ジル視点1
俺は四歳くらいのときに、孤児院に連れてこられたらしかった。
誰に連れられてきたのか、それはわからない。
分かっているのは、ジルベールという名前と、この左耳にある玩具のようなピアスが俺の唯一の持ち物ということだけだ。
俺は子供が苦手だ。自分も子供だけど、あの騒がしさが許容できなかった。
……いつもいつも話しかけてくるかわいい女の子にもどう接していいのかわからなかったのだ。
その子は本当に可愛らしい子供だった。
不思議な髪色の--今では、その色がストロベリーブロンドだということはもう分かっている--
澄んだ翡翠のような色をした、アーモンド型のくりっとした大きな瞳は長い睫に縁取られ、肌は白く滑らかに整っている、可愛らしい小さな桃色の唇はふっくらとして思わず触りたくなる程だった。
話したらいいのか? 話していいのか? いつもいつも思いながら話せなかった。女の子は俺にだけ話しかけるわけではなく、みんなに平等に優しく話しかけていた。
俺だけにじゃなかったのか? そしてなぜか俺は逃げ出した。俺にだけ話しかけて欲しかった。俺だけを見て欲しかった。俺にだけその笑顔を向けて欲しかった。
迷子になってしまった俺を探しにやってきてくれたのは、その彼女だった。教会に来るそのままの格好でとても寒そうだったのを今でも覚えている。
俺を見つけて本当にうれしそうに笑顔になった彼女を見て、ああ、この子を俺が幸せにしたいと思ったんだ。それなのに、俺は泣かせてしまった。
一緒になって迷子になり、それでも気丈に泣かなかった彼女。一生懸命道を探して、そして転んだ彼女。白い足に垂れた血を見て、我慢できなくなったのか泣いてしまっていた。
俺はその時、滑らかな白い足に流れる真っ赤な血を見て、ああ、なんて綺麗なんだと思ったんだ。
そして泣き出した彼女を見てはっとした。俺は何を思ったんだ? 怪我をした彼女を見て、心配もせずに見とれてしまうだなんて。
大体俺が逃げたから、彼女はこんな目にあっている。俺の所為だ。なんて思っていたら俺も泣いていた。一体何をしているんだ……と、今でもその気持ちは思い出せる。
すると彼女は俺をぎゅっと抱きしめてくれて安心させるようにぽんぽんと背中を叩いてくれた。俺の所為で泣かせたのに、俺の所為で迷っているのに、彼女は俺を抱きしめてくれた。今まで、誰にも抱きしめられたことなどない俺を。
----彼女を守れる男になるとそのとき俺は誓った。
そして彼女と毎日いるようになった。
彼女はよく笑い、よく泣く、コロコロと表情が変わる、本当にかわいい子だった。
そんな子が、男装して男しか居ない場所に行くという。しかも髪を切ってきた。あんなに綺麗な髪を肩まで切って来たんだ。
止めてもガンとして聞かない。なぜだ!? 男になんてどこからどうみても見えるわけがないだろう!?
……だめだ、言うことを聞かないなら、彼女が行くなら、俺も行くしかない。俺が守るしかない。
今まできちんと勉強などしなかったが、彼女のためなら、やってみせる。
俺はその日から猛勉強をした。
俺は合格した。
平民枠の十名に入れた。俺は心の底からほっとした。
彼女は、そんな俺を当然のように見ている。なぜそう思っているのかわからないが、彼女は俺のことを頭がいいと勘違いしているのだ。
俺は、その勘違いのままで居て欲しい。そのために、勉強を頑張ろうと思った。
入学したその日。
彼女の周りに虫がついた。あれはどうみても、彼女に気があるようにしか見えなかった。
ディノワール家の三男ガスパール。
彼女が微笑んだ途端、呼びとめ、赤くなり、あまつさえ家名を出し、彼女が拒否できないようにした。
奴は、彼女が男には見えていないのだろうか。いや、どう見ても男には見えないが、しかし男だという先入観が彼女を守るはずであったのだ。
これから奴が気付いているのか、気をつけてみていなければならない。
そんなに勘がよさそうには見えなかったが……。
文官のみんなを見回して、俺は少しほっとした。彼女のように小柄な男が大勢いた。しかも、彼女のように綺麗な男もけっこういる。貴族とはすごいものだな。……これなら隠せるかもしれない。
十歳になった。
ガスパールが俺と彼女の食事時に邪魔をしてくるようになった。
デザートや果物という、俺が免除で貰えないものを選んで持ってくるようだ。こいつは、見た目以上の策士だ。
やはり気をつけなければならない。
十一歳になった。
このごろ彼女の身体は丸みを帯びてきている。自分でわかっていないのだろうか?
昨年とはまるで違う……側によると昔とは違う甘い香りがする。俺はいつもくらくらしてしまう。部屋もそうだ。他のやつらの部屋と全く違う甘い香り。廊下から扉を開けるとものすごくわかる。だから、他の奴らは絶対に入れさせない。
あと、そろそろ……っ胸も……隠さないといけないというのに、これは俺が言うしかないのか? 柔らかそうなふくらみが出てきているのがわからないと言うのか!? それを俺に言えというのか……? どんな拷問だ!?
しかし困った。
保健の授業なんて俺は耐えられない。隣からはふわっとしたあの甘い香り。そしてなぜそこまで丁寧なのかというくらい丁寧な授業。……ついつい、想像してしまう俺。
手を握ったり開いたりしてなんとか自我を保っているが、自分でも危険だと思っている。授業が終わる頃にはぐったりしている。
風呂の見張りもそうだ……。水音、曇りガラスの中にかすかに見える肌色。上がってくる一瞬。衣擦れの音。服を着てる後だというのに、見てしまう俺。……少しだけ見えるうなじ。ほのかに赤く染まる肌。そして密かに香る石鹸の匂い。たまに髪から垂れる雫が白い首に伝わり落ちる。
どんな拷問なんだ!?
なぜ俺は一緒に来るなんて言ってしまった!?
いやだめだ。他の男が彼女の側にいるなんて考えるのはもっと耐えられない。
ガスパールに向ける笑顔に嫉妬する。奴から貰ったお菓子を美味しそうにほおばる柔らかそうな唇。奴から貰った果物を剥き汁で汚れる白く細い指先。
……俺は一体なにを見ているんだ……。
自己嫌悪に死にそうになる。
それなのに、他の奴らと話している彼女をみると嫉妬し、また自己嫌悪に陥る。俺は俺じゃないようだ……。
なぜみんなは彼女を男だと見ていられるんだ? 頭がおかしいとしか思えない……。
朝は朝でまだ続く。
彼女はまだ起きる気配はない。俺はつい何の気なしに布団を少し引っ張り、ふくらんだ胸が呼吸にあわせて隆起する様子を眺める。そう、彼女はまだ何も隠そうとしないのだ。今はまだ、制服で見えてはいない。でもそろそろ、本当にどうにかしないといけない。
先に俺がおかしくなってしまう。
伏せられたまつ毛はまだ起きる気配がない。すっと通った細い鼻は、見るからに弱く繊細で、庇護欲をそそる。
なにより、その下にある柔らかそうな唇が俺を釘付けにする。白い肌の中にそこだけ鮮やかなそれを見ていると、思わず喉が鳴る。口付けしたくなる。ここには二人しか居ない。
ふっと顔を近づけそうになる俺。
揺れるまつ毛……。慌てて離れる、そして深呼吸して気を落ち着かせる。
「……ジル~、もう起きたの? いつも早いね~。おはよう。」
かすれた声で俺の名前を呼ぶ、その声に身体が震える。
落ち着け。
いつもこうやってギリギリの線を我慢している。
俺を誰か褒めてくれ……。
そうこうしてるうちに、彼女に泣きつかれた。
初潮が来たらしい。
俺は一瞬にして保健の授業を思い出す。……初潮とは、女の子が女性、大人になるために必要な身体の成長。成長。ふっと呼吸に合わせて隆起していた柔らかそうな胸を思い出す。
カッと顔に血が上る。
くそっ、気付かれるな!! 俺は顔を隠す。照れているように見えているだろうか。心臓の動悸が激しい。
何も言えずにおろおろしている俺を横目に、彼女はなにか準備を始めた。
そのうち、街に買いに行ってくると出て行こうとする。
ちょっ 待っ
「俺も行く。」
かろうじていえたのは、それだけだった。
馬車に乗ると、彼女は段々青白くなっていった。お腹が痛いのだろうか。どうしたらいい? どうすれば彼女の痛みをとれる?
……俺は分からなかった。せめて今度から痛み止めの薬を持っておくことにした。
彼女は馬車を降りてから着替えるから見張りをお願いと言い出した。
余りのことに俺は「えっ!!?」としか言えなかった。ここで? 着替え? いまいちわけが分からなかったが、まだ青白い顔をしている彼女が気になって「分かった」と答えた。
彼女は木の影に行き、着替え始めた。
俺は見張りをしようと思ったのだが、欲望に負けた。彼女の着替えを覗いてしまったのだ。
っっ!!?
彼女の華奢な身体は驚くほど白く、肌が淡く発光しているように見えるほどだった。俺は思わず息を呑んだ。
変装のつもりなのか、普段おろしている髪をまとめ上げて、白いうなじをあらわにするその仕草に、俺はどうにかなりそうだった。
彼女がこちらを向く前に、何食わぬ顔で見張りを続けるつもりだった。
いやどう考えても無理だ。
顔が熱い。心臓がおかしなくらい高鳴っている。これは完全にアウトだ!
絶対にバレる……いやだ……彼女に嫌われたくない。
彼女が来ても顔を合わせないようにして口元を隠してすぐに街に行こうと言った。少し早歩きで来てしまったが、申し訳なかった……。彼女はお腹が痛いのに、俺のわがままで急がせてしまった。
反省しながら彼女の買い物を待つ。
すると、俺の目の前にサラシになるような布があった。
……神は俺に罰を与えたのだ!
俺は何とか彼女にサラシを買わせることに成功した。 俺の精神はガリガリと削られている……。
それなのに、俺はまた罪を犯した。さっき罰をくだされたばかりだと言うのに、俺はまた欲望に勝てなかった。
俺はまた彼女の着替えを覗いてしまった。どうしてもダメだった。惹き付けられるように、見てしまった。
正直に言おう。夕日に照らされ白い肌が赤く染まり、まるで情事の後--そのような本くらい学園にいくらでもある--のようだった。手を握ったり開いたりしながら、気を落ち着かせているうちにいつの間にか学園に着いていた。
……このままでは、いつか彼女に無理やり触れてしまうかもしれない? いやダメだ。それは絶対にダメだ。
考えてみろ……例えば、俺を見るあの綺麗な翡翠の瞳が嫌悪に染まるかと思うと想像でもダメだ吐きそうだ……。
なんて一瞬口を押さえていると、急にシリルと聞こえて意識が浮上した。
なんだ?
と、彼女が先生と話している。「今度教えてください!」なんてうれしそうに笑っている。
俺は先生に嫉妬した。
俺が教える。
うん、彼女は地図を読み取るのが苦手なようだ。
見ていると、地図をくるくる回している。何をやっているのか全くわからないが、とても可愛らしい。