第16話
夏休みが始まった。
最初の月曜日の朝8時。時間通りに斉藤祐樹は長谷精工の前に現れた。
長谷精工の始業時間は8時15分からである。扉を開けて出てきたのは長谷の母である美佐子だった。
美佐子は、ジーンズにポロシャツ。それに前掛けをしてしている。
ラグビーで鍛えた長谷のがっしりとした体型を知っていると母親とは思えないくらい小柄である。
『あなたが斉藤君ね、お早うございます。』
『宜しくお願いします。』斉藤はぺこりとお辞儀をした。
加工と、配達とを手伝ってもらうだけだと面接らしい面接もせず、長谷の父は斉藤祐樹のバイト採用を決めた。
『隆の友達ならいいよ』とそう言っただけだったという。
この日の斉藤の服装はジーンズに明るい青のTシャツという清潔感のある高校生らしいものであった。
うむ、悪くなさそうね。と美佐子は思った。それよりもこの身長はどうだろう。
『斉藤君にあう作業服がうちに有ったかしら。』探さなきゃねと言いながら美佐子は斉藤を中に招き入れた。
工場の中では、長谷の父の泰三と兄の明が仕事を始めていた。
図面を大机の上に広げて泰三が明に部品を見せながら何やら説明している。
『どうもどうも、お早うございます。』泰三は先日のようにニコニコしながら斉藤の前に歩いてきた。
明もこっちを見て会釈をした。笑った顔が長谷隆にそっくりで斉藤は笑いそうになった。
『今日からよろしくお願いします。』斉藤は二人にも挨拶をしたが、それよりも早く泰三は作業靴と作業着を準備するよう美佐子に言った。『隆に言って探してもらってくれるかな。着替えたら斉藤君には今日の仕事を説明するからね。』
こういう時は泰三は早口であった。はいよ、と言って美佐子は斉藤を連れだって工場の奥へ早足で向かう。
ここまで斉藤は言われるがままだ。
それにしても、落ち着き過ぎと言いたくなる位に落ち着いているな。泰三は斉藤の後姿を見てそう思った。
奥で斉藤を迎えたのは長谷隆だった。『悪いなぁ。小汚い工場なんかに来てもらっちゃってさ。』
『そんなことない、助かったよ。手に職を付けたいって思っていたんだ。』
斉藤は隆が準備した最も大きな作業着に袖を通していた。工場の奥は休憩所を兼ねた居間だ。工場からドア一枚隔てると平凡な居住空間がある。
特別広いわけでもなく丸めた図面や段ボール箱まで無造作においてあり斉藤の目には珍しかった。
『隆、あんたは部屋で勉強してなさい。斉藤君は工場に来てくれる?』美佐子が隆を部屋に押し返した。
『はい。』斉藤は自分が雇われた理由が判る。
長谷隆はこれまで部活から帰宅後に家業をも手伝っていたようだった。高校3年生の夏休みがどれほど大切か。
受験生の親ならば息子に勉強する時間を与えたいと思うのは当然だろう。
言い換えれば、自分の息子には勉強をさせて、代わりにその同級生に仕事をさせるという事だ。
しかし、斉藤は長谷の両親を悪く思えなかった。
働きたいと言ったのは自分であったし、何より息子の代わりに工場で働くことを快諾してくれた。
家庭であり職場であるこの家に快く迎え入れた、第一印象のまま気負いのない人柄だと思った。
『いいかい、斉藤君はここのフライス盤の作業の補助ね。明が切断する材料を機械にセットしたり切粉を掃除したり、あとはなんだな、掃除したりとか細々な事をお願いね。』
泰三が斉藤をフライス盤の前に連れてきた。今日も話す声が大きい。
すでに幾つかの材料の加工が終わっていて脇に積まれていた。
材料を置く籠や、加工済みの部材の置き場所、あとは工具箱の置き場所にはそれと判るように黄色いビニールテープでマークが付けられていた。それぞれの箱の外形に沿って四角くビニールテープが貼られている。
『いろんな物が全て置き場所が決まっているからね。使ったら必ず綺麗にして元の場所に整頓して置くようにね。』
泰三が言った。『道具の整頓みたいな基本的な事が品質の維持には大切なんだ。僕たち下請けの工場は品質が信用だからね。』
斉藤がうなずくと明がフライス盤の前に立った。きっといつも同じ位置に立つのだろう、床の色がそこだけ薄くなっていた。小さな町工場は過酷な仕事をしているのだと斉藤は思っていた。だが目の前に立っている明からは肉体労働者のような泥臭さを感じなかった。
『作業姿勢も大切だよ。姿勢は精度に影響するからな。』
フライス盤に向かって背筋を伸ばし斜めに構える様は、作業姿勢というものではなく真剣を扱う武芸者の佇まいに似ている。『本当ならダイヤルを合わせただけで切断寸法が出るはずなんだけどね。』
温度や、刃送りのスピード、力加減で狂う事から逆算して寸法の”ずらし”を予め見込んでおくのだという。
『後で、実際にやってみろよ。見てるだけじゃ覚えられない事ばかりさ。』
21歳になったばかりの長谷の兄は、そう言いながら何回もぶれない手の動きを繰り返した。
機械的な動きではない、むしろ最も人間的な動きだと思う。
なぜなら材料を送るハンドルを操作する指先に全ての注意と神経が集中しているからだ。
それが斉藤の目線を引き付ける。キーッと鉄が切れる音がする。こっちの手にも力が入る。
『お前まで緊張してどーすんだよ。』明がからかい半分に言った。
『はい、すいません。』なぜか謝ってしまったので斉藤は照れた。誤魔化すように帽子を被りなおす。
泰三は隣の加工機械を操っていた。程無くして奥から美佐子が鞄を持って出てきた。
『これから、銀行とクリーニングとあと一件集金に行ってくるからね。』
『はいよー。』泰三も明も目線は作業している時と変えることなく口だけを動かして返事をする。
『お昼ご飯には焼きそば作っておいたから、12時になったら温めて食べてね。』
さらに早足で美佐子は外で出て行った、すぐにエンジン音がして軽トラが出て行った。
『まぁ、うちはいつもこんな感じさ。夏休みも無いんだよね。』明がまた口元だけを動かして言った。
進学する気のない斉藤には今年が最後の夏休みである。改めてそんな事を考えていると、長谷隆の東京進学の話を聞いた時の菜摘の顔を思い出した。驚いてしばらく指先ひとつ動かせなくなっていた。
旧家のお嬢様。美人で聡明。クラスのアイドルのいつもの姿が嘘のように動揺していた。
あれじゃバレバレだよな。斉藤は思った。菜摘にも長谷との最後の夏休みという事だろうか。
『おーい斉藤君、明は判りやすく説明してるかい?』泰三がまた大きな声で呼びかけた。
『はい、とっても判りやすいです』
斉藤は笑顔でそう返した。




