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その晩、澪は流星を待ったが、何度か携帯に連絡を入れてみたものの返事はなかった。不安で眠れない夜を過ごした澪は、朝、流星の様子を見に行ってみたが、昨晩は帰らなかったようだった。澪は昨日の上条の顔が思い出されて、さらに不安で胸が一杯になった。母親に朝食はいらないといって早くに家をでて会社に顔を出した。
まだ7時前の会社にはほとんど誰もいない。社内ネットで調べると、今日も流星は2号にこもる予定らしい。香麗堂のブランドひとつ丸ごと連結子会社として独立させようとするためのプロジェクトチームで今は架橋に入っているらしく、かなり仕事がハードのようだった。
澪は2号の会議室をノックしてみた。返答がない。そっとドアを開けて会議室にはいるとPCの前に伏せって眠っている流星を見つけた。その途端、澪はほっとして取り越し苦労だった自分を笑った。ゆっくり近づくと端正な流星の横顔が目に入ってくる。澪は優しく流星の柔らかい髪をすくようになでるとかがんで頬に唇を近づけた。その瞬間、いつものエゴイストの香りではなく甘ったるい官能的なローズの香りがふわっと鼻をかすめた。昨日すれ違ったときに感じた上条の香水の匂いだった。澪はその場に固まった。あまりにショックで気が動転して会議室から逃げるように出て行った。
午前7時を少し過ぎたころ、飯田が出勤してきた。
「先輩、めちゃくちゃ早いですね。どうしたんですか?」
いつものように元気よく笑顔で声をかけたが、澪は無反応だった。返事をするようなそんな余裕がなかったのだ。PCの画面は確かにタイムスケジュールの作成中の画面だが、キーボード上の指はとまったまま画面を凝視している。
「先輩?」
飯田は澪の様子が変なことに気付いてとっさに澪の腕に手をかけた。
「先輩!ちょっときてください。」
飯田が厳しい顔をして澪を引っ張って立たせる。
「い、飯田君?…ちょっと…!」
飯田が澪を無視して強引に引っ張って一番近くの5号会議室に入った。そして澪を椅子に座らせるとその横に座って澪の顔を覗きこんだ。
「先輩、何があったんですか?」
「…。」
「流星先輩と何かあったんですか?昨日からおかしいですよ。」
澪は黙っている。飯田は少しイラつくように澪の肩に両手をかけて自分の方に向かせた。
「俺に言えないようなことですか?」
いつもはさわやかな笑顔を携えていかにも好青年といった様子の飯田が、辛らつな顔して真面目に怒っている。それでも澪は言えるわけがなかった。棚橋から飯田が自分に特別な感情を持っていると聞かされたからには流星とのことでも気軽に話すわけにはいかない。
「先輩。俺は先輩に笑ってて欲しいんですよ。何かあったなら言ってくださいよ。」
澪があまりにも辛そうな顔してそれでも黙っているので、飯田はとうとう耐えられず、澪を抱き寄せた。
「ちょっと…!飯田…くん?」
澪が驚いて飯田から離れようとしたが、飯田の強い力でねじ伏せられた。女のか弱い力では到底かなわないと思い、澪は諦めて飯田の胸に顔をうずめた。飯田の胸は温かく、ほんのりさわやかに香るシトラスが気分をリラックスさせるようで、気付くと澪は涙が溢れ出していた。
「先輩?」
飯田が澪の顔を覗き込む。
「泣いてるの?」
暖かい手で優しく頬をなでて澪の涙を拭い取る。
「何があったんですか?話してみて下さい。」
澪は優しく耳元で囁く飯田の顔を見上げた。そこにはいつもの後輩じゃなく、優しく見守る男の顔があった。飯田はニッコリと笑って頷く。澪はその笑顔にどうしようもなく縋りたくなって呼息を深く吸い込んて呼吸を整えた。
「流星が昨日帰ってこなかったの。朝、2号で眠っていたから、徹夜で仕事してたんだと思って近づいたら、バラの香水の匂いがして…。昨日、3号で打ち合わせの前に、2号から出てくる上条さんとすれ違ったの。挑戦的で勝ち誇ったような顔をされたわ。その上条さんの香水の香りだったの。だから…。」
「そんなはず…。流星先輩は先輩しか見てませんよ。そんなはずないですよ。確かに少し前にちょっとだけ付き合ってしてましたけど…。流星先輩が先輩を裏切ることなんてありえませんって。」
飯田は不安気な表情を見せる澪を前に流星を庇った。
「でも…、だったらなぜ流星にバラの香りの残り香があるの?おかしいわ。」
澪の目からまた涙があふれる。飯田は、澪を安心させるようにもう一度抱き寄せると子供をあやすように背中をやさしくぽんぽんと軽くたたいた。
「大丈夫ですよ。何か理由があるんですよ。流星先輩はそんな人じゃないですって。俺が後で聞いてきますから先輩は心配しないで仕事に打ち込んでください。」
澪はとっさにまた、棚橋の言葉を思い出した。
「えっ?でも…。そんな…。飯田君にそこまでさせられないわ。私、自分で…。」
飯田はまた澪の顔を覗きこんでニッコリと笑って澪の唇に指を当てて話をさえぎった。飯田の表情はどこまでも優しい。
「いいんですよ。先輩のためなら俺は何でもしますよっていつも言ってるでしょ?頼れる後輩なんだから。」
「でも…。飯田君?なぜ私にそこまでしてくれるの?これは仕事じゃないんだし…。」
澪がおそるおそる飯田に尋ねると、飯田が少し驚いたような表情をしたが、すぐにニッコリ笑った。
「いつも言ってるでしょ。先輩が好きなんですってば。」
「えっ…?」
飯田があまりにもストレートに言ったので澪はあっけに取られた。
「俺は、この2年ずっと先輩のこと好きでしたよ。でも、先輩は流星先輩が好きなことははじめから知ってましたし、流星先輩も先輩のことが好きなのは昔から傍で見ていて知ってましたから。俺は流星先輩のことも好きだから二人に幸せになってもらいたいんです。そりゃあ、本当にくっついちゃったときはちょっとさびしかったですけど。でも、先輩が幸せそうに笑ってるから二人をこれからも応援しようと思ったんですよ。先輩を泣かせるなんて流星先輩をとっちめてやりますよ。いい加減なことをするんなら俺がもうらうぞってね。」
そういって飯田は澪に微笑んだ。
「とにかく、俺が話を聞いてきますから、先輩は仕事に打ち込んで待っててください。ほら、もう泣かないで。」
そういって飯田は再び澪の涙を優しく拭い取ってやった。
「先輩、美人が台無しですよ。今日はクノチアキさんのところへ行くんでしょ?そんな顔してたらカリスマメイクアップアーチストの前で恥ずかしいですよ。」
飯田は優しく微笑むともう一度澪を抱きしめた。
「もう、大丈夫ですから…。元気でましたね?」
澪は不思議と飯田の声を聞いていると安心できて、少し元気が湧いてくるような気がしてコクリと頷いた。
「さ、仕事しましょ。俺、コーヒー買ってきます。会社のじゃなくて、今日はスタバのトールをおごりますよ。それで元気回復してくださいね。」
そう言って澪を支えて一緒に立ち上がった。飯田は澪を前に促して一緒にデスクまで行くと、澪を座らせて自分はスタバへと出かけて行った。
幾分落ち着きを取り戻した澪はちらっと2号の会議室に視線をやったが、頭を振るとすぐに仕事にのめりこんで行った。