第18話
境 千草に勧められて、麻生光も伊集院もしっかりとした造りのソファーに座った。
それを確認してから、阿形も腰を下ろした。
ぎしぎしと革のきしむ音がした。この邸宅は静かすぎるくらい静かである。
『いま、菜摘も呼んで参ります。』千草は真紀子に目配せをする。すぐに真紀子は使用人と思しき女を奥へやった。
運ばれてきた飲み物のグラスには冷たい水滴がついている。高価そうなグラスで手を滑らせて落としでもすれば大変だろうなどと、空調の効いた部屋で汗を拭いながら阿形はなるべく目立たなく振舞う事を考えていた。本当は、ネクタイを緩めたいのだがそうもいかない。
麻生光が、汗一つかいていないことが不思議だった。
自制心が強く働くと体調まで自由にできるとでもいうのだろうか。
麻生光にはそんな少々飛躍した考えの方がむしろぴたりと合うのだ。
それとも、宗教家としての生活が誰もが持っている感覚を失わせる事があるのだろうか。
例えば、麻生光は欠落者のような者と考えることはできないだろうか。
それは、罰当たりな事だと、阿形は周りに判らぬよう少しだけ頭を振った。
阿形は隣の伊集院のような男が好きではない。彼の耳の付け根辺りから腐臭のような嫌な臭いがして不快感を煽る。宗教家でありながら、そんな俗な部分を持っている事が気に入らないのだ。
このような雰囲気は自分のような勤め人のような者がもつのだろう。欠落どころか垢まみれのような男だと思った。それも罰当たりかもしれなかったが。
使用人が、境 菜摘を連れて部屋に入ってきた。
菜摘は、やや緊張した面持ちで麻生光と伊集院の前に立った。
『麻生様、伊集院様、こんにちは。本日はわざわざお越し下さり有難うございます。』
菜摘はやや緊張した面持ちで二人に挨拶をした。表情が暗いのが阿形には気になった。
菜摘は夏らしい青いワンピース。肩より下までに伸びた髪の毛は先が自然にカールしている。
派手さや嫌みのない上品さをその場の誰もが好意的に受け取った。
すると麻生光が立ち上がって菜摘の前に立ち手を握った。長身なので菜摘の顔を覗き込むように言った。
『少し不安な気持ちを持っていますね。判りますよ。誰もが未来を思うとき子羊のように恐れるものです。』
菜摘は顔を上げた。彼女の大きな瞳は、まだ麻生光の目を直接見れないで伏し目がちのままだ。
そんな菜摘と無理に目を合わせようとはせず、麻生光は髪の毛一本揺れないような穏やかな声で言う。
『この度の婚姻の儀が行われるのは、この街だけではなく全てで100万人もの会員の方々の中から神が貴方に手を差し伸ばしたという証ですよ。』
言葉にもその眼差しにも偽りを語る者が持つような、かび臭い嘘繕いは欠片も無かった。
『はい。判っています、麻生様。』
『何よりも貴方の幸せを願っています。神もまた貴方へ幸せな未来と家族を与えるためにこの采配をお出しになったのです。』
麻生光は、熱の無い凪のような話し方をする。
『さぁ、菜摘、お坐りなさい。』やや甲高い声の千草に言われて菜摘は無言で頷いた。
それにしても美しい少女だと、阿形は菜摘を見て思った。恐らく今度の婚姻の儀では街は大きな騒ぎになるだろう。
旧家の美しい令嬢と、街で最も大きな企業の社長の子息。まるで仕組んだみたいじゃないか。
ここ最近、わざわざ麻生様ご本人が一会員の自宅を訪ね、協力を求めて回っているという力の入れようだ。
阿形は、また罰当たりな事を考えている自分に気が付いた。しばらくは目の前の話の聞き役という立場に徹しようと周りには判らない様に深呼吸をした。
隣の伊集院が生え際の後退した額の汗を拭きながら話し始めた。
『えぇ、早速ですが、この度の婚姻の儀に際しまして諸々の事は全て神の御心のままに滞りなく進めて参りました。万に一つの心配事もございません。本日は、婚姻の儀に先立って行われる結納の儀の日取りが決まりましたので詳細な打ち合わせを兼ねて参りました。』
伊集院は、無粋な面持ちに似合わないたどたどしい話し方で説明を始めた。
翠光の会の行う諸行事で最も大切なのがこの婚姻の儀である。麻生様が立会いの下で行われる教会の行事でもあり、その日取りは、婚姻する者達だけでなく教会の都合も含めて定められる。それどころか1日に数組の婚姻が同時に行われるのだ。順番にではない、同時なのだ。
結納の儀は婚姻の儀より前に行われ合同で行われることもない。
ただし、日程は両方の会員の家の間に教会が入り伊集院のような者が調整をして決まっていく。
菜摘はまだ高校生であり、婚姻の儀は来春に行われる。だが結納の儀はその前年に行う事もある。
伝えられた日程は8月21日だった。
結納の儀には、菜摘が嫁ぐ相手のM電産製造の社長の子息、横井 真二とその社長夫妻が来る。
付添として、阿形も同行する予定であった。
『場所はオリエンタルホテルのルビーの間でございます。始まりは午前11時からですが30分前までには来て頂けますようお願いいたします。』加えて伊集院はいくつかの準備について話すと説明を終えた。
菜摘も千草も、母の真紀子も丁寧にお礼を言った。菜摘もそれ以上は何も言わなかった。
全て伝え終えて、伊集院は息を付いて飲み物に手を出した。
そして伊集院は『これからも境家に神の加護は末永く続くことをお祈り致します。』などと話したが、阿形はこのような事は麻生光こそが言うべきではないかと思った。
だから、この男は伝道師止まりなのだ。阿形は横目で伊集院を見下していた。




