり見ないまるで猫のひげのような昔ながらの民族化粧を施している。
大地の民だ。
かつて「巣」の誕生で旧時代から新時代へ突入した際、太陽にも月にも属さず流民の道を選んだ孤高の人々。
「巣」の発生区域にいたという民族。
思考が一瞬止まりかけた穂積がはっとして、声をかけようと口を開いた瞬間だった。大地の民の少年は地面を蹴り、その大振りな槍を穂積に向けて突きだしてきた。
穂積はとっさに後ろへ飛び退き槍をかわそうとする。
違う!
地面を蹴った穂積が後ろにある大木と少年の思惑に気づくとほぼ同時に、少年はすぐに素早く槍を引き戻すと、穂積のいる方へ向かってもう一度まっすぐに次の一撃を放った。
穂積はすんでのところで切っ先にロッドを当て、光力を放つ。
ーー重い!
小柄な体からは想像できないほどの重い突きだ。
槍の軌道をずらし、地面に転がりこむようにして避ける。
少年も光力の反動を受けて吹き飛ぶーーはずだったが、とっさに槍を地面に突き刺して爆風を受け流していた。
最大出力ではないにしても、それほど軽い光力を放ったつもりはなかった。だが少年は穂積の光力の流れを無視して槍を動かせていた。
「誰だ、お前」
穂積が少年を睨みつける。少年は顔を上げずにしゃがんで地面に刺さった槍を握っていた。少年は何も答えなかった。
「何か言えよ」
穂積の言葉には応えず、少年は槍を片手で引き抜くと一足で大きく跳躍する。蹴った地面の土が光の粒とともに舞い上がった。
「おいっ!」
一瞬、目があったような気がした。
少年はあっという間に木々に紛れて見えなくなった。
追いかけようと急いで見渡したが、人喰いの姿も少年の姿もどこにも見あたらなかった。
「何だったんだ、今の・・・・・・」
あたりにはすっかり影の気配が無くなっていた。念のためポケットにねじ込んでいた影感知システムを確認した後、力を抜き手の中のロッドを消滅させる。
一体何が起きたのか穂積は理解できなかった。
一つだけ理解できていることがあるとすれば、今日も稼ぎがほとんどないということだけだ。
あの程度の人喰い相手に。油断した。
「穂積っ怪我は・・・・・・っ!」
陽菜が心配そうに走り寄ってきた。見ると彼女は特に来たときと変わりの無さそうな様子だった。人喰いを取り逃がしはしたが、どうやら陽菜には何の怪我もさせずに済んだらしい。
突発的な事故ならともかく、素人を影狩りに巻き込んでおいてもし万が一怪我などさせてしまっていたら、もうとてもガーディアンなんて名乗れそうにない。
「・・・・・・帰るか」
「うん」
とりあえずそれしか言葉が見つからずぽつりとつぶやいて、苦笑いをしつつ歩き始めるしかなかった。陽菜も返事をして、小さな歩幅で追いかけてきた。
二人して森を抜け、混雑していない住宅街の道を通り本部へと向かう。空にはいつの間にか茜が差していた。
「そういやお前、どうして影の居場所が分かったんだ?」
道すがら、特に話すこともなかったので穂積がなんとなく聞いた。
「声が聞こえたから」
「は? あー、鳴き声? でもそんなの聞こえなかったような」
「ううん、『声』だよ。しゃべってた」
「しゃべってた?」
「うん。しゃべってた」
陽菜がまるで何でもないことのように言う。
声?
穂積はそんな事例今まで一度も聞いたことがなかった。そもそも、影を視認するまでそれらしき音すら聞いていない。
「じゃあ、あいつら何て言ってたの?」
「助けてって言ってる。みんな」
「助けて?」
「うん」
面食らって立ち止まり、思わず眼下の少女の顔をまじまじと見つめてしまった。陽菜もつられて立ち止まり不思議そうに穂積を見上げていた。
妄言だ。
今日一日行動をともにしていなかったのなら、穂積はそう思っていたかもしれない。
しかしにわかには信じられないが、影の居場所を突き止めたことと、突如現れた影が集合して形を成す前に反応したことから考えると、実際に声が聞こえたかどうかは別として、彼女には何らかの方法で影を感知する能力があるのかもしれない。
腕を組んで考え込んでいると、下方からさらに追い打ちをかけるような言葉が聞こえた。
「穂積、もしかして聞こえないの?」
「・・・・・・いや、俺がどうとかじゃなくて、声が聞こえるなんて話聞いたことねぇよ」
「そうなんだ」
今度は陽菜が少し考え込む表情をする。そしてすぐ顔をあげた。その表情は心なし少し嬉しそうだった。
「じゃあ、わたしにも少しはお仕事・・・・・・手伝える?」
ーーああ、そうだ忘れていた。
陽菜にできる事なんて何もないから、と影狩りの仕事を止めさせようとしていたんだった。
「あー・・・・・・それなんだけどさ、」
「お洋服、買えるかな」
そう言って微かにはにかむように笑う少女の顔に、穂積は目眩がしそうだった。




