森への一歩
森の入り口は、湖畔よりも暗かった。
木々が重なり合って、月の光を細かく切り刻んでいる。
空はあるはずなのに、見えない。
かわりに、葉の影と影のあいだに、奥行きだけが続いていた。
こどもは、そこで立ち止まった。
「……こっち、なの?」
声が、小さく揺れる。
湖のそばでは聞こえていた水の音も、もう届かない。
わたしは、こどもの少し先へ飛ぶ。
高くは行かない。
目の高さより、ほんの少し下。
光が、根っこの張り出した地面を照らす。
湿った土。
落ち葉。
転びやすい枝。
こどもは、息を整えて、一歩踏み出した。
森は、すぐに答えを返した。
かさ、と落ち葉が鳴る。
遠くで、なにかが動く音。
夜の中に、生き物の気配が満ちている。
「……こわい」
その言葉は、闇よりも正直だった。
わたしは、少しだけ光を丸くする。
尖らせない。
急かさない。
光は、道を示すものじゃない。
立ってもいい場所を教えるものだ。
こどもは、わたしを見る。
わたしが止まると、こどもも止まる。
わたしが進むと、こどもも進む。
それだけの約束。
森の中では、速さは必要ない。
迷うときほど、ゆっくりでいい。
風が、木々を揺らした。
葉がこすれて、ささやきみたいな音になる。
その音に、こどもは肩をすくめたけれど、
足は、もう戻らなかった。
最初の一歩は、もう終わっている。
森は、飲み込む場所じゃない。
通り抜ける場所だ。
わたしは、そう知っていた。
そして今夜、それを確かめている。




