第22話
M電算製造株式会社は、半導体大手M電算工業株式会社の100%資本による製造子会社である。
社長の横井肇は、M電算工業の社員だった頃にこの街に建ったLSI工場の工場長として街にやって来た。
当時も電子部品の工場は海外へと移される状況だったが、横井肇は市議会に働きかけて工場をM電産製造の子会社として分社する事を本社に約束させて国内に残した。
そして、この製造会社の社長となった横井肇は工場を世界で伸長していた半導体を作る工場として生まれ変わらせた。
次第に親会社のM電算工業の指示に従わなくなり始めたのはその頃である。
まず、横井自身の判断で街の零細工場を下請け職場として扱う事で、実質的に傘下に収めたも同様の状態にした。
さらに農業以外には地場産業が発達していないこの街の高校の卒業生を、比較的安い賃金で就職させ従業員や仕入れ部品を思うようなコストで調達できる環境を整えた。
やがて工場を世界一の品質の半導体を作れる工場に育てると、取引する完成品メーカーをM電算以外にも拡大した。
100%子会社でありながら、工場の稼働率を一定に保つためには例えばアジアの完成品メーカーとでも取引を行う。
そうして価格の安い海外製品との競争力を保ち業績を拡大させた。
工場を街の主な税収源にしてしまうと市議会との結びつきはさらに強くなる。それを親会社からの干渉を退ける背景として利用した。
これらの事を不思議と成立させてしまうと横井肇は帝王として君臨した。元は製造子会社に過ぎないM電算製造を自分の持ち物のように専横し、あたかも創業家のように振る舞った。
現在、息子の真二は29歳にしてM電算製造の重役である。
この街の誰もが横井真二を次期社長として扱ったし、横井真二本人もまた自分の事をプリンスであると信じて疑わなかった。
横井真二は、痩身だが知的な表情をしており実際に海外メーカーからの受注をいくつも成功させて、社内でも親の七光り等と言わせず、優秀な人物として認められていた。
東京の国立大学を卒業しており、趣味はテニスである。ただし喘息の持病をもつせいか見た目は逞しくは見えない。
生まれつきの茶色い髪の毛と鋭い眼光は、冷たく光るナイフのような印象を人に与えた。
彼はその日、総務部のフロアへとやって来た。
フロアには、課長の阿形もいた。真二は阿形のデスクの前で立ち止まり口を開いた。
「阿形さん、来期の採用人数について取締役会で承認を得る時期になっているが計画は出来ていますか?」口調は丁寧だが、冷たい口調とも取れる話し方である。
「えぇ、横井専務。 来期の稼働計画から割り出した工数から採用人数を計画しておきました。」
阿形は、自分が判を押した採用計画書を書類入れから出した。「説明が必要でしたらすぐにでも。」
モニターの前にもう1つ椅子を準備しながら、阿形はそう言った。先日の麻生光と訪問した境家の娘の事を思い出した。
M電算製造の人事実務は自分の取り仕切るとこであったが、婚姻の儀まで取り仕切る事になろうとは思っていなかった。
「それには及びません。 それより総合職と事務職の採用計画も出来ているのかも知りたいです。」
真二が尋ねたのは工場の組み立て作業員の採用人数ではなく、事務や部品調達の業務を行う総合職の採用計画だった。
M電算製造は、工業高校だけでなく普通科の高校からも卒業生を採用している。
「もちろんです。」阿形はもう1つのファイルを取り出した。
「今年は進学率が高い事もあって高校卒の採用を昨年の4割減にしました。逆に県外の大学卒業者のUターン就職を積極的に推進して我が社も大卒社員の比率を上げたいと思います。」
大卒社員の積極採用は阿形の以前からの方針であった。真二は県から受け取ったファイルに目を通している。相変わらずの鋭い目つき、冷徹な表情だった。
「こんなに減らしたら学校側からクレームが来ませんか。学校長と慎重に意見交換して下さい。我が社には地域との密接な連携が必要です。」阿形は、まだ学校側の了解を得てはいない。クレームが来るのは承知していたからという理由もあった。
真二は8月末までに学校側が了承する採用人数に調整した数字を計画書にまとめるよう言って立ち去った。
自分とは一回りも歳の離れた若い専務に指示を受けるのはもう慣れたが、大卒者の採用増は中期的な計画だったはずである。
ふっとため息をついて、カップとインスタントコーヒーの小瓶を持って阿形は給湯室へ行った。
女性社員にお茶汲みを頼んだ事はなかった。大した学歴も才能もなく地元の企業でやっていくには謙虚に振る舞うのも知恵の一つだ。横井信二のように選ばれた人間とは違うのだから。
結納の儀はもう2週間後なのだと給湯室のカレンダーを見て思った。
専務夫人として時々は会う事もあるかもしれないな。境 菜摘の事だ。社会人経験を積ませるのに1,2年は社員にするという事もありうる。
なぜ、彼らは選ばれたのだろうか。そしてなぜ自分は選ばれないまま来たのだろうか。
翠光の会の会員全てが婚姻の儀で結婚する訳ではない。婚姻の儀は年に1組あるかどうかという少なさである。ほとんどの会員が普通に結婚して家庭を作る。
だが、選ばれた彼らには翠光の会の中だけでなくこの街では選ばれた者としての人生が待っているのだ。
2階の窓からは駐車場が見渡せる。作業者が忙しく動いている。思い返すのはあの日の夏の事だ。
婚姻の儀に関わるようになってから1日に何度もあの女の顔が浮かぶ。
ふと、階下のトラックに歩み寄る2人の若者の姿が見えた。
注目したのは背の高い一方である。少し日本人離れした顔立ちをしていた。力のある瞳があの女に似ていた。もし子供を産んでいれば丁度あの位の年齢だな。
若者たちは、仕事を終えたのかトラックに乗り込んだ。下請け工場の配達に来たのだろう。
似ている、そう思った自分を打ち消した。未練がましいにも程があるというものだ。
女は、もうこの街にはいない。翠光の会の名古屋支部の有力な会員の元に嫁いで行ったからだ。
トラックがゆっくりと工場の門へ向けて走り出した。
トラックのドアには、社名が書いてある。長谷精工。
長谷か、違うな。覚えているのも女々しいが、その名古屋の有力な会員の名前は、たしか斉藤といったはずだ。
阿形はカップに残っている冷めはじめのコーヒーを口に流し込んだ。
特有の香りは薄くなり、嫌な苦みだけが口の中に広がった。