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スタジオ・チアキ AM11:00
「先生、そろそろ倉元さんいらっしゃる頃ですよ」
スタジオ・チアキの若いスタッフが、奥のガラス張りのミーティングルームに資料を広げ、スケッチブックを広げて難しそうな顔をしたチアキに声をかけた。
「え?ああ、聡ちゃんか。もうそんな時間?わかったわ。きりのいいところで切り上げるから倉元が来たらスペシャルコーヒーでもてなしてお待ちいただいて」
そういってチアキはかけていたあめ色の縁のスクエア型のメガネをはずすと聡ちゃんと呼ばれる若いスタッフに冗談っぽく返事を返した。
「はい。わかりました」
スタッフはやや吹きそうになりながらも嬉しそうに返事をする。どうせ、煮詰まっているので今切り上げてもいいのだが、倉元はこのスタジオでも人気者で、周りの若いスタッフの女の子たちにとっては倉元とのわずかな談笑がとても至福の時らしいので、チアキはいつもわざと倉元を待たせる。実はこれはスタッフサービスの一環なのだ。毎回スタッフ達とひとしきり話をして盛り上がった頃にチアキは腰を上げる。これが日常だった。
チアキはもう一度書き直そうとペンをとるが、すぐに描いていた手を止めてスケッチブックを持ち上げると、少し遠くに退いて眺める。そして、ふうっと深くため息をついたかと思うと、ふと顔を上げた。すると、ガラス越しに倉元の姿が見えた。スタッフの女の子達に囲まれて何やら楽しげに談笑している。チアキは冷めたコーヒーを飲みながら、時折その姿を眺めては一向に進まない描きかけのデッサンを見つめてもう一度ため息をついた。
何が問題なの?チアキ。
チアキの頭の中には眠っている澪を愛おしそうに見つめる倉元の姿がフラッシュバックしてくる。チアキは描きかけのデッサンの上で止まっていたペンに当たるかのように荒っぽくデッサンをぐちゃぐちゃと塗りつぶした。
もう、何だって言うの!倉元のまわりにはいつだって女の影があったじゃない!今更なに?チアキ!お前は倉元の親友だろう?変な気を起こすんじゃない!
そう言い聞かせると塗りつぶしたデッサンの紙を大胆にやぶって自分のもやもやした気持ちを払拭するかのようにクシャっと握りつぶした。その姿を一瞬視界に捉えた倉元は苦笑いした。
「なんだかお宅の先生、今日は荒れてるね。デッサンすすんでないの?」
「ええ、倉元さんの仕事じゃないんですけどね、ただ、めずらしくデザイナーが気に入らないらしいんですよ。世界で有名なデザイナーだからふつうだったら飛びつく仕事なんでしょうけど、先生、どうにも気に入らないらしくて…。以前多大にお世話になった人に絡むんで気が進まないけど、断われないらしいんですよ」
近くにいたスタッフの小野田聡美がややため息交じりで応えた。
「ひょっとして武居光洋かい?」
「えっ?倉元さん、ご存知なんですか?」
「ああ、知ってるも何も俺も彼の仕事何度かしたことがあるからね」
「そうなんですか?チアキ先生が嫌う程なんかかわったところでもある方なんですか?」
「えっ…?変わって…、いや、ある意味かわってるかもしれないな。今は海外でも名の通ったデザイナーだが、高校が一緒でね、俺達。チアキはあの通り美人だろ?おっかけまわされてたのさ」
そういうと倉元はふくみ笑いをした。
「ちょっと!倉元!余計なこというんじゃないわよ」
倉元が声のするほうにキャスターのついた椅子ごと振り向いた。
「やあ、チアキ。ご機嫌斜めだね」
倉元は社交辞令にようによそ行きの笑顔でニッコリと笑った。
「ちょっと、なに、そのよそ行きの笑顔は。気持ち悪いわ。聡ちゃん、コーヒー私にも入れてくれる?」
そう言ってチアキは空になったカップをスタッフに差し出した。
「はい。うんと濃いのがいいですね。先生」
聡美にそう念を押されてチアキは「はいはい、それで」と気のない返事を返す。その様子を見て倉元はまわりのほかのスタッフたちに肩をすくめてややため息をついた。
「倉元!仕事があるんでしょ?午後から澪ちゃんがやってくるわ。早くかたづけてランチにいきましょう。延長したら、コンビニ飯で我慢してもらうわ」
チアキは倉元を一喝すると、倉元の向かいの空いた席にどかっと腰掛けた。
「荒れてるな〜。チアキ。そんなにみっちゃんを毛嫌いしなくたっていいだろ?今じゃ押しも押されぬ世界的デザイナーだぞ?」
「わかってるわよ。デザイン自体は嫌いじゃないけど、どうしてもあいつの顔が浮かんできてイメージがこわれるのよね。ああ、早くこの仕事終わらせたいわ。まったく」
クスクス倉元がわらう。
「相変わらずだな、そのみっちゃん嫌い」
「大きなお世話よ」
チアキはフンと憂鬱そうににため息をつくと聡美が持ってきたコーヒーをスタッフのトレイから取り上げるとゴクリと飲んだ。
「アツっ!」
「あ、先生大丈夫ですか?」
倉元はさらに笑い転げた。
「倉元っ!」
「はいはい」
倉元はチアキに怒鳴られてもまだわらっている。
「コンビニ飯決定!」
「えっそりゃないって、チアキ!せっかくいいところ予約しておいたのに」
「じゃ、あんたのおごり」
「はいはい」
「商談成立ね、さ、はやいとこ仕事の話すませましょ」
「了解」
そういってバックから資料を出すと倉元はそれまでのリラックスムードの顔からビジネスモードの顔にかわった。それからしばらく熱く二人でバトルして折り合いをつけると、チアキが立ち上がった。
「OKじゃ、そういうことでいきましょう。まってて、上着とってくるわ」
そう倉元に言い残すとチアキは奥のミーティングルームに引っ込んだ。
「さすがですね〜。仕事となるとチアキ先生も倉元さんも別人のようですね」
聡美がコーヒーのマグカップをかたづけに来て倉元に話しかけた。
「ほんと、倉元さんってチアキ先生と仲いんですね。なんでも知ってるみたい」
「ああ、付き合い古いからね」
「高校時代からですか?」
「そうだね、高校に入学したときに同じクラスだったんだ。女のくせにえらくさばけててなんだか気があってね、仕事も仕事だし、それで今に至るんだ」
「へえ、長いですね、でも、恋人になったりしないんですか?すごくお似合いにみえるんですけど。私達よく噂してるんですよ」
「ああ、よく言われるけどね、チアキとはなんにもないよ。親友のようなほら、会社なら同期の仲間のようなそんな感じ・・・」
ガタンっ!
大きな物音に倉元とスタッフが振り返ると、そこには床に突っ伏していた。
「なにやってるんですか?先生。大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないわよ、誰?こんなところに荷物置いたの!足引っ掛けたじゃない!もう!」
チアキは悔しそうにその荷物を手で平手打ちする。
「先生ですよ。ほら、昨日。頼まれた本、どこに置きましょうかっていったらすぐに使うからとりあえず入り口の脇に置いてって…」
聡美の言葉にチアキは床に突っ伏したまま、悔しそうに絶句していた。そして仕方なく立ち上がろうとするとすっと目の前に倉元の大きな手が差し出された。その手の先を見ると倉元が心配そうにチアキに視線を向けてくる。
「そそっかしいな。慌てなくても俺は逃げないよ。俺のおごりだろ?ほら、立てよ。チアキ」
「…ふんっ。当たり前よ」
チアキはバツが悪そうに真っ赤な顔をして倉元と視線を合わせないようにすると差し出された手をとり、立ち上がる。
「ほら、バッグ」
「余計なお世話よ」
そういって倉元からバッグをもぎ取るとスタスタ歩いてスタジオを出て行ってしまった。
「だいぶ動揺してるみたいですけど、よっぽど詰まってたんでしょうか。先生」
「さあ?いつもは理路整然としてソツがないけど、時々ね、あんな風にあぶなっかしい時があるんだ。どんなに有名なアーチストになってもそんなとこはかわらないな」
倉元は懐かしそうに目を細める。
「倉元っ!いつまで待たせる気?早くしなさいよ!」
「怒ってる怒ってる。倉元さん、先生のご機嫌取りよろしくお願いしますね。」
倉元が苦笑する。
「倉元っ!」
「はいはい、今行くよ」
ドアの外に聞こえるように大きな声で叫ぶ。
「じゃ、行ってきます」
そういって微笑む倉元に聡美はよろしくお願いしますと丁寧に頭を下げた。倉元はチラっとそれを視界に捉えると、軽いため息をついてすぐにドアの外で待ちぼうけしているチアキの元に急いだ。その姿を見送った聡美は振り向き様に近くにいたひとつ先輩のスタッフに話しかけた。
「お似合いだと思うのにな。チアキ先生は絶対貴方についていきますタイプじゃないから、よっぽど大人な人じゃないとだめなんだろうな」
「あら、じゃあ、倉元さんぴったりじゃない。あんな子供っぽいところ倉元さんがいるときしかみられないでしょ?倉元さんだってなんだカンダいってチアキ先生のわがまま聞いてあげてるし。結構無理言われてもちっともいやそうじゃないしね」
「そう言えばそうですね。ああ倉元さんにきまった人ができるのは許せないけど、チアキ先生なら許しちゃう!」
聡美が手を組んで祈るような仕草をしていると、そこへチーフの三谷が割り込んできた。
「ほら、いつまでも噂話で盛り上がってないで一番の人、休憩はいって」
「はーい」
聡美と先輩スタッフが同時に返事をして自分のデスクに戻っていった。
「ほんとにもう、人の噂だけは一人前なんだから。」
三谷は軽くため息をついてぼやくようにつぶやくと自分もデスクに戻っていった。