17♯
今日集まったスペシャリストを一通り送り出したあと幹部を見送ると、会場には澪と飯田だけが残った。
「お疲れ様でした。先輩。」
「お疲れさま。飯田君のおかげで資料も間に合ったし、大成功だったわ。ありがとう。」
澪は少し疲れた表情を見せながらも飯田をねぎらった。
「いいえ、僕はサポートしたまでです。先輩の仕事はすごいですよ。一緒にやってるとわくわくさせられますから。いい仕事させてもらって、俺のほうが感謝です。」
「ありがとう、いつもそうやって優しい言葉をかけてくれるから、つい頭に乗ってしまうわ。」
澪が飯田にほんの少し笑いかける。しかし、飯田には酷く寂しい笑顔に思えた。それでも、飯田には今の澪の姿を目の前にすると流星のことには触れられなかった。触れてはいけないような気がしたのだ。澪は今、必死に堪えて立っている。飯田はこみ上げてくる思いを押さえつつもどかしさを感じていた。
「先輩、頭にのっていいですよ。先輩は本当に才能のあるステキな人ですよ。」
そういって飯田は優しく澪に笑いかけた。
「あ、先輩、5時ですよ。今日はこのまま、片付けて終わりましょう。久々に残業飯じゃなくてちゃんと晩御飯食べに行きましょうよ。僕がおごりますから。」
「えっ…、あ…、でも、今日はもう少し仕事していきたいから…。」
澪がやんわり断わろうとすると飯田がすかさず制した。
「なにいってるんですか、明日でも間に合いますよ。明日はチアキ先生のところに午後でしょ?僕も手伝いますから大丈夫です。それに先輩このところ働きすぎです。病み上がりの体にむちうっちゃいけません。また倒れたりしたらどうするんですか!」
飯田が少しきつい口調で澪に畳み掛けると頼りなさ気に澪が微笑んだ。
「大丈夫よ。」
その澪の様子に飯田は押さえ込んでいた気持ちが堰を切ってあふれた。
「大丈夫じゃないです!」
飯田が澪の華奢な両肩を大きな手でしっかり掴むとじっと顔を覗きこんだ。
「大丈夫じゃないんですよ。あなたは。張り詰めていて今にも切れそうだ。そんなに自分を追い詰めないで。」
飯田が悲しそうに澪の目をじっと見つめてくる。そして我慢できずに強引に自分の胸に引き寄せて強く抱きしめた。
「ちょっと、飯田くん…?」
一瞬飯田の腕から逃れようとするが、澪はすぐに力を抜いた。飯田のシトラスの香りが鼻に触れる。この香りはどこか心を穏かにしてくれるそんな気がする。
「あなたが、聞くなといえば俺はもう何もいいません。でも、俺はあなたを守ります。だから、俺の言うとおりにしてください。このままではあなたはあなたを保てなくなる。流星先輩のことが好きでもいい。俺はその気持ちごとあなたを受け止めるから。いつも傍で支えますから。あなたの弱い心を隠さないで。」
澪は一瞬ビクッとしたがそのまま押し黙った。飯田はそこに触れないつもりでいたのに押さえきれず思わず口にしてしまったことを悔やむような表情をしていた。しかし、澪がじっとしていたのでそのまま更に強く抱きしめた。飯田は澪の悲しみをすべて覆いつくすかのように大丈夫俺がいるからと心の中で呪文のように繰り返した。飯田はもうしばらく腕の中に澪を抱きしめていたかったが、何かに気付いたかのようにすっと澪の体を離した。
「さあ、先輩。早く片付けていきましょう。」
そういっていつものさわやかな笑顔で言うと資料を片付け始めた。澪はしばらくの間と惑ったような様子を見せたが、結局、何も言わず、最終版の見本をケースの中に収めはじめた。その様子をちらっと横目で飯田が見たが、やはりそのまま何も言わず片付けに専念した。
会場を片付けたあと、二人はデスクに戻り、少しルーチンワークをこなして5時半に会社を出ることができた。飯田が連れて行ったところは京都風の上品な感じのお店だった。
「へえ、飯田くんにシテはめずらしいところにくるのね。」
「え〜、酷いな。先輩。僕だって少しはこういうところにもくるんですよ。」
飯田は食欲のない澪にあわせてあっさりしたものが多いだろうと気を遣って京風料理の店を選んでくれたらしい。飯田らしい、さりげない気遣いに澪は頭があがらない。飯田のやさしさは今の澪の傷ついた心に甘く優しく浸み込んでくる。
飯田が軽口をたたいて澪を笑わせるなどなるべく重い話にならないように気を使ってくれていたせいか、はじめはあまり箸がすすまなかった澪も、少しずつ料理を受け入れていった。
「美味しい…。」
澪に明るい表情が戻ってきたようだった。飯田はその様子に優しく目を細める。
「よかった。先輩を連れてくから味が確かな所じゃないとと思ってここにしてよかった。実は棚橋さんとよく来るんですよ。ここ。」
「へえ、通りで飯田くんにしては渋い好みだと思ったわ。」
澪はクスクス笑う。
「え〜。先輩ってば俺を誤解してません?俺結構大人ですよ。」
飯田がふくれっ面ですねた表情をする。こんな飯田とのやりとりを澪は普段から気に入っている。仲のいい姉弟みたいでついかまいたくなるのだ。
「瀬川くんと仲よさそうだし、ほら、総務の女の子たちとよく飲みにいくでしょ?あれ見てると、こんな大人な雰囲気考えられなくて。」
「瀬川と一緒にしないでくださいよ!あいつは特別お子様なんですから。しかもしつけられてないから野生児なんです。山猿と一緒ですから、いつ先輩にかぶりつくかわかりませんからね、半径2メートル以内に近づいちゃだめですよ。」
飯田がムキになって必死で訴える。澪はますますクスクス笑った。
「それじゃあ、仕事できないじゃない。瀬川くんも今回のコレクションのスポンサーの件とっても頑張ってくれたのよ。もう少し、誉めてあげようよ。」
「いいんです。あいつは。仕事は仕事。先輩にちょっかいだすやつは俺が許さないんです。」
勢いでいってしまったが、せっかく忘れかかってたことを思いださせてしまったのではないかと、一瞬危惧したが、思いの外、澪は噴き出して笑った。
「飯田くん、それじゃあ、高校生みたいじゃない。」
飯田は内心ほっとしながらも間伐いれずに返す。
「ちぇっ!先輩、すぐ子供扱いするんだから。」
「そんなことないわよ。普段から頼りにしてますよ。飯田貴俊くん。」
「本当ですかあ?」
「本当よ。あなたは優秀だわ。先に先にと気づいてくれるから仕事しやすいし、仕事も本当に気がきいてるわ。私なんてフォローされてばっかり。」
ふっと空気がかわる。飯田が急に真顔になった。
「先輩だからですよ。他の人ではこうはいきません。あなたのことだからなんでもわかるんですよ。」
飯田がいままでとは違うやや低いトーンで澪をじっと見つめて言った。
「飯田くん…。」
澪が不安気な顔をするとふっと飯田がそれまでの弟、後輩の顔に戻した。
「なーんて顔してるんですか。さ、この天ぷら旨いんですよ。いただきましょう。」
そう言って飯田は豪快に天ぷらをたいらげていく。澪は、飯田のいつものたべっぷりに安心したのか、クスっと笑うと自分も箸をつけた。ちらっとその様子を上目使いで見て、飯田はほっと胸を撫で下ろした。