第1話:存在してはいけない花
初めて投稿する作品です。どなたかに読んでいただければ、これ以上の光栄はありませんし、とても嬉しく思います。一文字一文字に精一杯の思いを込めて書きました。楽しんでいただければ幸いです。
雨は早朝から降り出していた。
空が時間を持て余しているみたいに、静かに、ゆっくりと、それでも途切れずに。
嵐ではない。雷もない。木々を揺らす風もない。
ただ細く、どこまでも続く、沈黙に近い雨。
派手さはないのに、気づかないうちに体力を奪い、体の奥まで冷たさを染み込ませてくる。そんな雨だった。
水野海斗はポケットに手を突っ込み、濡れた制服の肩を少しすぼめながら、大通りを歩いていた。
傘を差しているのに、あまり意味がない。
雨粒は隠しきれない秘密みたいに、傘の縁から内側へ忍び込んでくる。
町は小さい。
木造とコンクリートの家が道沿いに並び、古びた商店がぽつぽつと残っている。若者の姿がほとんど見えない喫茶店もある。
丘の上には、何も言わずにすべてを見下ろしているような古い神社。
海斗はこの町を知り尽くしていた。
目を閉じて歩いても迷わないし、つまずくこともない。
それなのに、その日――市立図書館へ向かう途中、奇妙な違和感があった。
景色が、ほんの数センチだけずれてしまったような感覚。
世界が、正しい場所にない。
理由は分からない。
先週の物理の試験で赤点を取ったせいかもしれない。
あるいは、教師に淡々と言われたあの一言のせいか。
「水野、お前は頭がいい。だが、いつもどこか上の空だな」
それとも、夕食の席で母が口にした「東京」という言葉のせいだろうか。
東京。
今の海斗にとって、それは夢ではなく、冷たい現実味を帯びた“可能性”だった。
「東京……」
この町には大きすぎる言葉だ。
電車とビルと、人工的な光の匂い。雨に濡れた土の匂いとは、決して混じり合わない響き。
海斗は小さく息を吐き、図書館の前で足を止めた。
湿気で窓が白く曇った、二階建ての静かな建物。
重い扉を押すと、かすかな軋み音がして、内側の空気が流れ出てきた。
外より少しだけ温かい。
古い紙と木、そして淹れたての安っぽいコーヒーの匂い。
海斗はその匂いが好きだった。
外の世界が騒がしい映画なら、ここは開かれた一冊の本の中。
時間が違うリズムで流れているのを感じられる、数少ない場所だ。
濡れた髪を軽く払ってから傘を立て、海斗は奥の書棚へ向かった。
目的は一つ。『現代物理学入門』。
それが必要だった。――少なくとも、自分にそう言い聞かせていた。
本当は、隠れたかっただけなのだ。
学校という場所に飲み込まれ、周囲の期待に押し潰されそうな自分を、図書館の沈黙の中へ。
歴史、文学の棚を通り過ぎ、科学のセクションに辿り着く。
そこはいつも通り、誰もいないはずだった。
だが、その日は――。
「……あ」
先客がいた。
窓際の席で、一人の少女がノートに向かっていた。
黒い髪を明るい色のリボンで結び、雨の中を歩いてきたとは思えないほど制服は整っている。
海斗はすぐに彼女が誰か気づいた。
――花澤あかり(はなざわ・あかり)。
橋の近くにある花屋の娘だ。
学校で目立つタイプではない。
けれど、知らない者はいなかった。
噂のせいではない。
彼女がいつも“花”に囲まれているからだ。
制服のポケットに小さな花を忍ばせていたり、髪に花びらがついていることもある。
教室の埃っぽい匂いの中で、彼女の周りだけはいつもジャスミンやラベンダーの香りがしていた。
海斗は他人に興味を持つタイプではない。
それでも、あかりだけは無視できなかった。
彼女だけが、別の季節から迷い込んできたみたいな存在感を放っていたから。
あかりは海斗に気づいていない。
ペンを走らせる手は速く、ときどき窓の外の雨を、測るような目つきで見つめていた。
海斗は躊躇した。邪魔をしたくない。
けれど足は勝手に書棚へと向かってしまう。
目的の本は高い位置にあった。
背伸びして手を伸ばす。
だが、指先は背表紙に届かない。
「……もっと背伸びしたら、キリンになっちゃうよ」
背後から声が落ちてきた瞬間、海斗の心臓が跳ねた。
振り返ると、あかりが少し楽しそうな、穏やかな表情でこちらを見ていた。
いつの間にかノートを閉じ、ずっと観察していたらしい。
「別に……キリンになろうとしてたわけじゃない」
「じゃあ、転ぼうとしてたの?」
「それも違う」
耳が熱くなる。
隠しておきたかった不器用さを見透かされたようで、妙に居心地が悪い。
あかりは席を立ち、ゆっくりと近づいてきた。
海斗よりずっと背が低いのに、彼女の指先は簡単に本を抜き取った。
「『現代物理学入門』」
タイトルを読み上げると、あかりはそれを大事なものみたいに胸元に抱えた。
「難しくないの?」
「……ああ。最悪に難しい」
あかりは小さく笑った。
大きな笑い声ではない。隠し持っていた秘密を見せるような、柔らかな微笑み。
「じゃあ、どうして読むの?」
答えに詰まる。
東京へ行きたいから。
親の期待に応えたいから。
それしか得意なことがないから。
でも、そんなことを口にするのは重すぎる気がして、海斗は別の言葉を選んだ。
「……世界がどう動いているのか、知りたいだけだ」
あかりは数秒、海斗を見つめた。
それから、感情の読めない声で言った。
「つまんないの」
「……え?」
「世界は、理解しなくても勝手に動くよ。無理に分かろうとしないほうが、うまくいくこともあるし」
嫌味ではなかった。
彼女がすでに知っている真実を、そのまま置いたような言い方だった。
あかりは本を海斗に返す。
「君こそ」
海斗は思わず聞き返していた。
「何をしてたんだ?」
「読んでたんじゃないよ。書いてたの」
「……何を?」
「いろいろ。恥ずかしいこと」
悪戯っぽく笑う。
海斗の胸の奥が、妙な音を立てた。
あかりは完璧な少女だと思っていた。
けれど今の言葉で気づく。
彼女も平穏を装っているだけで、その仮面の下には何かがあるのだと。
「僕だって、恥ずかしいことくらい書くよ」
「本当?」
「ああ。でも、絶対に見せないけど」
「じゃあ、同じだね」
その言葉は、水面に落ちた木の葉みたいに静かだった。
同じ。
彼女と同じ。
海斗はどう返していいか分からず、隣のテーブルに座った。
ペンが紙を削る音と、窓を叩く雨音が混じり合う。
催眠術みたいな、心地よいリズム。
海斗は本を開いたが、一文字も頭に入ってこなかった。
ただ、彼女が何を書いているのか。
その好奇心だけが、手入れを忘れた植物みたいに勝手に育っていく。
「……雨の音、嫌い?」
あかりが顔を上げずに言った。
「いや、嫌いじゃない」
「私は好き。雨は、正直だから」
「正直?」
「そう。雨が降っていれば、誰も笑顔なんて期待しないでしょ。外に出ることも、輝くことも求められない。ただ……じっとしていていい。そう言われてる気がするの」
海斗は胸が締め付けられるのを感じた。
あまりにも、自分と同じだったから。
「……君は、じっとしていたいのか?」
「時々ね」
あかりは深く頷き、再びペンを取った。
「水野くん……君は、間違った場所に咲いちゃった花みたいだって、自分のこと思ったことある?」
唐突な問いだった。
けれど彼女の声で聞くと、それは避けて通れない運命の質問みたいに聞こえた。
「……あるよ。ずっと」
あかりは笑わなかった。
ただ何かを確信したように、ペンを速めた。
しばらくして、彼女はノートを閉じ、バッグから小さなプラスチックの箱を取り出した。
「一つ食べる? 父に持たされたの」
中にはおにぎりと、温かい茶の入った水筒。
「お腹、鳴ってたよ」
あかりに笑われ、海斗は赤面しながらおにぎりを受け取った。
指先が触れた瞬間、火花が散ったみたいな衝撃が走る。
「……君が作ったのか?」
「花をいじってるだけが私じゃないよ」
彼女は少し誇らしげに笑い、プラスチックのコップに茶を注いでくれた。
「水野くん、あんまり遠くを見すぎないで」
「どうして僕が遠くを見てるって分かるんだ?」
「遠くを見てる人は、みんな同じ目をしてるから」
彼女にはすべてが見えているようだった。
沈黙が流れる。
でもそれは拒絶ではなく、許されている沈黙だった。
「……ねえ、一番悲しい花って、何だか知ってる?」
「知らない」
「一人きりで咲く花。花は人間と違って、嘘をつけない。一人きりだと、太陽があっても枯れてしまうの」
「そんなことはないだろ。森の中で一人で咲く花だってある」
海斗の反論に、あかりは悲しげに微笑んだ。
「そうね。でも……誰にも覚えられない花は、存在しないのと同じよ」
その言葉が、海斗の心の奥を正確に刺した。
東京を思い、未来を思い、そして――目の前の少女を思った。
彼女も自分と同じだ。
別の籠に閉じ込められているだけなのだ。
「あかり……」
無意識に名前を呼んでいた。
「もし君が一人で咲くなら、僕が覚えてるよ」
雨が止んだかと思うほどの沈黙。
あかりの瞳が、じっと海斗を見つめる。
嘘を探るように。その言葉の重さを測るように。
海斗は喉が渇くのを感じた。
冗談だと言い訳したかった。
でも、もう遅い。
「……それは、危険な言葉だよ」
あかりの声は震えていた。
喜びではない。恐怖に近い何かで。
「一度口にしたら、守らなきゃいけなくなる」
「……守るよ」
海斗は、その約束を破ることのほうが、今の自分が壊れることより怖かった。
あかりの表情が、わずかに崩れた。
希望と諦めが混じったような顔。
「変な人、水野くん」
「分かってる」
あかりはノートを抱え、席を立った。
「また雨が降ったら、ここに来て。……招待じゃないよ、警告」
去り際、彼女は海斗の隣で足を止めた。
花の香りが、ふわりと鼻を掠める。
「水野くん。いつか遠くへ行っても、この場所を忘れないで。……一度しか咲かない約束も、あるんだから」
扉が閉まる音がした。
海斗は一人、物理の本を開いたまま、しばらく動けなかった。
雨は降り続き、図書館は古い紙の匂いに満ちている。
世界は何も変わっていない。
――けれど海斗は知っていた。
自分は今、存在してはいけない花に出会ってしまったのだと。
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