第23話
この日、境家では菜摘が祖母の境 千草に自分の将来の話をしていた。
高校3年生の夏休みは誰もが将来に自分が進むべき道へ舵を切っている。そうでない者はぼんやりとしているだけだ。
菜摘は、祖母に東京への大学進学を訴え、祖母の顔は厳しかった。
先程までは駄々をこねる孫へ優しい微笑みを浮かべていたのだが、やがて怪訝そうな表情になり今はただ厳しい目で菜摘を見つめていた。
「私は、進学して世の中の事を沢山知りたいのです。お兄様は進学を許されているのに、どうして私は認められないのですか?」
千草の表情は硬い。後ろの席では母親の真紀子が曇った表情を浮かべている。真紀子はよその街から婚姻の儀によって境家に嫁いできた。分をわきまえる為人であったからか千草に遠慮しているのか、おそらく両方の理由で彼女は娘の話を聞いていたがそれ以上の事はしなかった。
今年の春までは、何も不満なく受け入れていたのに、境家の女に生まれた運命に異を唱える様になったのは夏になってからだった。
子供の頃から、菜摘には婚姻の儀で神様に選ばれた結婚をするのだと言ってきた。
菜摘は、それをよく判っていると真紀子は信じていたのだった。
「私は知っているわ、麻生様だって独身でいらっしゃる。私もまだ当分の間は独身でいることにします。」
菜摘はいつになく、強い口調で言った。
「許しません。」むしろ千草の方が声を荒げた。「菜摘さん、貴方は自分の生き方を説明するのに麻生様の名前を使うのですか?失礼ではないですか!」
千草のしわくちゃの細い首筋に筋が浮かぶ。
「この境家はこの街と一体。翠光の会と共に街を支えてきた家です。勝手な事はできませんよ。」
菜摘が何度も子供の頃から聞かされてきた事だ。境家はひいおじいさまの代から会と共に発展してきた。
境家は戦後まもなく焼け野原の街を支えてきた、これを境家の人間として理解している。
境家は街を守る宿命を持っているのだ。
街の模範となる立派な家庭を作って街に尽くし、誰からも尊敬されてきた。
菜摘は返す言葉も無く俯いてしまうと、その場から逃げるように出ていくと二回の自分の部屋に駆け込んだ。
今にも涙がこぼれそうな顔を母にも祖母にも見せないように走って行ってしまった。
菜摘の出て行った居間には、千草と真紀子が残った。
千草は動揺も興奮も、まるで無かったかのように落ち着いてソファに深く座りなおした。
それを合図にして真紀子は義母のために冷めた暖かく茶を淹れなおした。
夫と息子はこの結納には帰ってくるのだろうか。真紀子は東京に行ってしまったままの家族の事を思った。
模範となる家族にしては、随分なことであろう。
思い悩む娘、そして妹に対してあの二人は関心がないのだろうか。そもそも結納の儀の事を知っていたかしら。
天井の灯りを無意識に見つめながら思い耽る真紀子に千草が言った。
「二人には帰ってくるように言いました。でも二人とも東京での生活がなにより大事なようですからね。」
まるで、真紀子の心見透かしたように千草は続ける。
「田舎の事にはあまり関心が無いようです。菜摘の将来の事だというのに。」
真紀子は千草の向かいの椅子に腰かけた。
「そうかもしれません。でもずっと前から決まっていたことで横井さんとも何度かお顔合わせをしていますからね。
もう二人とも婚姻の儀の当日までは帰らなくてもいいのではなんて言い出しかねません。」
「そうですね、これから横井家とは長い付き合いになるというのに、ほんとに男性の方はのんきでいらっしゃる。」
真紀子は、力なくため息をついた。
境家は、戦後のこの街が復興する時期に名士として街を支えてきた。
夫もその父も、境家の名代はずっと翠光の会とともに歩んできたのだ。
栄えある一族の歴史を変える程の勇気は誰にも無い。菜摘も境家に生まれた者として定めに従って生きていく他はないのだろう。疑う事無く貫かれてきた伝統である。
「ずっと決められてきた事だからもう、。 」
独り言を言いかけて真紀子は俯いた。
真紀子も敬虔な翠光の会の会員の家で育った。
婚姻の儀に疑問を持ったことが無かったと言えば嘘になる。
でも幸せな生活を与えてもらったと思えるのも確かだ。婚姻の儀で不幸になったとは自分では思わない。
幸せを全て神様が与えてくれる訳ではない。幸せな家族を自分達で作れたと思っていたかった。
ただ、この夏も帰ってくる見込みのない夫と息子、思い悩む娘の事を思うと胸の奥に割り切れない何かが溜まっていくような気がした。
ため息を吐きそうになった寸前で真紀子は我慢した。
疲れたのか目の前で義母がうつらうつらしていた。