planet aqua
病院からの帰り、おれがそのカフェに入ったのは夏がまさに盛りに差しかかろうという昼下がりだった。そのあとはもの寂しい晩夏、そして秋が待っているだけの絶頂。そこを昇りきる直前の高揚感が都市を覆っていた。
汗を拭きながらクーラーのよく効いた店内に座り、氷いっぱいのレモンティーを口に含む。人々がせわしなく行きかう眩ゆい交差点。その中に明日香の姿を見つけた。
「お待たせぇ~!」明日香はおれの姿をみとめると交差点をわたり、店に入ってきた。「大丈夫? 昼休み」腕時計を指差す。
おれは微笑んでうなずいた。なんだかものすごくホッとした。
隣では、先客の女子高生二人連れが、かしましく先刻からお喋りを続けている。
「…で、どうだった、結果?」席に着くなり、注文したアイスコーヒー。ストローをつまみ、美味しそうに喉を鳴らす明日香。努めて明るく声を出しているようにも見える。「やっぱ取り越し苦労だったんでしょ…?」
「それなんだけど…」おれは目を合わせずに封筒を差し出し、明日香の話を強引にさえぎった。近くの大学病院名が記された封筒。
「なぁに~! わざと深刻ぶっちゃって」明日香は甲高い声を出し、引きつった笑いを浮かべる。しかし目を合わせようとしない。
「…でさ、ヒロシなんか、この前十円ハゲが見つかったみたいでョー!」
「うっそ、やっべ!」
ギャはハハハ! 女子高生が必要以上に大声をはり上げる。「どんだけ若ハゲぇ!?」
どうして平日の、それも昼下がりから高校生たちがこんなところでたむろしているんだ? という疑問は、ばかげている。とっくの昔から、高校生たちには正規の時間割なんてありゃしない。
左鎖骨の近くにしこりをみつけたのが梅雨に入ってから。春先からどうも微熱が続き、倦怠感を感じていたが、食後に頻繁に吐くようになるまではあまり深刻には考えなかった。忙しさにかまけ、健康診断にも行かなかったのが発見を遅らせたようだ。
「手術でも、取り切れないって」おれは封筒からPET写真を取り出した。血管・リンパ腺が形づくるおれの身体の輪郭。その中、主に左側に黒い「染み」が首筋まで繋がっている。特に胃と腸の上部のあたりに染みが集中し、胃の一部などは真っ黒に塗りつぶされていた。
「うそっ!?」明日香は電気にあたったみたいに首筋を伸ばすと両目を見開き、両手を口にあてた。「だって、そんなの…今は薬飲めば治るはずだし。親の時代ならもうだめってわかるけど…」
「ありえねー! ありえねーべ!」
ギャはハハハ!ふたたび女子高生たちが呵呵大笑。手首だけで力なく両手を叩く若い女性特有の‘ならい’は数十年前と変わらない。
おれは舌打ちする。彼女たちの尊大な若さ、そして開かれた未来への嫉妬が苛立ちに拍車をかける。
「そりゃそうだけど…やっぱりここまで広がると、手遅れって感じみたいでさ」
―すみません、久本さん。科学技術が進歩したと言っても、通信分野なんかと違って、生理学とかの医学の分野って、意外と成長が遅いんですよね。
自分と同い年ほどの根暗そうな医者の、ゲームの敗因を述べるごとき恬淡たる口調がよみがえる。まるで医者である自分はあくまで解説者にでも撤しようと言わんばかり。
エイズの進行が薬で抑えられるようになったと同様に、抗がん剤の開発が進み、ある程度の進行がんでも副作用無しで、劇的に進行を遅らせることができるようになった。ガンマナイフも精度を増し、切除の負担もかなり減った。
「言ってみれば、もうおれの身体半分以上切り取らなくちゃ無理っていうくらいのレベルらしい。こればっかりは、どうも、今の技術でも無理みたい」
おれは一昨日飲んだカプセル・カメラの写真も取り出した。まだ体内から排泄されていないが、無線で送られてきたデータを病院が既に現像したもの。
「いやっ、やめて」明日香は目を逸らした。無理もない。胃の中、大きいこぶしのような細胞の塊がその空間を大きく塞いでいる様は、いかにも悪性の、不吉な色合いを帯びている。
「どうしてそんな他人事でいられるの!?」明日香は目に涙を溜めていた。
「さぁ…」おれにも分からない。これがまるで、おれの身体の中にあるとは思えない。現実に吐き気等不快感は多少あるものの、こうして日の差す昼間、オフィスや街中で人に囲まれていると、まだそんなネガティブな想念は湧きようもない。しかし、分かる。やがて症状も進行し、夜になれば、抑圧された死の想念が溢れ出し、眠れなくなるのだろう。
「ヒロシんち、ゲーハーの家系っぽいよ??」
「そんなんぢゃ、まぢヤバくない?」
「そうなんよ、まぢヤバいのに、あいつ、『いや違う、これはハゲじゃねぇ。昔の傷の一種だ』って」
「うそ、何? 現実トーヒじゃん」
「そう、現実トーヒ」また、ギャはハハハ! 笑う。バタつかせたナマ足の、ピンクのゴム長靴を光らせて。
「現実逃避、か…」おれはまるで“他人事のように”窓の外を見た。
もちろん「それ」は、恐い。けど、やっぱり自覚症状がもっと顕著になるまでは、無理なんだろう。それが人間の元来の性だし、そうした非現実性への逃避の傾向は、生活のヴァーチャル化に慣れ親しんだこの数十年間で、ますます拍車がかかっているように思える。
「ねぇ、頑張ろう。あたしも、靖史のために頑張れるから」明日香が手を握ってきた。
「ああ。もちろん」明日香の手の温もりに、おれはいま初めて、おれ自身の生命の存在とその限りを認識せざるを得なかった。皮肉なものだ。おれは明日香の手を強く握りしめた。「そりゃ恐ぇよ、…おれだって、……怖い」
店内のテレビのニュースでは、数年前に完全消滅した南太平洋の環礁上の独立国家の離散民の、各国の受け入れ態勢の違いを伝えていた。日本はと言えば、やはり受入れに消極的であり、他民族への、相も変わらぬ狭量さを露呈していた。天気予報では、明日の東京の最高気温は四十二度に達しそうだという見込みを報じ、以前にも増して細くなった列島地図を映し出していた。
「…結婚、すんの? ヒロシと」
「さー。わがんね」女子高生の片方が、睫毛にカーラーをあてながら言う。「だってまだ、ぜんっぜん先のことじゃん」
「まあね、まだ人生、クソ長ぇし。あーあ、ヒマすぎ? そんなのって」
「言えすぎ!」
ギャはハハハ!
おれの携帯が鳴った。部長からのメールだ。
―取引先とトラブル。大至急、戻れ。
「やば…」おれは焦った。こうしたメールは日常におれをつなぎとめてくれる。しかし同時に、己自身の「非常時」にも関わらずこんな日常の「些事」に焦る、自分の心理に皮肉さえも感じる。
「…もう、昼休み、終わるから」メールの内容は告げず、おれは明日香に腕時計を見せて封筒を鞄にしまい、立ち上がった。「出よ」
「うん。今夜、またウェブするから」明日香も立ち上がった。「PCの前、居てよ」
「わかった。…あれ? 長靴、変えた?」
「うん。今年の流行。豹柄、可愛いでしょ」
「ああ」
絶えず消費し消費させ、経済活動を繰り返してきた資本主義の自己再生能力。そんな人間の集団的かつ自動的な営みに、おれは畏怖さえ覚える。
カフェの自動ドアが開く。
眩い日差しと猛烈な暖気が、瞬時に身体を包んだ。
おれは明日香の手を取り、街路に踏み出した。そしてくるぶしまである海水をじゃぶじゃぶいわせながら、オフィス街の交差点を渡った。
2007年7月15日に書いた作品です。




