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なんなのあの女!

あの余裕はなんだっていうの?


江怜奈はエレベーターに消えた澪の見せた行動に沸々と煮えたぎる思いを抑えられなかった。白くほっそりとした手はいつの間にか爪が食い込むほどに強く握られ、その肌は今にも破裂せんばかりにぱんぱんに張りつめ、真っ赤に染まっていた。江怜奈はしばらく澪が消えたエレベーターの閉じられた扉を強く睨み付け、まるで動きを止められた人形のようにその場に立ち尽くした。


バカにしてる!あの女も私を見下している!許さない!


江怜奈は体の奥から突き上げるような衝動にわなわなと震えた。


 その日、江怜奈は澪の顔が脳裏にこびりついて離れず、ムカムカして自分を抑えきれない。突き上げてくる感情に翻弄されて仕事どころではなく、残りの仕事を後輩に強引に押しつけると、適当な理由で半休をとって早々に退社した。春日流星は自分の手の中にあるはずなのに、なんなんだろう?なぜ敗者のような苦い思いを噛みしめさせられるのか?江怜奈はそんな思いに駆られて何かに追い立てられるように時折小走りに夢中で歩き続ける。そして交差点の赤信号で立ち止まった節に、はっと我に帰って周りを見回した。気づくと江怜奈は見覚えのある通りに佇んでいた。そしてその向こうには見慣れた店が目に入る。交差点の角から3軒目のビルの一角に浮かぶダークブラウンの重厚に閉じられた扉にはバレリアンの文字が見える。


なんなの?これ?なんでここなの?あんな男なんか会いたくもないのに!


江怜奈の脳裏に瞬間、拓海とのことがフラッシュバックしてくる。拓海のどこか覚えのある懐かしい匂いや体のぬくもりが鮮やかに蘇る。それだけで心臓はばくばく破裂しそうなほど強く江怜奈の胸を打ちつける。体中のすべての血が熱とともに逆流してくるかのように江怜奈は全身をぶるっと震わせた。しかし、体の芯からこみ上げてくる熱とはうらはらに手足は血の気がひいて嫌な汗がにじんでいた。江怜奈はこの震えを抑え込もうと自分の体を強く抱きしめてみる。しかし、震えは強引に抑え込めたとしても、この体の奥から湧き上がるような熱は自分の中でわけのわからない塊となって江怜奈を不安にさせた。江怜奈は目を閉じて空を仰ぐ。夏の夕方は日が高くまぶしい。目を閉じていてもまぶしさが瞼を通して伝わってくる。そして皮膚をじりじりとてりつける日ざしは夕方になってもまだうだるような暑さを引っ張り、不快指数をさらに上昇させる。まだ16時を過ぎたところで、憂さ晴らしに夜の街に出るには早すぎる。江怜奈はイラつく気持ちを押さえ込み、重いため息を吐くと、仕方なくきびすを返して歩きだした。




「あら、お帰りなさい。珍しく早いのね、江怜奈さん。」


江怜奈は自宅の玄関で怪訝そうに顔をあげる。継母の華枝が目に入った。その微笑みにはどこか冷ややかで陰湿な陰をさす。江怜奈はその顔をちらっとみただけで、すぐに視線をそらすと、無言で鮮やかなイエローのエナメル素材のサンダルを脱ぎ捨てて、返事もせずに華枝の前を通り過ぎようとした。


「江怜奈さん、挨拶ぐらいするものよ。」


華枝がその微笑みを崩さずにその背後から声をかける。江怜奈は一瞬足をとめたが振り返ることなく、不服そうにただ今と一言ぼそっと返してまた歩きだした。


「そうそう、今晩お父様が江怜奈さんにお話があるそうよ」


江怜奈は一瞬ビクッとして立ち止まる。


「話ですって?私にはないわ」


そう言って再び足を進めようとするとさらに華枝が続けた。


「大事な話みたいよ。必ず居るようにとお父様からの伝言よ」


「…そう、…珍しい。どういう風の吹き回しかしら?どうせろくでもない話ね。で、何時までいればいいわけ?」


江怜奈が背を向けたまま剣のある風に問い正す。


「あら、またお出かけ?夜の街で楽しむのは結構だけど、上条の名にキズがつくようなことだけはやめてくれるかしら?」


江怜奈がカチンときて振り返る。ちょうどそこへ腹違いの弟、優貴ゆうきが帰宅してくる。


「ただいま」


「あら、優貴さん、お帰りなさい」


優貴は玄関で華枝の姿を認めると、ややあどけなさが残る穏かで優しい顔にふわっと柔らかな微笑を浮かべた。靴を脱ごうと玄関の奥までやって来てはじめて、華枝の向こうの階段の傍に江怜奈の姿を目に留める。


「ねえさん、帰ってたの?今日は早いね。」


ぱっと頬を紅潮させ嬉しそうな表情を見せると、優貴が江怜奈を追いかけようとやや慌しく靴を脱いだ。優貴が江怜奈に近づこうとするのをさえぎるように華枝が一歩踏み出し、優貴に話しかける。


「優貴さん、今日、浅野先生はお断りしたわ。明日に振り替えたから。」


優貴が脱いだ靴を隅に寄せようとかがんでいた頭を持ち上げて不思議そうに華枝を見上げた。優貴はその辺りでも有名な私立中学の3年生で、その上の高校へ進学するには問題のない成績だが、さらに優秀な生徒が集まる進学校を受験しようと、週3回は進学塾に通い、あと半分は家庭教師の専門の会社から浅野という教師が派遣されてきている。


「今晩はお父様が江怜奈さんに大事なお話があるみたいなの」


「ねえさんに大事な話?」


優貴は不可解だという表情で華枝に向き直った。華枝はその表情ににっこりと微笑んで頷いた。優貴はちらっと江怜奈に視線をやった。優貴と華枝のやり取りに立ち止まって背を向けていた江怜奈は一瞬振り向いた時、優貴の視線と重なったが、すぐに江怜奈が視線をそらしてそそくさと階段をあがっていってしまった。

 江怜奈は昔からこの優貴が苦手だった。優貴は華枝と父、上条功一郎かみじょうこういちろうとの間に生まれた、上条家待望の長男である。もともと江怜奈は双子の姉茉利奈のことで功一郎との間に確執があったのだか、優貴が生まれたことで江怜奈は完全に孤立してしまった。優貴は頭がよく、素直で大人にかわいがられる方法を生まれながらにしてもっているようで周りの関心を一心に集めた。江怜奈はこの愛らしく誰にでも素直で純粋な優しさをみせる優貴とどうしてもまともに顔をあわせることができないでいた。優貴を見ているとなんだか良心を咎められているような気分にさせられるのだ。優貴の方はと言えば幼い頃からねえさん、ねえさんと江怜奈に好意的に慕ってくる。そのたびに江怜奈は適当にはぐらかして逃げるのが精一杯だった。


 その晩の食事の時間は、華枝が言うとおり、珍しく父も早く帰り、家族全員そろっての夕食となった。江怜奈は無言で誰とも目をあわさないようにもくもくとサラダをほおばっている。功一郎は珍しく機嫌よさそうにビールを飲みながらチラッと江怜奈に視線をやる。


「江怜奈、話と言うのはな、見合いの話だ。今週の週末をあけておきなさい」


江怜奈がフォークで野菜をつつこうとしてピクッと固まった。


「見合いですって?」


江怜奈が訝しげに功一郎に視線をやった。


「ああ、御堂グループの会長のお孫さんだ。幼い頃に御堂家の別荘に何度かお邪魔したことがあるだろう?」


功一郎は表情を変えることなく江怜奈の顔も見ずに返事をする。


「御堂?」


御堂グループとは功一郎の経営する会社に大きな利益をもたらす大口の得意先の企業グループである。江怜奈は功一郎から視線をはずすと何かを思い出すような表情を浮かべた。功一郎はまたチラッと江怜奈に視線をやると話を続けた。


「なんだ、忘れたのか。まあいい。その御堂家のご子息がな、お前を指名してきているのだ」


「私を指名?」


疑うような目つきでもう一度功一郎を見る。


「ああ、お前どこかで会ったのか?」


「まさか、会うわけないわ。しらないわよ」


「そうか。まあ、お前は知らなくとも、先方はとにかくお前を指名している。詳しいことは華枝から聞きなさい。相手に失礼のないように準備するように華枝に言ってある。」


「ちょっとまって、私は嫌よ。いかないわ。断わって頂戴」


功一郎は少し顔をこわばらせて江怜奈と視線を合わせる。


「我侭は許さん。おまえもそろそろ落ち着いてもいい歳だ。いつまでもふらふらと夜中遊びまわってるんじゃない。せっかく先方がお前を是非にといってくれてるんだぞ。こんなチャンスはめったにない。いい話じゃないか」


「いい話ですって?冗談じゃないわ。お父様の都合でしょ?私は結婚相手ぐらい自分で選ぶわ」


「何を生意気なことを。お前が連れてくる男は信用ならん。私は許さんぞ。どこの馬の骨かわからない奴に上条の血はやれん。お前だって一応上条家の端くれだからな」


「父さん!そんな言い方はないだろ?ねえさんは…」


優貴が見かねて割って入る。


「お前は黙っていなさい。子供が口を挟むものじゃない」


ピシャリと言い放つと功一郎は険しい視線を優貴に向けた。優貴はその視線にビクッとしておずおず黙り込む。


「有無は言わさん。今週土曜日に御堂家のご子息に会ってもらうからな」


「嫌よ!」


江怜奈が凄い剣幕でフォークを握っていた手でバンッと食卓を思いっきり叩いた。その音に功一郎の顔色が変わった。


「私の言うことが聞けんのか?江怜奈?」


厳しい顔で睨み合いを続ける。功一郎が厳しい顔つきで鋭い視線を江怜奈に向けている。一瞬、その場の空気が凍りついた。江怜奈は息を飲む。しばらく息が詰まりそうなくらい張り詰めた空気を振るわせたのは江怜奈だった。江怜奈はおもむろに立ち上がると、不服そうに低い声でつぶやくようにわかったわ、と一言言い放つとそのままダイニングルームを逃げるように出て行った。


「ねえさん!」


優貴が追いかけようと立ちあがろうとすると華枝が優貴の腕を掴んだ。


「優貴、ほおって置きなさい。」


「でも…。」


勇気が不服そうに座って、上目遣いで華枝を見た。


「優貴、貴方は将来この家を継ぐ人よ。今は勉強のことだけ考えなさい。大人になればわかるわ」


優貴がぱっと顔を赤くしたかと思うとその優しく穏かな顔を険しくゆがめた。





優貴は食事の後、早々に勉強するからと部屋に引き上げた。優貴は何か考え込むような面持ちで階段を昇り、自分の部屋へと向かった。部屋の扉の前で立ち止まるとしばらくじっと考えて、決意したように顔を上げて振り向いた。じっと斜め向かいの閉じられた扉を見つめる。


ねえさん・・・


心の中でつぶやくと自然と江怜奈の部屋の前に立っていた。優貴は少し戸惑いながらも意を決して扉をノックする。


「ねえさん。」


返事がない。優貴は張り詰めていた気持ちを吐き出すように息を吐いた。


「ねえさん、いるんでしょ?返事して?」


返事どころか物音さえしない。


「ねえさん、ごめんなさい。僕、力になってあげられなくて…。大丈夫?」


やはり扉の向こうは静かだった。


「ねえさん、開けるよ?」


優貴がドアに手をかけるとドアには鍵がかかっていて動かない。


「ねえさん、開けて」


優貴がドアをどんどんと拳でなんどか叩いた。


「優貴、別にたいしたことじゃないわ。私に関わらないほうがいいわよ。貴方はこの家の跡取りなんだから父さんや母さんのいうことをきいて勉強してなさい」


ドア越しに淡々として感情のない言葉が返ってくる。


「ねえさん、でも…」


優貴が心配そうにつぶやく。


「いいから、優貴。私出かけるの。邪魔しないで」


江怜奈は相変わらず感情のない話し方で優貴を拒む。


「ねえさん!」


優貴が悲痛な声で呼びかけるが、それからは返事も物音もしなかった。江怜奈に拒絶された優貴はじっと恨めしそうに堅く閉じられた扉を見つめて立ち尽くした。しばらくすると、深いため息をついて、重い表情で自分の部屋にもどっていった。


優貴…


江怜奈は苦しげな切ない表情を浮かべてじっと優貴が去る足音を聞いていた。







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