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流星は相変わらず、空きの会議室をみつけては、早朝から深夜までこもる毎日だった。流星の所属する企画部のもともと担当している仕事もあるが、大きく成長したブランドをひとつ独立させるためのプロジェクトも担当しているため、そのプロジェクトも架橋に入り、このところますますハードワークが強いられた。睡眠も食事も不規則で身体の疲労はピークに達している。それでも、頭の中は一瞬たりとも澪のことから離れられない。仕事に没頭できたら…忘れられたなら幸せなのに…。時折、キーボードを打つ手を止めて画面をうつろにながめている。
流星は家にもたまにしか帰っていない。着替えを取りに行く程度だ。家にかえれば、嫌でも澪に出くわしてしまう。それにも増して、自分の部屋にいれば、思いが通じてから二人で過ごした濃密な時がどうしても蘇る。澪の匂い、甘い声、なめらかな肌の温もり。すぐそばにいるのに触れられない、抱きしめてやりたいのにできないつらさに耐えなくてはならない。少し前までは甘く愛を紡ぐ場所だったのに今の流星には拷問のような場所と化していた。
結局、しかたなく流星は逃げるように会社の比較的近くに住んでいる大学時代の友人の家に転がり込んでいる。その友人もまた大手の証券会社に勤めているので、激務をこなすために帰らない日も多い。たまに帰っても寝に帰るだけのようで、頼んだら事情もきかず、女作る暇もないし、誰も来やしないから好きに使えと言って、快く鍵を渡してくれた。
いつもなら飯田を頼るのだが、今回ばかりはそれはできなかった。飯田は事情を知っているだけに頼れば優しい男だから必ず受け入れてくれる。しかし、今回ばかりは傍で飯田を見ているのもつらいのだ。こんなことがあるまで飯田が澪を好きだったことは微塵も気がつかなかった。澪に関心がある男はことごとく排除してきたのに灯台元暗しだった。流星はふと飯田を思いやった。あいつもこんな気持ちにずっと耐えていたのか。好きなのに、すぐ目の前にいるのに触れたくても触れられないもどかしく苦しい思いに耐えてきたのか。流星は今更ながら、自分がいかに盲目的に澪しか見てこなかったかを思い知らされる。
流星は自嘲気味に笑う。身から出た錆。ずっと自分の気持ちを適当にごまかしてきたツケだ。
甘んじて受けるしかない。澪の悲しむ様子を考えるとすべてを捨ててでも澪のもとに帰って抱きしめてやりたい。
でも、あんな危うい江怜奈を捨ててはいけない。精神が不安定でいつ衝動的に自殺をはかるかわからないのだ。ここのところ前にも増して起伏が激しい。まるで腫れ物のようだ。しかし、あそこまで追いつめたのは自分のせいだ。澪のために江怜奈の心をもてあそんだ結果だった。しかも腹には自分の子までいる。江怜奈を愛することはできないが、自分が蒔いた種だ。甘んじて受け入れるしかない。しかも2つの命がかかってるのだ。ひとつは江怜奈、もうひとつは自分の子である。自分の後始末は自分でやるしかない。このまま澪を愛する心は閉じ込めて…。しかし、この大切な思いは自分の宝だ。ずっと死ぬまで心の奥底に秘めて誰にも触れさせない。代償にすべてを江怜奈に与えても、この心だけは触れさせない。自分の物だ。そして澪の…。自分にはそれしかない。澪には飯田と言うとことん優しい男がいる。自分じゃきっと幸せにしてやれないのだ。澪には飯田の方が幸せになれる、流星は心の中で呪文のように自分にいい聞かせた。
ふとノックの音がする。はっとして我に帰ると淡々と返事をした。入って来たのは江怜奈だった。上条はしばらくだまって流星の顔を眺める。大きくて少しきつめの目を見開いて強烈にまとわりつくような視線を投げてくる。流星は江怜奈のこの視線がどうにも苦手だった。以前付き合っていた頃にはそんな目をしたりはしなかった。このゆがんだ思いを映し出させるようになったのは自分の所為だ。この美しい女の心を狂わせたのはすべて自分の所為だと流星は自分に言い聞かせる。耐えろ。流星。
「なに?」
「そっけないのね。愛しい女が目の前に現れたっていうのに」
「なに言ってるんだ。ここは会社だぞ」
「あら、あなたがそんなこというなんて思わなかったわ。以前はところかまわず女を口説いてたくせに」
江怜奈は流星から視線をはずさずにニッコリと何か企むように笑って、流星の傍に近づいた。そして流星の白い頬を愛おし気になでると唇を重ねてきた。流星もそれに無条件に応える。江怜奈が深く流星を味わった後に耳の傍で囁いた。
「今夜つきあって」
「今夜は仕事がたまってるんだ」
江怜奈はこめかみをピクッと動かした。
「私の言うことが聞けないの?」
口調には微妙に怒りがこめられていた。流星は一瞬はっとした。江怜奈を怒らせてはいけない。少し躊躇して小さくため息をつくと諦めたように言った。
「わかった。8時までは時間をくれないか。それまでにできるだけ片付けたい」
流星はPCの画面に目をやったまま、低い声で答えた。
「わかったわ。じゃ、8時に」
そういって江怜奈は上品に微笑むともう一度流星にキスして去っていった。あとに残った江怜奈のバラの残香が流星をいつまでも足枷のように流星を苦しめた。