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少しすると澪は10時の約束のために会社を出て行った。それまで、飯田が澪に元気を出させるために気分が沈みこまないようにと気を遣って明るい雰囲気で楽しく会話を盛り上げてくれた。それもあって、出かける頃には、幾分、気分も回復してしていた。飯田の気持ちを考えると心苦しいが、本当に飯田の優しさには助けられる。
『澪、しっかりしろ、この仕事は1人のものじゃないんだから。』
澪はそう言い聞かせて自分を律すると、元気よくクノチアキのスタジオ兼事務所を訪れた。
「ああ、澪ちゃん、こんにちは!待ってたのよ。」
事務所にはいるとスタジオの奥でスタッフと打ち合わせしていたチアキがわざわざ出てきて満面の笑顔で出迎えてくれた。チアキは倉元と同じ年らしいが、とても30代には見えない。一見するとシャープできりっとした顔立ちのクールなアーチストに見える。ところがその容貌とは裏腹に豪快で竹を割ったような性格というか、底抜けに明るくさばさばした気質の女性なのである。今の澪にとってはその明るさが気分的にも助けられる。
「いつ見ても綺麗ね。澪ちゃん。ねえ、今度メイクさせてよ。」
「ええっ?いいんですか?」
澪が嬉しそうに驚きの声を上げるとチアキは満足そうな表情を向けて近づいてくる。
「あたりまえよ!こんないいモデルがいるのにほかっておくほうがどうかしてるわよ!あ、でも、澪ちゃん、ちょっとこっちに来て。あなた夕べ寝てないでしょ?化粧ノリ、いただけないわね。ちょっと直させて。」
そう言ってチアキは澪を引っ張っていってスタジオの方の大きな鏡の前に座らせた。そしてどこかからチアキの商売道具が山となって積まれているワゴンを引いて傍にもどってきた。
「ちょっと、仕事忙しすぎなんじゃない?昨日倉元が来てね、澪ちゃんに仕事増やしたって言ってたからもしかしてそのせいなんじゃない?」
そう言いながらもすぐに澪にケープをかけてヘアバンドで髪を上げると慣れた手つきでクレンジングしていく。
「いえ、そんなことないですよ。倉元さんには本当感謝してますから。すごいお仕事を回してくださってうちのスタッフもやる気満々なんですよ。あ、チアキ先生、また、ショウではお世話になります。」
クレンジングが終わってチアキが手を離した隙に澪がぺこっと頭を下げる。その様子を鏡越しにちらっと見て澪に笑いかける。
「いいのよ。この話はこっちから振ったことだし。私もいい仕事できそうだしね。Beauの新作この間見せてもらったでしょ?俄然やる気になったわよ。ステキだったわ。香麗堂は品質や発色は本当ぴか一にいいんだけど、デザインがね、イマイチだったのよ。それが今回はいいわ。あれ、澪ちゃんのアイディアなんでしょ?シンシア社に持ち込んだの。」
澪は照れながら頷いた。
「そうよね、だって、今までとぜんぜん違うもの。しかも限定でしょ?予約でどの位伸びるか楽しみよね。私も雑誌でがんがん宣伝しておくわ。試作品ね、使いやすいし、発色もいいわ。なんせ、パールの技術はすごいわね。仕上がりには本当に満足できたわ。だから、ショウで使いたいと思ったのよ。森川ちゃんなんかはこんなのすごく好きだと思うわ。今から楽しみね。」
チアキは楽しげに語りながら澪の肌にスキンケアをたっぷり塗りこんで睡眠不足で乾燥しがちな肌をよみがえらせて行く。さすが百戦錬磨のプロである。
「わあ〜。肌にハリ感が戻ってる!さすがですね!チアキ先生。」
「ははは。こんなの朝飯前よ。人気がある子は忙しいから不規則でこんなもんじゃないのよ。それを撮影用に仕上げなきゃいけないんだもの。これくらいなんてことないわよ。さて、あとこのクマをナントカしないとね。美人が台無しよ。」
澪がクスっと笑った。
「え〜?どうしたの?」
チアキが楽しそうに鏡越しに澪に視線をやる。
「いえ、ここに来る前にうちのスタッフに同じこと言われたなと思って。」
「ああ、もしかしてこの間一緒にいたイケメン飯田君のこと?」
「えっ?ええ。良くわかりますね。」
「そりゃあ…。」
チアキはクスクス笑う。
「なんですか?」
澪はチアキがあまりにも笑うのでぽかんとして無邪気に尋ねた。
「ああ、彼は澪ちゃんにぞっこんだったものね。」
「ええ〜っ!なんでそんなこと!」
澪がぽっと顔を赤らめる。
「あら、澪ちゃん気付いてたの?」
鏡越しのチアキと目があって一瞬ドキッとする。
「えっ?いえ、その…。棚橋さんに…。」
「ああ、棚橋?あいつ本当におしゃべりなんだから。」
手島企画は映像制作会社のため、チアキとも一緒に仕事をするので当然面識があるのだが、それだけではなかった。驚いてしまうのだが、元のご主人らしいのだ。はじめに聞いたときには驚いた。しかし、二人はなぜか友達のように仲がいい。夫婦は向かないから友達になりましょうと協議離婚をしたらしいのだ。その後二人とも独身を続けている。
「でも、チアキ先生はどうして?」
「えっ?見てればわかるわよ。いつもあなたのことを見ていて、守るように傍にいるんだもの。あれでわからない人はよっぽど鈍感だわよ。あなた倉元も振ったでしょ?倉元もはじめに飯田君のことを気にしていたもの。」
と言うことは気付かなかったのは澪本人だけということになる。どうやら鈍感は澪のことらしかった。その事実に愕然として澪は深いため息をついた。
「はあ〜。」
チアキが澪の様子を見てクスクス笑う。
「澪ちゃん、ほんといいキャラしてるわよね。その年にしてその天然さ。ステキよ。だから倉元が惚れちゃうのよ。私も男だだったら絶対澪ちゃんに惚れるわ。」
「ええ〜っ?先生ってば…。」
澪が顔を赤らめて恥ずかしがっている様子を鏡越しでちらっと見ると、チアキは豪快に笑いながらベースメイクを丁寧に塗りこんでいった。
「お手入れするとほら、こんなに肌綺麗よ。澪ちゃん。」
そう言ってベースメイクまで完了した姿の澪の隣に立って鏡越しに笑いかける。
「わあ〜。自分の肌じゃないみたい。すごいですね。やっぱり先生はすごいです!」
そういって澪がボケ振りを発揮すると、またチアキが豪快に笑った。
「…ちょっと澪ちゃん、ほんとあなたっていいわね。いつも相手にしてる子たちはね、たいがい自分を自慢するわよ。やっぱりあなたはモデルには向いてないわね。」
「えっ?それってほめてます?」
「そりゃもちろん、さすがあの倉元を惚れさせた子ねって意味よ。」
澪は倉元の話を出されるとまだちくっと心が痛む。
「なに?気にしなくてもいいのよ。倉元だって割り切って仕事してるし、そんなことで塞ぎこむような奴じゃないわ。まあ、もちろん、まだ未練たっぷりみたいだけどね。まあ、いいんじゃない、それでまた一段と男に磨きがかかるから。かっこいい男になるでしょ。奴は。」
チアキはそう言い放つと手早くメイクを施していった。
「わあ、ステキ。澪さん、綺麗ですよ。」
澪とチアキの周りにスタッフが集まってくる。
「ほんとステキ!先生、写真取りましょうよ。」
中でも小柄の20代半ばぐらいのスタッフがチアキに声をかけた。
「そうね、こんな機会めったにないもの。ねえ、澪ちゃん、このスタジオに飾るだけなら許してくれるかしら?」
「え?私の写真を?」
「そう。澪ちゃんの写真。ほんと綺麗だもの。」
チアキにあんまりいい表情でニッコリ笑ってほめられたので、澪は思わず頷いてしまった。
「OK?そう、じゃ、早速。」
そういうとチアキは澪をスタジオの中央にある撮影用のステージに立たせた。撮影用のスポットライトとレフ板をスタッフが手際よく調整していく。
「さっちゃん、OKだから撮影始めて。」
さっちゃんと言われる専属の女性カメラマンがカメラをセットすると、ファインダーを覗きながら周りのスタッフに細かい支持を飛ばす。
「澪ちゃん、もう少し右に頭を傾けてそう。あ、行きすぎ。はい、ちょっと戻して。はい、カメラの方を見てニッコリ笑って。う〜ん、もう少し力抜いて。リラックスしてね。」
澪はカメラを意識すると妙に緊張してぎこちなくなる。そんな澪にチアキがすかさず声をかける。
「ああ、今度倉元と一緒に3人で打ち合わせしない?ショウの段取りもうじき仕上がるって倉元がいってたわ。」
「えっ?あ、はい。お願いします。時間は合わせますので。」
そうチアキに返答すると澪は嬉しそうに笑った。その瞬間カシャ、カシャっと連続してシャッターを押す音がする。
「澪ちゃんいい笑顔だったわよ。」
さっちゃんと言われたカメラマンがファインダから顔を上げてニッコリと笑った。チアキはまた豪快に笑う。
「ほんと澪ちゃん、いいわ。仕事の話のほうが緊張しないんだもんね。」
「えっ?じゃあ、今の…。」
心配そうに千秋の顔を見たので、チアキはニッコリ笑っって返した。
「うそじゃないわよ。真面目なお・は・な・し。来週早々がいいんだけど、澪ちゃんどう?」
「来週ですか。はい。あ、でも、月曜日は今回の新製品の企画の説明会をしますのでチアキ先生にもご足労いただこうかと思ってまして。」
「ああ、前に言ってたやつね。空けてあるわよ。あれ、3時まででしょ?その後は?倉元も来るんでしょ?」
「はい。もちろんです。」
「じゃ、終わったら3人でうちあわせしましょ。その後、倉元においしいもの食べさせてもらいましょうよ。奴はグルメだからいいところ連れてってくれるわよ。」
チアキが含み笑いをして澪に視線を向けた。
「はい!お願いします。」
澪は満面の笑顔で応えるとその様子にチアキは満足げに頷いた。撮影の後、澪はランチがてらチアキとレジントンでの件の打ち合わせをすませて会社へと戻って行った。