12♯
翌日澪はやはり眠れなかったのか、疲れた顔で朝早くから出勤した。澪がデスクにたどり着くと飯田は既にPCの前に座って仕事を始めていた。
「おはようございます。先輩。今日も早いですね。」
飯田はキーボード操作をする手を止めていつものようにさわやかな笑顔を澪に向けた。
「おはよう…。夕べは…。」
澪が昨日のことを口にしようとすると、飯田がふっと澪の唇に指を当ててさえぎった。
「先輩、昨日のことはもう忘れましょう。仕事一杯ありますからね。働いてもらいますよ。」
そういってニッコリ笑ってまたPCの方に向き直って滑らかに指を動かし始めた。澪は飯田をしばらくじっと見ていたが、すぐにデスクに座るとPCのスイッチに手をかけた。
その日一日、澪と飯田はあまり言葉を交わすことなく、一日中仕事にのめりこむようにして作業を進めていた。その日の晩、飯田が後はやりますから帰って休んでくださいと、澪を強引に仕事から引き剥がした。やっていた仕事を飯田に取り上げられたので、澪はしかたなく飯田に頼んで帰ることにした。
澪が疲れた体を引きずって帰ろうとすると、外は雨が降っていた。昼間、妙に蒸し暑いと思った。真夏はこのところスコールのように大量に降ってはピタっとやむ。しかし、ここで待っているのも時間が時間だけに面倒くさく感じた。仕方なくビルの通用口で外の雨を眺めてため息をつくと、覚悟を決めて走ってタクシーを止めて乗り込もうとした。
「真藤さん。」
澪が振り返るとそこには赤い傘をさした上条が立っていた。
「一緒に乗ってもいいかしら?」
澪が呆然と立ち尽くしているとタクシーの運転手からどうしますかと声がかかったので澪は乗りますと返事をしてタクシーに乗り込んだ。そして上条にもどうぞと声をかけた。上条は傘を閉じると失礼するわと澪の隣に乗り込んできた。その時、あの2号会議室で眠る流星から香ったのと同じバラの香りがふっと鼻をかすめた。その瞬間、昨日の上条が流星の腕に絡みつくようにしなだれて歩く姿がフラッシュバックする。
「お客さんどちらへ?」
タクシーの運転手が少し後ろを振り向き加減に行き先を尋ねる。
「ベイエリアへ。」
スっとあたりまえのように上条が澪の代わりに返事をした。そしてまっすぐ前をむいたまま澪をちらっと横目で見下すように見て何か含みを帯びた冷たい口調で澪に話しかける。
「ちょっとお話があるの。付き合ってくださるかしら?」
澪はもうタクシーが動き始めていたので返事をしなかった。
ベイエリアまでは15分ぐらいだったが、道中二人は言葉をかわすことはなかった。
澪はタクシーの中に漂うバラの香りか妙に鼻につき、胸の内にどろどろした塊がべったりとへばりついたような不快感に逃げ出したい思いでいっぱいだった。澪は息を吸い込もうにも酸素が欠乏するのか息苦しく心臓を激しく打つ音だけが体の中に響き渡るような気がしていた。タクシーの中はエアコンでひんやりとした空気も手伝ってさらに澪の体温をうばっていく。澪は身動きをすることもなく、ずっと窓の外に視線をやっていた。もちろん、実際澪は外の景色なんてひとつも見ていなかった。自分の隣で不敵に微笑む上条の存在が痛いほど澪を圧迫していたのだ。
上条はブライトンホテルにつけるように運転手に声をかけた。運転手は静かに頷くとブライトンホテルのエントランスにすべるように入っていく。白い制服のベルボーイが近づいて、タクシーのドアが開くとドアの側に立った。上条が降りて立ち上がると、ベルボーイがいらっしゃいませと丁寧にお辞儀をして出迎えた。そのあと続いて澪が降りると、ベルボーイが同じように出迎え、いらっしゃいませ、お荷物はございますかと声をかけてきた。二人ともそれを断わると、上条は澪を振り返ることなくコツコツとヒールの音を響かせてホテルの中へと入ていった。澪は心臓が飛び出てきそうに程に激しくうちこまれる鼓動をおさえようと少し深呼吸をした。そして黙って上条の後をついていった。
上条はロビーの奥にあるラウンジの入り口で出迎えたウェイターに2、3なにか話しかけるとすぐに一番奥の窓側の席に案内された。澪はウェイターにイスをすすめられて上条の前に座る。一瞬、上条と目があった。上条は爬虫類が獲物をみつけた時のように視線は鋭く顔にはうっすら微笑みを携えている。澪はドクリと体中の血液が大量に動いた気がした。その瞬間、すうっと血の気が引いていき、口の中がからからに乾いてきた。澪と上条は視線をあわせたまま、しばらくは飲み物が来るまでは互いに何も話さなかった。
ウェイターが二人分の飲み物を置いて去っていくとやっと上条が口を開いた。
「単刀直入に言うわ。春日くんと分かれて頂戴。」
澪は驚いてはじめは何をいわれたかわからずにいた。
「え?」
上条はクスっと笑って話を続けた。
「私、妊娠してるの。もちろん、春日くんの子よ。」
澪は上条の言葉に頭を殴られたかのように頭の中に何かの音が鳴り響く気がした。
「だから別れて。春日くんも私と結婚するって言ってるし…。」
上条は数日前見せた勝ち誇ったような顔で澪を見下すように言った。澪はその上条の言葉でわずかに流星を信じようと思っていた心を打ちのめされた。澪はそれまでで必死に自分を保つため張っていた糸が切れ、目の前が真っ白になる。その後何か話をする上条の言葉はもう耳に入らなかった。澪はいたたまれず、おもむろに席を立つと走ってその場から逃げ出した。
一瞬周りがざわついたが、あとに残された上条はにやっと笑うと走り去る澪の後ろ姿をじっと見つめていた。
どこをどう走ったのかわからないが、いつの間にか澪は激しく振る雨に打たれて放心状態でのろのろと歩いていた。髪も服もズブ濡れで水がはじかれる様子はなく、じっとりと染み込んで、濡れた髪は澪の冷えきった肌に張り付き、顎先からは雨水がしたたり落ちている。服も雨水を含んですっかり色は深く沈み、澪の冷えきった体に重くのしかかっていた。しかし、澪にはそんなことさえ、感じないかのようにただただすべてが空白のままのろのろと歩き続けた。雨はすべてを洗い流すかのようにより一層はげしさをまして行った。。
「なんて雨だ!前も見えやしない。」
男は車を運転しながら目の前の雨でほとんどワイパーが意味をなさないほど白くぼやけるフロントウインドウをうらめしそうに眺めてややため息をつく。あきらめたように速度を落として慎重に見えにくい視界に注意をやった時、男ははっとして急ブレーキを思いっきり踏み込んだ。
キュルキュルキュル…キィー!
男が乗るローバーはあまりに深く思いっきり踏みこんだのでタイヤにロックがかかりキュッと前のめりになるような感じで強引に停まった。中から男が慌てて降りて激しく降る雨の中、澪に走り寄った。
「澪さん!」
澪には男が呼ぶ声すら聞こえない様子で立ち止まらずにふらふらと歩き続けた。様子がおかしいことに気付いた男が澪に走り寄って肩を掴んだ。
「澪さん!」
澪は男に肩を掴まれてびくんとして驚いて振り向きざまに長身の男を見上げた。澪ははっと我に帰ったようだった。
「倉…元…さん?」
その瞬間、澪は倉元の腕に倒れこんだ。
「澪さん!」