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第19話

 境家を後にする間際に、伊集院は呼び止められると境 真紀子より、茶封筒を渡された。

『お車代で御座います。本日はご足労をおかけ致しました。』

『これはご丁寧に。有り難く頂戴致します。』

伊集院は、両手を揃え口元にニヤリとした薄ら笑いを浮かべて受けとった。

深く頭を下げているが指の腹で封筒を撫でて厚みを確かめた。

教会の収入は、会員が納める会費がほとんどであり、他には行事、神事、出版物に寄る収益等がある。

それとは別に、このように包んだ現金を持たされる事があり必ず上着の左の内ポケットに入れた。

表には現れない金銭の管理は伊集院の役目である。

伊集院は、こういう金を会の運営をする上で起こる様々な交渉や揉め事の類を処理する際に使っている。

誰にも判らないように私腹を肥やす事も出来るのだが、彼は教会の金庫に現金をそのまま保管し、少なくても自分の為に持ち出す様な事は無かった。

 伊集院の年齢は40歳を過ぎており、阿形とは同年代であるが髪の毛を短く刈り揃えて活発さが伺える風体の阿形に対し伊集院の方はというと、薄髪は仕方がないにしても、貧相な体格で誰に会う時でもしかめっ面をしており愛想がない。

笑った時も楽しいのかどうか判別し難い薄ら笑いをするというような人物である。

いつの頃から翠光の会の伝道師だったのか、会員の一人でしかない阿形は良く知らなかった。

しかし、教会の諸行事を仕切る実務の大半は伊集院の手で行われている。

今回の婚姻の儀は阿形が務めるM電産製造にとって一大慶事である。その準備にあたって彼が何ら手際の悪さを見せていない事もまた事実であった。

 阿形は、麻生光と伊集院を乗せて車を出す。往路と同じようにゆっくりと無駄な揺れもなく車は動き出した。

時代を感じさせる古い大仰な門を出て、丘を下る県道に向けて走って行くと海が遠くに見えた。

強い太陽の光が、寄せるうねりを白く浮き上がらせている。沖では風が出ているのだろう。

湾の外には幾つかの島が大きく、または小さく見えている。景色の良いこの辺りの住宅地が街の一等地なのだ。

 阿形は自分が育った海沿いの辺りを見下ろした。そこへ向けて緩やかに下る道路が続いていく。

学生の頃、自転車で登った山道を思い出した。このように整然とはしていなかったが、つづら折りに山肌を刻むかのごとく走る道を登った先に恋した女の家があった。

もう今では場所もよく覚えていない。恋したといっても当時の学生の男女関係などというのは手をつなぐのにもお互いの顔色を見ながら機会を伺いつつするものであった。二人で会うときには好きな本の話をしたり自転車で坂を下りて商店街の映画館へ映画を見に行く程度であった。

その女とは教会の行事で知り合った。父か祖父がアメリカ人だと話していた。その為なのか背が高く確かに西洋風のはっきりとした顔立ちをしていた。

以前から街一番の美人などと言う者もいたらしいが、阿形はその日初めて知りそしてその日に惚れたのだ。

その女の事は、もう色あせた記憶である。卒業してすぐに教会が選んだ男の元に嫁いで街を出て行ったのだ。

婚姻の儀について知らなかった訳ではないが、それまで教会の行事を身近に感じたことはなかった。

全会員が婚姻の儀によって伴侶を定められる訳ではない、むしろそれは一部である。

私は不運だったのだろうか。

卒業したら、婚姻の儀で選ばれた人と結婚する事になりました。

そう話す電話の声だけが、それだけは今でも鮮明に蘇る。

阿形にしても家族そろって翠光の会の会員である。教会の教えを守って育ってきた。

幸福の最小の単位は家族であり、最良の家族を産み、導くことで人類の幸福を創生する。

それも一理あるだろう。そのように教わってきたのだ。

しかし卒業まで会う度に沈んだ笑顔の女の事を抱きしめてやれなかったとの思いが記憶のどこかに引っ掛かっている。どうして婚姻の儀を制止できなかったのだろうか。

翠光の会について変わった教義だと思う者もいるだろうがこの街ではそれが長らく受け入れられてきた。

親の決めた縁談で嫁ぐような話は他にも聞いた事がある。この街で育つと、教会に異を唱える事が出来なくなる。

卒業までの間に阿形はその女に優しくする事こそあれ結局手を引いて止めることが出来なかった。

 もう最後ですね。

女は最後まで自分と会うとき一度も泣かなかった。

やがてその日が来て出発する駅のホームへと、阿形は見送りに行く事が出来なかった。

見送りに行った友人の話では、彼女は泣いていたという。

なぜ泣いたのかを推し量ることはできないが、阿形はその女の泣き顔を一度も見た事が無かった。

思い出すのは憂いを漂わせたあの静かな笑顔だけだった。

 気が付くと車は県道を街の中央に降りてきていた。

街路の樹々が滑らかに舗装された道路に涼しく影を作っている。

 『このまま教会へ戻ればよろしいでしょうか?』

後席の二人が静かにしているのが気になって阿形は声を掛けた。

『そのようにお願いしていたはずだが。』伊集院が言った。

『いや、横井社長のお宅にも寄るのではないかと勘繰りましてね。』

『それならば、そのように最初にお伝えします。このまま教会へ戻っていただきましょう。』

伊集院の話す語尾に苛立ちを感じて阿形はそれ以上何も言わなかった。
















 

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