15♯
午後8時になると飯田が再びやってきた。飯田を招きいれると澪が飯田の声でちょうど目を覚ました。
「あ、先輩、起こしてしまいましたか?すみません。」
飯田が申し訳なさそうに頭を下げる。
「飯田君…。」
おぼろげな視界に見慣れた顔を見つけて名前を呼んだ。そして、起き上がろうとして身体を持ち上げようとした。飯田がすかさず支えて手伝ってやる。
「大丈夫ですか?無理しないでください。」
「大丈夫よ。それより、あなたにいっぱい迷惑かけてしまったわね。ごめんなさい。」
「そんな、迷惑だなんて…。先輩、気にしないでください。頼れる後輩ですから。」
飯田がいつものようにさわやかに澪に笑いかける。澪にとって飯田の笑顔は救われるようだった。
「飯田くん、迷惑ついでにお願いがあるの。」
「なんですか?なんなりとおっしゃってください。」
飯田が優しく澪に微笑みかける。
「ずっとここに居るわけにはいかないから、自宅に帰りたいの。タクシー呼んでもらえるかな?」
「えっ?そりゃ、わかりますけど…動けますか?」
飯田が心配そうな面持ちで澪に問いかける。澪は身体を起こそうとしてソファーベッドに腰掛ける風にして床に足を下ろした。
「なんとか大丈夫。チアキ先生は?」
「あ、お仕事があるらしく、奥の部屋にいらっしゃいます。」
「じゃあ、挨拶してくるわ。」
そういって澪が立ち上がろうとすると、足がおぼつかず体がふらついた。
「あ・・・。」
飯田がすぐに抱きとめる。そしてそのまま飯田は澪を抱きしめた。
「心配したんですよ…。俺が傍にいますから。先輩…。」
「飯田くん…。」
飯田の胸は温かく、凍えた澪の心を優しくつつんだ。澪はその瞬間、自分があまりにも人肌を恋しく欲していたのだと自覚して、涙がこみ上げてきた。
「先輩…。我慢しないで…。泣いていいんですよ。」
そういって飯田は澪の頭を大事に抱えて頬を摺り寄せた。澪は飯田の優しさに思わず縋りそうになる自分を抑えて、やっとの思いで飯田の胸を手で押しやった。
「飯田君…。あなたに会ったら少し元気が出てきたわ。もう大丈夫。心配かけてごめんなさい。」
澪はそう言ってぎこちなく笑った。
澪はその日のうちに自宅に帰ることをチアキに伝え、心配そうに引き止めるチアキにお礼をいってタクシーで飯田とともに自宅へと向かった。自宅前で飯田に支えてもらいながらタクシーを降りようとして、タクシーの後方に顔を上げた。その瞬間、澪は固まった。様子が変なことに気付いた飯田が澪の視線の先に目をやった。
「…流星先輩…。」
飯田が呆然として流星を見ている。澪はタクシーを降りるとその場に立ち尽くした。流星は二人の姿を前に驚いた顔をして立ち尽くしている。飯田がはっと我に帰ると、澪の肩を抱くようにして抱えた。
「先輩、いきましょう。身体にさわります。」
そう言って家の玄関へと促そうとしたが、澪は動かなかった。
「先輩…?」
「流星…。私に話すことがあるんじゃない?」
澪が低い声で流星を睨みつけるようにして言った。澪の体は震えている。飯田は肩を抱く手に力をこめた。
「流星…。」
流星も何も言わずにじっと澪を見ている。そして急に青白い顔を曇らせて視線を逸らした。
「仲いいんだな。なんだ、貴俊と出来てたのか…。」
そういって流星はこバカにしたように笑うとさっさと歩き出して玄関へと足を向けた。
「流星、そんな話じゃないわ。ちゃんと私に説明してよ。何があったの?」
「なんのことだ?おまえこそ貴俊とやけに親密じゃないか。どういうことだよ。」
嫌味のように棘のある言い方で澪にやり返してくる。
「流星先輩!そんな言い方やめてください!」
「なんだ、貴俊。別に隠そうとしなくてもいいんだぞ。毎日一緒にいるんだからな、そうなっても不思議はないからな。俺もすっかり騙されたな。」
流星は玄関の前に立ち、澪と飯田に背中を向けたままだ。飯田は流星の態度にいたたまれなくなって流星の背中に吐き出すように叫んだ。
「流星先輩!…上条さんが先輩に話したんですよ!それで…先輩は…。」
「飯田君!」
澪が飯田を睨みつけて首を振って飯田を牽制した。
「なんだって?江怜奈が?」
流星がすごい形相で振り向いた。流星のその端正で綺麗な顔に怒りをあらわにしている。
「ええ、本当よ。」
澪はあふれ出しそうになる感情を抑えて震えながら答える。痛いほど打ち付ける心臓の鼓動で追い詰められたのか、大きく息をすうと流星に向かって叫んだ。
「どういうことなの?…流星!あなたの口から聞きたいのよ!」
その場が静まり返る。3人はその場に立ち尽くして微動だにしない。その場は緊迫した空気が漂っていた。
しばらくの間、流星は沈黙していたが、急に下を向くととクスクス笑い出した。そして顔を上げると澪をじっと見据えて開き直るように笑って言った。
「なんだ聞いたのか…。しかたないな。そうなんだよ。あそんでたツケだな。江怜奈の腹の中に俺の子がいるらしいんだ。俺、江怜奈と結婚するよ。江怜奈は社長令嬢だしな、まあ、あれだけの女だから、まあ、いいんじゃねえの?俺も潮時か…。」
「流星先輩!違うでしょ?そんな言い方しないでください!」
飯田が必死に流星を庇って訴える。
「うるさいな。貴俊!澪はおまえにやる!早く澪を連れていけ。」
そう叫ぶと流星は扉を開けて力任せに閉じた。
「澪…。くっ…。」
流星は閉じられたドアの前で崩れるように床に座り込んだ。そしてじっと耐えるように声を殺して嗚咽した。
澪は放心状態で流星の家の玄関を睨みつけて立っていた。飯田も流星の消えた玄関を見つめながら澪を守るように抱きしめた。
「先輩…。」
澪は一瞬ビクッとすると自分から飯田の胸に顔をうずめた。澪はその場に立っているのがやっとだった。自分がどこにいるのかすらわからずに不安の渦に飲まれていくような気がして、唯一飯田から伝わるぬくもりだけが澪を現実につなぎとめていた。澪は必死で飯田にしがみつく。今はただただ誰かの温もりが必要だった。飯田はそんな澪の思いを受け止めるように澪を強く抱きしめた。
翌日、流星は江怜奈を港へ呼び出した。ここは公園のように整備されているが、まわりに人は少ない。目の前を荷物を積んだ外国貨物船がこの先の港に入港するために通り過ぎる。天気はどんよりと重く灰色の雲が広がる。まるで心の内をあらわしているかのようだ。光を閉ざす厚い雲が広がる空にはウミネコが船より高い位置でぐるりと鳴きながら飛び回っていた。
「なぜ、澪に手を出した?」
流星が厳しい顔をして江怜奈を睨みつけている。
「なんだ、珍しくあなたから誘ってくれたと思ったら、そんなこと。」
江怜奈は高慢な表情で鼻で笑った。
「手なんかだしてないわ。」
流星が江怜奈の両肩をつかんで噛み付くように言葉を投げた。
「約束しただろう?澪には手を出さないと!」
「痛いっ!」
はっとして流星が江怜奈の方から手を離す。
「澪、澪ってうるさいわね!あなたが煮え切らないから私が話したまでのことでしょう?どうせ言わないといけないんだから一緒じゃない!」
流星が黙り込む。そして江怜奈にもう一回近づくと頭を下げた。
「頼むから、澪には関わらないでくれ。その代わり俺をおまえにやるといっただろ?俺はおまえと結婚するって。」
江怜奈が流星を凝視して、また高慢に笑う。
「そうね。どうせ、あなたは私のものだもの。わかったわ。あなたが私の物である限りあの子には手は出さないわ。そのかわり、私の言うこと何でも聞いて。」
江怜奈が流星にじっと訴えるような瞳を向けてくる。
「ねえ、キスして。」
流星はしばらくじっと江怜奈を見ていたが、ゆっくり江怜奈に近づくと江怜奈が流星の首に手をまわす。流星が江怜奈の体を抱き寄せ唇を重ねた。そして唇を離すとじっと流星を見つめる。それまで強気だった江怜奈は急に顔を曇らせると自分から流星の胸に顔をうずめた。
「傍にいて…。あなたが好きなの…。私から離れないで…。私…、あなたがいないと生きていけない…。」
江怜奈は搾り出すようにつぶやくと流星に縋りつく。流星は江怜奈を抱きながら空を見上げて目を閉じた。
―私にはあなたしかいない…。