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24 僕が助けるんだ

 猫目母の声のトーンが一気に下がった。


 ──何も、伝わってない……!


 あまりの絶望に、僕は顔を上げる。

「ねえ、ナツもそう思ってるの? 学歴が低い私が悪いって、私の頭が悪いからお前が死にそうだって言いたいの? お父さんみたいに」


 だんだんと早口に、ボリュームが大きくなっていく。

 猫目母の標的が、僕から猫目先輩に移ったのがわかった。


「ち、違うの、お母さん! 学歴とかじゃなくて……!」


 猫目先輩も、椅子から立ち上がって両手をぶんぶんと否定するように振る。

 猫目母は、猫目先輩を睨みつけ続ける。


 僕が、彼女を守らないと……!


「そうですよ、お母さん! なんでもかんでも、学歴が低いせいにしてしまうことこそが、学歴が低いと言われる原因なんじゃないですか?」


 猫目先輩に加勢して、庇うように、彼女の前に立った。

 僕が守るんだ。

 僕が猫目先輩を幸せにするんだ。


「あんたに……なにがわかる……。男のお前に……」


 猫目母が唸るように言った。

 僕は反論する。


「男とか女とか関係ないですよ! 人間、学歴だけじゃないでしょう!」

「ヒイラギ、止めて! それ以上、言わなくていいから!」

 猫目先輩が強い力で、僕の腕を揺さぶった。


「……それを言っていいのは、学歴がある人間だけだ! あの人みたいなことを言うな!!!」


 ガッ!


 猫目母はテーブルに置いてあったテレビのリモコンで、僕の頬を殴りつけた。

 冷たいプラスチックをぶつけられた衝撃は、たとえ女性の力であっても痛い。


「お前に……! お前に、なにがわかる!!」


 ぶん殴られて怯む僕を、猫目母は繰り返し殴り続ける。

 頭を庇って疼くまると、丸まった背中を、バシバシと叩かれた。

 瞼の裏に浮かぶのは、小学生の頃に親に暴力を振るわれた記憶。


 体が、動かない……!


「痛いっ! 痛いです……!」

「うるさい!! お前がナツを騙したんだろ! 病気だとか嘘を植え付けて! 他人の家に口を挟むな! 神様にでもなったつもりか!?」


 ──神様にでもなったつもり。


 春川先輩にも言われた言葉。

 僕は言葉の意味をわかっていなかった。

 周りが勝手にそう思っているだけで、僕にはまったくそんなつもりはなかったから。


「お母さん! もう、やめて! わたしが悪いの!」

 僕を殴り続ける猫目母を止めるために、猫目先輩が猫目母に抱きついた。


「離せ!」

「きゃあっ!」

 腰にまとわりついた娘を、猫目母は乱暴に振り払う。


 振り払われた衝撃で、猫目先輩は床に尻餅をついた。

「猫目先輩……!」

 僕はうずくまったまま、動けないでいる。


「どうしてお母さんに逆らう悪い子に育っちゃったの? こんなに金も手間もかけて育てたのに!!」


 猫目母の視線が、猫目先輩に移動する。

 手の中にあるリモコンが振り上げられ、猫目先輩の頭を叩いた。

 とても鈍くて、痛そうな音がした。


「……ごめんなさい……」

 猫目先輩の額から、一筋の血が流れる。

 猫目母はリモコンを床に落とした。


「どうして!? どうしてそんなに悪い子なの!? お母さんが悪いの!? ねえ!?」


 猫目母はヒステリーになって、金切り声を上げる。

 猫目先輩の頬を、手で引っ叩いた。


「ごめんなさい……! ごめんなさい……!」

 ひたすら謝り倒す猫目先輩。

 もはや猫目先輩の言葉は、猫目母の耳には届いていないようだった。


「待ってください!」


 ビビって動けなくなっていた自分の体を無理矢理起こして、猫目母と猫目先輩の間に入る。


「まだいたのか! 帰れってば!!」

「ぐっ……!」


 床に落ちていたリモコンを投げつけられた。


 右目に当たり、片目が開かなくなる。

 目の上が切れたようで、血が流れてきた。

 左目だけの視界の中で、猫目母がダイニングチェアに手をかけたのが見える。


「邪魔なんだよ、お前!!」

 高く振り上げられた椅子。


 これが勢いよく、力任せに僕の頭に振り下ろされたら──


「死んでしまえぇぇぇぇぇ!!」


 本当に死んでしまうと思った。

 反射的に両腕を頭の上でクロスして、衝撃を受け止める体勢に入る。


 果たして意味があるだろうか?


 きっと腕が折れるまで、椅子で殴られるだけなんじゃないか?


 僕は、ここで死んでしまうのだろうか?


「やめてえええ!!!」


「うぐっ!」

「猫目先輩!」


 猫目先輩が猫目母に渾身のタックルを喰らわせた。

 鈍い音を立てながら、二人とも床に倒れる。


「ヒイラギ! 逃げて!」


 猫目先輩が起き上がりながら、僕に声をかける。

 僕は慌てて立ち上がった。


 警察、警察に連絡しよう。


 スマホ、スマホはポケット?


 前ポケットにはない。


 じゃあ後ろのポケットか?


「なんっで、お前はいい子になれないの……!?」

「きゃあっ!?」


 猫目先輩の悲鳴が聞こえた。

 猫目母が猫目先輩に馬乗りになって首を絞めている。


「ねぇ、どうしてこうなっちゃったの? 受験も落ちちゃうし、ママに反抗するし。ママはこんなに頑張ってるのに、ねぇ、どうして?」

「おが……ざ……、くる……じ……」

「産まなきゃよかった、お前みたいな女」


 猫目先輩が死んでしまう。


 猫目先輩を助けられずに。


 猫目先輩を幸せにできずに。


 猫目先輩との思い出が、走馬灯みたいに次々と脳内を駆けていく。


 初対面で電車に飛び込もうとするのを助けた。

 SNSアカウントを作るために、屋上で猫目先輩の撮影会をしたのは楽しかった。

 体育倉庫に閉じ込められたとき、猫目先輩が助けに来てくれて、すごく嬉しかった。

 それから──星空の下で、「死ななきゃ」と泣き叫ぶ猫目先輩。


 ──「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」


 ──守らないと。


 今、逃げてしまったら、いったい僕はなにしにここまで来たんだ?


 動けよ、僕。


 動け、動け、動け!!!!


「やめろおおおぉぉぉぉぉ!!!!」


「……っ!」


 猫目母の息を飲む音が聞こえた。

 舞う鮮血が、猫目先輩の頬に付く。

 倒れる猫目先輩の母。


 僕は、キッチンにあった包丁で、母親を刺したのだ。


 カラン。

 包丁が、僕の手から離れて、床に転がる。

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