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「皆さん、こんにちは。香麗堂、『Beau』担当の真藤です。本日は私ども香麗堂の新製品『Beau〜ピュア・クリスタル〜』新発売企画説明会に足をお運びくださり、誠にありがとうございます。こうして勢ぞろいした皆様のお顔を拝見しておりますと、本当に驚くばかりで、改めて、すばらしいメンバーが揃ったなと私達もたいへん頼もしく思っております。お忙しい中、お時間を割いてくださっておりますので、こちらでも段取りよく進めていくことを努力いたしますので、どうかよろしくお願いします。では、まずは代表取締役社長の新垣より、ご挨拶をさせていただきます。では新垣社長、お願いします。」
澪はやや無表情に言葉を紡いですぐ傍に座っていた新垣に視線をやる。新垣が軽く頷いて立ち上がって前に立った。
「皆さん、本日は…。」
社長と入れ替わりで澪が木村マネージャーと飯田の間に座る。飯田がその横顔にチラッと視線をやる。傍からみれば緊張して顔がこわばっているとも見受けられるが、そうではないことを飯田には手に取るようにわかった。
あの後、翌日澪は何もなかったかのように出社した。一見そんな風みえるのだが、毎日見ている飯田には澪の状態が尋常でないことが痛い程伝わってきた。澪はそれまでもよく仕事をしたが、ここ数日は生半可じゃない。仕事に依存しているのだ。仕事に携わっていないと自分が保てないとでも言わんばかりに、寝るのも惜しんで仕事をした。飯田はそれに触らず、ただ仕事でのサポートとともに澪を傍で何も言わず見守った。今の現状は本人しか乗り越えることはできない。飯田は澪が倒れそうになったら自分が傍で絶対に支えるつもりで、いつもにも増して常に傍にいて澪を支えた。
そして今日、この数ヶ月企画をサポートしてくれる優秀なスペシャリストが一同に介する重要な日を迎えた。クノチアキも倉元も、そして棚橋もいる。そして結城ななえもいる。マネージャーから話を聞いてとても興味を持って、自ら話をを聞いてみたいと本人のたっての希望で出席となったらしい。こうしてみると、その道では名の知れた顔ぶれが一同にそろっている。通常ならこのメンバーを前に相当のプレッシャーを感じるはずだ。しかし、澪は違った。いつもはつらつとした澪のオーラは消え失せ、かわりにいつもにも増して凄みが加わったようなオーラを纏っている。それは、外見の美しさとあいまって、ちがう意味で鮮烈な印象に見えた。同じ思いをその向かい側の席に座るクノチアキと倉元も感じていた。
企画説明会ははじめに最終版の見本品を披露した。思った以上のできばえに一様に反応の良い声が漏れた。とくに、予約限定品のシンシア社とのコラボの商品は目を惹くようだった。そして飯田から商品のラインナップ、特長を説明するとともに、商品の技術背景を研究所室長の上島が説明する。はじめはシンシア社とのコラボの話を渋った上島だったが、今となっては思いのほか社内や関係者に評判がよく、上機嫌で得意の世界初の技術を披露するなど、いつもにも増して饒舌だった。社長の新垣も幹部も、集まったスペシャリストたちの反応を見て満足気な表情である。
その後はキャンペーンの全体スケジュール、各企画ごとの内容確認が滞りなくなされた。目玉はやはり、レジントンホテルのガーデンを貸切にしてのプレス発表会やV誌とのタイアップ、V誌とK誌の専属モデルによるコレクションだった。いつもならタレントはVTRでのコメントだが、今日は結城ななえ本人がパーソナリティとして自己紹介を買って出た。ななえは少し緊張気味ではあったが、ほほを染めて嬉しそうに挨拶をした。今、注目の大物若手女優だが、生の方が初々しくてかわいらしい。これが『ピュア・クリスタル』のイメージにぴったりと、澪は他に誰も候補を立てることなく、ななえに決めていたのだ。思いがかなうどころか、ななえの方が『ピュア・クリスタル』をとっても気に入ってくれて、今日も自分でメイクしてくるほどの入れ込みようだった。
「化粧品のパーソナリティを担当するのははじめてなんですが、以前からすごく憧れてました。今、とても嬉しいです。それに・・・はじめに『ピュア・クリスタル』を見て、すっごくかわいいので、思わず手にとってしまいました。」
ななえが嬉しそうに微笑む。この子供のようにあどけなく、でも、どこか色気を感じる不思議な微笑みは人の視線を強烈に惹きつける。ななえは少し緊張している様子を隠すこともなく、深呼吸した。
「今、試作品を使わせていただいているのですがキラキラしたシンシアのクリスタルがこのデザインにぴったりですっごくかわいい。でも、発色もいいし、パールがクリスタルみたいに透明な輝きが上品で・・・でも華やかさもある・・・。『ピュア・クリスタル』は私のお気に入りです。初めて見たときから一目ぼれしてしまいました。大好きな化粧品のパーソナリティができるなんて・・・。私、本当にこの仕事をいただけたことに感謝しています。精一杯パーソナリティを努めさせていただきますので、皆様どうかよろしくお願いします。」
ななえは丁寧に深々とお辞儀をした。周りから自然に拍手がでる。さすがに今もっとも注目を浴びる女優である。すっかりここにいるスタッフを虜にしたようだった。
「先輩、やっぱりななえちゃんにして良かったですね。これから楽しみですね。」
飯田が少し体を澪の方に傾けてななえに視線を送りながら澪に話かけた。
「そうね。ななえちゃん、すごく輝いてる・・・。」
そう言って澪もななえを見ながらも少し寂しそうな顔を見せる。すかさず飯田がフォローをいれた。
「ななえちゃんがその気になったのは先輩ですよ。はじめに先輩に会って、すっごくやってみたくなったって言ってましたよ。やっぱり、事務所を通してじゃなく、直に会いに行ってよかったですね。話ができるまで粘った甲斐がありましたよ。あとから、事務所から怒られましたけど、ななえちゃん、どうしてもって、自分で通しちゃったみたいなんですよ。そのおかげであとからはトントンと商談が進みましたけど。そうやって人の心を動かすの、先輩じゃなくちゃできませんよ。」
澪は飯田のをチラッとみて少し微笑むとすぐに立ち上がった。
「皆さん、これにて企画説明会を終了させていただきます。今回の企画はいつにも増して、力を入れています。『Beau』のブランドが誕生してから早いもので今年3年目を迎えます。節目となる今回はなんとしてでも、市場でNo.1の地位を獲得したいと思っています。そのために、その道のスペシャリストの中から選りすぐり、自信をもって皆様にお声をかけさせていただきました。必ず、No.1にふさわしい仕事をしてくださるとの思いで皆様に期待しております。私ども香麗堂は皆様とともに『Beau』ブランドをトップブランドにするための最後の仕上げとなるこの企画を全社を上げて盛り上げて参りたいと思います。」
そしてそれまで無表情だった澪の顔が一瞬崩れた。涙を堪えるかのように目を潤ませて、周りの人の顔を1人1人視線を合わせてから、大きく深呼吸をして、少し間があって、澪は搾り出すように言葉を紡いだ。
「あの…個人的にもとても思い入れを持ってこのブランドを手がけて参りました。皆様にお会いした折、私が申し上げた言葉は本心です。純粋に『ピュア・クリスタル』のためだけに、この製品の魅力を最大限に引き出してくれる方の手にゆだねたいと思い、私の目で皆様をお1人お1人を選びました。『ピュア・クリスタル』の企画が持ち上がったときに、既に私の中では皆様のお名前が浮かんでおりました。皆様でないとだめなんです。No.1になるためには皆様でなければならなかったのです。私も今までの『Beau』ブランド担当としての経験をもとに今回はいつもにも増して精魂こめてこの企画のために力を尽くしています。『Beau〜ピュア・クリスタル〜』は私自身だと思っています。どうか、私達とともに皆様のお力で『Beau』をNo.1に押し上げてください。よろしくお願いします。」
澪はやっとの思いで言い切って勢いよく深々とお辞儀をすると、じっとそのまま動かなかった。しばらくするとパラパラと拍手が聞こえてそのうちつられるように全員が拍手をはじめた。澪が驚いて顔を上げるとみんなが立ち上がって拍手して、がんばろうな、澪ちゃんと次々と声があがった。澪はその性質や仕事への情熱で人を強く惹きつける。本当に担当者から愛されるのだ。澪と仕事をしたことがあるものは大概仕事が楽しいと感じるようで、いつの間にか本気で入れ込んで仕事をしてしまう。みんなの暖かい拍手に澪は堪えきれず、涙を流した。席にもどると飯田が笑顔で迎える。そしてさりげなくやや体を澪に傾けて囁くように言った。
「かっこよかったですよ。さすが先輩ですね。」
澪は一瞬ほっとした表情を見せる。飯田がその表情を見て少しだけ安堵した。ここのところの澪は危ういナイフのようで、それでいてその刃は薄く、少しの衝撃でもろく崩れ去りそうなほどだったのである。ひとつ山場を越えたように感じて飯田もついほっとしたのだ。飯田は仕事がうまくいっている限り、澪は立っていられると確信し、これからも何があっても支え続けようと気持ちを引き締めた。
会議が閉められると急いで澪と飯田が会場の入り口に回った。会場を出て行くスペシャリスト達に挨拶をしながら丁寧に見送りをする。
「澪ちゃん、さっきのよかったよ。うん、ほんといい企画だね。きっとNo.1になれるよ。してみせるから。任せときな。いい仕事するから、期待しててよ。」
などと会議室から退出する者はみんな笑顔で活き活きと一様に澪に声をかけていく。
「ありがとうございます。私どももがんばります。これからよろしくお願いします。」
笑顔で握手に応じ、さらにその後姿に深々とお辞儀をする。その横で飯田も同じように挨拶しては見送りを丁寧にした。
「澪ちゃん。」
聞きなれた声が後ろからかかって澪が振り向いた。そこにはチアキと倉元が心配そうな顔で立っていた。
「チアキ先生、倉元さん、その節はご心配おかけしました。もう大丈夫です。」
澪は顔をこわばらせて言った。その表情に倉元が敏感に反応する。しかし澪は倉元が何か言いかけるのをさえぎるように口を開いた。
「倉元さん、また、ステキなところで打ち合わせお願いしますね。楽しみにしてますから。」
そういってニッコリ笑いかけた。無理やり笑顔を作って笑いかける澪を前にして倉元は何もいえなくなってしまった。しかたなく、倉元は心配そうな顔で頷いた。
「じゃ、澪ちゃん、明日スタジオで。」
チアキが場の雰囲気を察して笑顔で明るい声で軽快に挨拶をする。
「はい。必ず伺います。」
そう言って、明るく笑顔で澪も返した。それでもエレベーターに乗り込む前に倉元がふっと足を止めた。
「倉元?」
「ああ。」
チアキの呼ぶ声に振り向かずに返事をすると諦めたようにエレベーターに乗り込んだ。エレベーターには倉元とチアキの二人だけだった。
「まだ、未練たらたらね。」
チアキの言葉に倉元がため息で応じる。
「そんなにあなたを悩ませている澪ちゃんはすごい娘ね。今まで誰にもなびかなかったあなたが後姿を見てため息ついてるんですもの。もう一回、あなたの切ない思いをぶつけてみたら?飯田君にもってかれちゃうわよ。」
チアキは無機質にフロアの番号が変化していく様に目をやりながら倉元に問いかけたが、倉元は諦めたように首を振った。
「今はまだだめさ。澪さんは心を閉ざしているしね。まだあの春日が心を占めてるよ。あの飯田ですら傍にいることしかできない感じだった。今の澪さんの心には誰も触れられないよ。」
チアキは倉元の横顔に目をやると、そこにはチアキが今まで見たこともない表情があった。その複雑な思いがにじむ表情にチアキにはいたたまれなくて何か言いかけようとしたとき、チンッとエレベータの停まるシグナル音にさえぎられた。エレベーターの扉が開いて数人の男女が乗り込んでくると、そのまま二人の会話は途切れた。