第12話
夏休みが明日から始まる。
先日の、長谷精工の見学は中途半端に終わった。菜摘は長谷の一生懸命な説明を聞いていたかったし途中で遮られた事が残念だった。麻生光というこの町の有名宗教家がなぜ長谷精工を訪れたのかも判らなかった。
『うちの親父はさぁ、地域の役員なんだよね。うちって昔から教会の手伝いをしているんだ。』
長谷が菜摘に教えてくれた。
休み時間も今日で終わる、高校生活最後の1学期の最終日だ。
『そうなんだ? 私の家も役員よ。というか母がとても熱心な信者だから』
高台に立つ校舎の開け放たれた窓からは心地よい風が吹き込む。
『俺は、高校でたら東京に出ようかと思ってる。受験は東京の大学が本命なんだ。親父が俺には教会の手伝いをさせないようにしてるのは東京の大学に行かせるためなんだ。』
風が強く吹いた時のような驚きだった。ちょっと返事ができなかった。
気軽に聞けそうなのに、菜摘にとっては聞く理由が必要な気がして、これまで聞きそびれていたことだった。
『なんで東京の大学になんかいくの?』自分でもおかしな質問だと思った。
必要があるから東京の大学なのだ。そこに「どうして」という理由を問うのは変である。
自分の新しい進路に進むのはクラスのみんなが同じだ。
『兄貴が工場は継いでくれるし、俺は東京へ出て何か大きいことをしてみたいんだ。子供みたいだけどさ。』
長谷は少し照れながら言った。そうなんだ。。菜摘は聞いているのかどうなのかよく分からない曖昧な返事をした。不意にこれが最後の夏休みだという言葉が浮かんだ。
『先生にも東京の大学の方が本命だなんてまだ言ってないんだけどね。』
長谷の、菜摘だから話したんだ、内緒だよ。という言葉が逆に重くのしかかった。
胸の辺りの呼吸とかを司る体の構造がぎしぎし錆びついたようだ。
卒業まであと何日この教室に来るのだろうとかなんだか思いが無駄に巡る。
平常心を保つという恒常性に異常が生じたに違いない。
不意におでこの前に人の肩が見えた。顔を上げるとクールだが野性的でもある顔立ち。斉藤祐樹だった。
『菜摘、顔色が悪いぞ。』
そういえば最近、菜摘って呼ばれる。違う事を考えるのが一番だと教わったようで菜摘は笑った。
『斉藤は夏休みは何をしてるんだ?』長谷が言う。長谷は部活も引退して受験生生活一本に集中するのである。
『運転免許でも取ろうかと思ってる。あと良いバイト先がないかと探してるところだよ』
斉藤は進学しない。と菜摘は思った。きっと長谷もそう思ったに違いない。
どうしてなのか、進学することが分かっている相手にその理由を聞くよりも、質問することをためらわせることだった。いろいろあるさ、などと割り切れない年頃である。
『それより。相談があるんだ。』斉藤がそんな事を言うのが珍しくて長谷は目を丸くした。
『俺が休み時間に、教室を出てどこかに行っちゃうだろ? それと関係してるんだよな。』
胸の重りを感じているのが薄っすら軽くなった。
違う事を考えるのが一番だとまた教わったみたいだ。
斉藤がニヤッと笑った。 菜摘を見て、まるでその効果を狙っていたと言わんばかりであった。