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そのあと互いの経歴やさしさわりのない上條と御堂の仕事がらみの話をして食事は和やかに進んだ。ただし、江怜奈だけは聞かれたことを応えるのがやっとで、食事も満足に喉を通らないようだった。最後にデザートまですべてのメニューが出されてしばらくすると、國臣の胸で携帯が震えた。
「失礼」
そう言って着信の相手を確認して電話に出た。
「うん。そうだな。わかった。すぐに行く」
話の雰囲気で外で待たせている秘書からのようだった。國臣は電話を切ると、功一郎に向かってこの後、得意先と約束があることを告げた。
「はい。今日はありがとうございました。わざわざお時間を割いていただきまして」
國臣は恭しく頭を下げる功一郎の態度に満足したのか、ニッコリ笑って江怜奈に声をかけた。
「では私達は退散しますから、この後、拓海とゆっくりしてください」
そう言って國臣は立ち上がって挨拶するとその場を立ち去った。國臣とその妻を全員で見送ると、功一郎と華絵も私達もそろそろと拓海に丁重に頭を下げると、後に続いて退出していった。その部屋には拓海と江怜奈の二人きりになった。途端に江怜奈はそわそわして落ち着きのなさをあらわにしはじめる。その場をどうしていいかわからず、江怜奈は部屋の奥の庭が見える大きな窓ガラスの傍に逃げるように移動する。拓海はその様子にクスッと笑うと江怜奈に後ろから近づいた。
「今日は会えて嬉しいよ。江怜奈さん」
そう言って後ろから肩に手を回す。江怜奈は巧みに触れられた瞬間、ビクッと体を跳ねさせたが、そのまま固まったように動かなくなった。
「…どういうことなの?」
拓海はクスクス笑う。
「貴女は全く覚えてないんだね」
江怜奈は困惑していた。確かにどこかにおぼえがあるようだが、思い出せないでいた。
「小さい時、夏に何度か伊豆高原の別荘に行った覚えはない?貴女と貴女のお姉さんと真海兄さんと毎日一緒に遊んだはずだよ?」
江怜奈はそう言われて記憶をたどる。しかし、覚えがあるようなないような感じで訝しげな顔をした。窓ガラスに困惑した表情が写る。
「ひどいな、忘れてしまったの?俺はずっとあの時から貴女を思っていたのに」
そう言って拓海は肩に置いた手に力をこめて後ろから江怜奈を抱きしめる。江怜奈は背中から拓海の体温が伝わってくると、またふっと既視感に見舞われた。確かにこの匂い、この感じは覚えがある。懐かしく江怜奈を包む。拓海はじっとしている江怜奈の耳の傍に唇で触れた。熱い吐息と柔らかな唇。江怜奈は電流が走るかのように体を震わせた。
「ふふ。いろんな男を連れてるからもっと慣れてると思ったら、意外と敏感で初々しいね」
「なんっ…」
江怜奈は途端にかっと体に熱いものが走る。体がカタカタと震えて思わず顔を上げた。目の前の窓ガラスには拓海がじっと江怜奈を捉えているのがうつっていた。視線が合った途端、その目に江怜奈は囚われてしまってまた動けなくなってしまった。拓海の瞳は一度目をあわせるとその黒い深い闇のような瞳に吸い込まれて我を忘れそうになる。
「いつまでも心を隠さないで。本当の貴女は素直で寂しがりで…、そして誰よりも愛に飢えている」
江怜奈は一瞬心臓を一突きににされたかと思った。逃げようと咄嗟に拓海の腕を振りほどこうとするが、拓海の腕は容易に振りほどけない。
「逃げないで。貴女自身を見つめるんだ。心の奥底に置いてけぼりにされて、泣いている本当の貴女に気付いて」
江怜奈は急に息苦しくなって心拍数があがってくる。どくどくと心臓の鼓動は激しく打ちつけ、いつの間にかびっしり汗をかいている。
「はな…して…お願い…」
それでも拓海は抱きしめる力を緩めない。ガラス越しにじっと漆黒の深い瞳がまっすぐに江怜奈を見ている。
「江怜奈さん、本心を隠さないで。俺なら貴女を守ってあげられる」
江怜奈はさらに呼吸が荒くなり、いつのまにか汗なのか涙なのかわからないものが頬を伝っている。
「やめ…はなし…て…。はあっ、はあっ、…お願いっ!」
それでも、拓海は離してはくれなかった。
「君はその心に何を隠している?」
「やめ…っ!」
江怜奈は耳を塞いでその場に崩れ落ちそうになる。拓海は力をこめて江怜奈を支えた。
「お願い…やめ…て…、ヒック、ヒック…」
江怜奈はしゃくりあげて子供のように泣き崩れている。拓海は江怜奈を抱き抱えて傍にあったソファに座らせた。その時、ドアをノックする音が鳴り響く。扉が開くと、部屋係の仲居がお飲み物を持ちいたしましたとすっと入ってきた。黙々とテーブルにもってきた飲み物のグラスを丁寧に配り分けると、置いてあった空いた器を片付けた。そして立ちさろうと顔を上げた拍子に江怜奈がソファに突っ伏して息が荒くぜいぜいしていることに気がついて声をかけた。
「どうかなさいましたか?お客様?ご気分でも?」
拓海はため息をついて仲居に応えた。
「ああ、ちょっと気分が悪くてね、横にさせたところだ。車を呼んでくれるかな?」
「は、はい。ただ今すぐに」
仲居はあわてて部屋を出て行った。拓海はもう一度ため息をつくと、胸ポケットから携帯を出して電話をした。
「ああ、拓海だけど。休み中悪いな、今から一人見て欲しいんだ、ああ、そうだ」
拓海が電話を切ったあと、さっきの仲居がやってきて、タクシーを一番近い裏手につけたことを告げたので、拓海は礼を言って江怜奈を抱き上げると裏口へ向かった。