感情
「あ……」
水野が声を発する。
それに、一緒に居た女性が「どうしたの?」と言った。
「ううん、何でもない」
取り繕った笑顔で返せば、相手も甘い笑顔で「そう?」と言う。
車に乗り込んだ女性を見てから、再び水野は顔を上げた。道路の向かいを見る。
「やっぱり、未来ちゃん」
声をかけたくてもかけられない、そんなもどかしさの中、水野は車に乗り込んだ。
最後に見えた結城の表情は、ただただ泣きそうだった。
任務を終え、水野は事務所に戻った。今日は普段より早めに終わったために、報告書を書き上げるつもりだった。
「ただいま」
とドアを開ける。
「おー、おかえり純ちゃーん」
「何のノリだよ!」
変なテンションの鈴木に、水野は笑ってツッコミを入れる。それに満足げに頷いた彼女は、所長室をさした。
「所長がお呼びだよー」
「うん、さんきゅ」
水野が所長室に入ると、所長の竹本は「よっ」とかっこよく言う。
「加奈ちゃん心配してたぞー?純は依頼放棄を好まないからねえ」
「今までそんな依頼少なかったですからね。俺は結構セレブ御用達だし」
「自分で言うかなーそれ」
ふふふ、と笑った竹本は書類を手渡す。
「今日もお疲れ様。報告書、頑張って仕上げてね」
「はーい」
水野は彼女から書類を受け取って一礼すると、ドアの方に歩きだした。
だが扉の前で立ち止まる。その立ち止まり方があまりに唐突で、竹本は眉をひそめた。
「純?」
「今日、結城さんを見かけました。一瞬、目が合った気がするんです」
そっか、と竹本は零した。水野は少しだけ口角を歪ませた。
「声を、かけたくなったなんて」
「……大丈夫?」
「、はい」
目を伏せたまま、会釈して出て行く。
竹本はその珍しい姿に少し動揺した。
何が彼の心を変えたのか分からなくて。結城を変える依頼に、何故肩入れするのか分からなくて。
だけどそれは、水野自身にも分からなかった。どうしてか結城を放っておけないと思っていた。
「どうするのが正解なのかな」
水野は携帯を握り締めていた。
自分はプロの忘れさせ屋だ、そう言い聞かせる。
今までは『恋愛禁止』の絶対条件を何とも思わなかったし、依頼人やターゲットは"ビジネスパートナー"でしかなかった。
なのに何故今回だけ情が移ったのか。そもそも同情なのか惹かれているのかすら分からない。
水野は通話ボタンを押せずにいた。
依頼は中断すると決めた、それはクライアントとの総意だ。下手に同情で近寄ると火傷をする。
「俺のこと、嫌いになったかな」
彼女の望まない優しさを演じて、勝手に消えて……。
水野は少し寂しそうに笑った。
そして彼は首を振ってその雑念を取り払うと、報告書に手をつけた。