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「じゃ、お先に」
「上条先輩おつかれさまでしたー」
秘書課の後輩たちが一様に笑顔で江怜奈に声をかける。江怜奈はその笑顔に応えることもできずにちらっと一瞥しただけで、そのまま席を立った。後輩達は緊張した面持ちで江怜奈を見送る。
「ねえ、今日は午後から最悪だったわよね」
「そうそう、どこかに出かけて帰ってきた時なんか超ご機嫌ななめで…。最近かなりひどいわよね。なんかあったの?」
江怜奈が外へ出たとたん秘書課の後輩達が声を潜めて話し始める。江怜奈は職場でも、いいにつけ悪いにつけ影響力は強い。居ればまわりがちやほやしてくるが、居なければこんな風にひそひそと悪口をたたかれる。
「さあ。でも、最近企画の春日さんとあやしいらしいから、なんかあったんじゃない?さっきも企画室に向かって行ったし。」
「えー?春日さん?あんな超イケメン!まさかつきあってるの?ショック!ファンだったのに。」
「でも、本気かどうか。今までもほとんどのイケメン手玉にとって、すぐ捨ててるでしょ?」
「春日さんて、ちょっとクールで何考えてるかわからないところあって逆に遊ばれてたりして。」
「ちょっと、めったなこというんじゃないわよ。聞こえたらやばいって。」
江怜奈はIDカードを読み取らせようとする手が一瞬ビクッととまる。しかし、何事もなかったように聞こえないフリしてカードを読み取らせると足早に秘書室を出た。
どうせ誰もわかりはしない…
江怜奈は心の中でそうつぶやいた。
それでも、さっきの流星のやりきれない悲痛な顔を思い出すと何かどろどろした気持ち悪い塊が胸にへばりついているような不快感にさいなまれた。
なんだっていうの?
心にべったりはりついたヘドロのようなものの存在を打ち払うように、高いヒールの音をコツコツと響かせてすばやく大股で外へ出る。ビルの入り口の自動ドアをくぐると、途端に喧騒的な車の音に巻き込まれ、同時にじとっとした熱気でよどんだ空気が江怜奈の白い肌にまとわりついてきた。江怜奈は一度はひるんで立ち止まってため息をついた。それでも、今の自分には似合う気がして、気持ちを強引に立て直して足を前に進める。しかし、昼間の熱気を含んだ重く息苦しい空気は江怜奈の体に深く入り込んで、何かどす黒い塵のようなものを沈殿させていくような気さえする。吐きそうなほど気分が悪い。江怜奈はますます、心の中にゆがんだ闇をを積み重ねていった。
どこ行く当てもなく、どこをどう歩いたのか、江怜奈は気付くとバレリアンの付近に来ていた。
なんでここなわけ?
ふと3日前のことが頭をよぎる。
―貴女はあの人を愛してない。
胸がむかむかする。まっすぐ向けられた真っ暗で闇のように深い瞳。江怜奈はあの瞳にさらされるのが酷く怖かった。
なんだっていうのよ。あのバーテン。
あれから、時々あのバーテンの顔がちらつく。そのたびにあの夜の闇のような黒い瞳で心の奥底をじっと見透かされるような気がして何度となく震え上がった。思わずじとっと手のひらにいやな汗をかく。
ばかね、江怜奈。あんな奴気にしなければいいのよ。
そう言い聞かせ、苦笑いしてきびすを返そうとした。しかし、その瞬間、そのまま江怜奈は身動きが取れなくなって立ち止まってしまった。江怜奈の心拍数は急激に早くなる。
「ああ…。俺は帰るつもりはない…。ああ、もういい加減にしてくれない…」
拓海は顔を上げた瞬間、そう言いかけて携帯電話を握ったままその双眸を見開いて呆然と立ち尽くした。しばらく二人は目を逸らせずにじっと見つめあう。江怜奈にとってはまるでそこだけ切り取られたように異空間となって、時間がとまった気がした。拓海も目を見開いてじっと江怜奈をその瞳に捉えたままだ。
『もしもし?拓海さん?聞いてるの?』
拓海の右手に握られた携帯電話から声が漏れる。それでも拓海は動かない。江怜奈もだまって見返した。
『拓海さん?聞いてるの?』
拓海は江怜奈を見つめたままその整ったクールフェイスを一瞬崩して微妙に笑みを浮かべた。そしてゆっくり電話に戻る。
「気が変わった。今の話。考えてやってもいい。ただし、条件がある。あとで連絡しなおす。」
そう言って拓海は電話を切った。しかし、その漆黒のような瞳はまだ江怜奈を捉えたままだ。江怜奈は逃げ出したい思いにかられるが、なぜか体が動かない。江怜奈はゴクリと唾液を飲み込んだ。口の中は乾ききっているのか、やや粘る唾液は酸味と苦味が入り混じる。心拍数はさらにあがって脈打つたびに全身に響きわたり、まるで体中から危険を知らせてくるかのようだ。
何してるの?江怜奈?こんな男どうでもいいじゃない。早くこの場から去るのよ。
そう言い聞かせるのにやっぱり体は動かない。江怜奈は近づいてくる拓海の真意を量ろうとその美しく整った顔を必死な思いで見つめるが、その顔には感情は現れず、いつもカウンターで見せるクールな表情がそこにあるだけだった。
「江怜奈さん…。悲しい顔してる…」
江怜奈は途端にカーッと身体の血が逆流したかのように体中が総毛立つ。
「なんですって?わ、私は別に…」
拓海はそれまでの無表情な顔を微妙に動かし、そのクールな目を細める。
「悲しい顔…。心が泣いてる」
「なっ…!」
一瞬、拓海の顔に同情するような表情が現れたのを捉えて、さらに江怜奈は心拍数があがる。
「し…失礼ね!この間といい、今日といい、なんなのよ!いったい!」
江怜奈は拓海を牽制するような態度で威嚇するが、それでも拓海は表情を変えずにその深く漆黒のような瞳を江怜奈に向けたままゆっくりと近づいてくる。
「自分を偽らないで。江怜奈さん。」
それでも江怜奈の体はいうことをきかない。頭の中を拓海の言葉だけがリピートして、体は芯からわなわなと震えてだしてきた。拓海は江怜奈の至近距離に立つとゆっくりと江怜奈の頬に手を伸ばした。江怜奈は一瞬ビクッとする。拓海の手は暖かい。あの闇のように暗い瞳のイメージとは全く意に反してやさしく心を包まれた気がした。江怜奈はふと既視感にみまわれる。
どこかで…。
江怜奈はどこか遠い記憶を探るように目を閉じた。
「泣かないで」
拓海の酷く優しい囁きに江怜奈ははっとして我に返った。目を開けた途端、間近に拓海の漆黒のような瞳を捉えて、江怜奈は一瞬息が止まりそうな気がした。まるですべての血液が一気に溢れだしたように体中が痛い程脈うっている。体は熱い。視線を逸らそうにも拓海の漆黒のような瞳から逃げ出せない。
この感じ、どこかで…。
拓海の瞳は自分の内面まで見透かすようで、江怜奈は心臓をぎゅっと掴まれたように息苦しさを感じていた。それでもそんな瞳にさらされながら江怜奈は何かを思い出そうと眉間にしわを寄せつつ記憶を辿るように目を細める。拓海はそんな江怜奈にかまう様子もなく、頬に触れている手とは反対の手で肩に手を回すとゆっくりと江怜奈を自分の胸に抱き寄せた。江怜奈はそんな拓海の行動にも拒むようなそぶりはみせず、何かにあやつられているかのようにぼうっと一点を見つめて、おとなしくされるがままにしている。拓海は今までのクールで無表情な顔をふっと柔らかく崩すと一転して優しい穏かな表情を見せた。そしてその張り詰めてこわばっている背中に穏かにそっとさするように触れてやる。すると江怜奈は驚く風もなく、自分から拓海に体を預けた。拓海の腕の中で江怜奈は頭のどこかで必死に記憶を検索しているのだが、大きく肩で息を吸って呼吸を整えようとするものの、その意識は徐々にぼんやりとしていくようだった。江怜奈は目を閉じてもう一度息をゆっくり吸い込んでみる。拓海の匂いが心地よく鼻に触れた。同時に江怜奈はなぜかひどく懐かしい気がして何か遠いもやっとした物の存在を感じた。思い出しそうで思い出せない。
この感覚は何?誰…?
緊張してこわばっていた体もふっと力が抜ける。拓海の体温が酷く心地いい。
「江怜奈さん…」
江怜奈は拓海に名前を呼ばれてはっとして我に帰ると、真っ赤になって拓海を思いっきり突き飛ばした。
「さわらないで!」
江怜奈は拓海を鋭くきっと睨みつけたが、次の瞬間、ひどく困惑した表情を見せると、あわててその場から逃げるように走り去った。拓海は追いかけることなく、その小さくなる後姿を真顔でじっと見つめていた。