神は心の泪を流がす
息苦しい。濁った世界の中で、僕は呼吸すらできやしない。神は……
気付いたら雨は止んでいた、風はまだ冷たかったけれど、空調の生温い風よりちょっと良い。
「寒くないか?」
「全然ヘーキ」
「だと思った」
獣の鳴き声が聞こえる。遠いようで近いような、距離感の無い喚き声。
時々、眼だけが異様に発達した僕らには見えない何かが蠢いている。
授業の早く終わる日はいつも決まって、千里とご飯を食べに行き、その足で千里の家に行く。気分にもよるが大抵は寝るか酒を飲むぐらいしかやることがない。
寒い日が続くと、僕らは布団の中で、胎児のように丸まって眠った。
「これから会える日が減るかも」
「全然ヘーキ」
「それを言われると僕は辛いよ」
「嘘々、寂しいね」
「全然ヘーキ」
「強がりは君の専売特許だし、寂しがりは私の本音だし」
千里はクールだ。演技でも僕を楽しませてくれる。
僕が居なくても千里は生きていけるし、千里が居なくても僕は生きていける。
寄り添って眠っても朝になれば、僕らは別々の方向を向いている。
ほとんど無意識に、僕らの足はいつものラーメン屋に向っている。
雨上がりの街は、キラキラと光を放ち、暖簾を潜った僕たちの熱気に当たった頬は微かな熱を放つ。
「おじちゃん、いつもの」
「僕も」
「おう、今日もサボリか?」
「休講ですよ、いつもサボってる訳じゃないです」
店内は、こびりついた油の臭いで包まれている。葱ラーメンとチャーシュー麺が二つ、目の前に並ぶと、僕らは同時に箸を割った。
「いただきます」
古い冷蔵庫のカタカタした音と、ラジオから流れてくる野球中継が入り混じる。
勿論一人で来る事もあるけれど、千里と一緒に来るのが大半だ。
千里が食べ終わるのを待つ間、野球の中継を聞いていた。勝っているのがどちらのチームで、負けているのがどちらのチームか分からない。それでも誰かがホームランを打ったのが分かった。
お金を払って外に出ると、暗くなっていた。もう四月になったのに吐いた息が白くなった。
「あっ」
「どうした千里」
「あそこ、あそこ見て」
雨で増水した川の真ん中に、少しだけ盛り上がった島がある。そこに、真っ白い猫が取り残されて居るのが見えた。
「やばいな、もうすぐダムが開いたら、助からないかもしれないな」
「流れが急過ぎて、泳ぐのは無理よ」
「危ない事すんなよ」
橋の上から川を覗き込む千里に、僕は言った。
「しないよ、でも可哀相だね」
「そうだな」
千里は猫を見ているが、僕は千里を見ていた。千里の顔は真剣だった。
「あっ」
「危ない!」
白い猫は一瞬で、黒い濁流の中に消えた、その白さが妙にはっきりと眼に焼きついていた。
猫一匹分の体重がこの世界から消えてしまったのだ。
「猫……死んじゃったね」
横にあるのは、いつもの千里の顔だった。
「寒くないか?」
「全然ヘーキ……じゃないかも」
僕らは涙さえ流さなかった、心の中で何かが痛いと叫んだ。それほど一瞬で一つの世界が消滅していくのだ。
暫くの間、僕らは真っ黒い川底を凝視していたが、やがて同時に歩き出した。
「寒いよ」
と千里が呟いて、強がりでも冗談でもなく僕の口は自然に動いた。
「結婚しようか」
と思わず僕は溢していた。