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15 トラウマ

「うわぁ!?」

 猫目先輩が背後に立っていた。音もなく。


 背伸びをして、僕の肩口から手元を覗こうとするが、あいにく身長が足りていないのでなにも見えないようだ。


「なんでもないですよ、教室、行きましょう」

「えぇ〜? 気になる〜!」


 別に猫目先輩に話してもいいのだが、靴箱に手紙を入れた女子は、きっと秘密にしておいてほしいから呼び出したのだろう。

 ペラペラと他人に話すのは、なんだか、裏切るようで気が引けた。


「わかった、ラブレターでしょ!」

 猫目先輩がびしりと人差し指を向けてくる。


「それで、放課後呼び出されたんでしょ!」

 全部、正解だ。


 ぎくりとしたが、顔に出ないように取り繕う。

「違いますよ、本当になんでもないですから」

「いたずらかもしれないよ〜!?」

「ラブレター前提で話を進めないでください」

「後輩くんにも、彼女ができるのかぁ」

「話、一つも聞かないですね」


 キャッキャと楽しそうな猫目先輩の背中を押して、僕達は三年生のフロアへと向かった。



 帰りのホームルームが終わると同時に、僕は浮き足立って教室を出た。


 この学校に、体育倉庫は二つある。

 体育館の中にある小さな部屋のような体育倉庫と、校庭にあるプレハブ小屋の体育館倉庫だ。

 それぞれ、屋外用と屋内用の授業に合わせた設備が収納されている。

 手紙で指定されていたのは、外のほうだった。


 校庭側の体育倉庫は、体育館の隣に位置しているという知識はあるものの、実際に足を運んだ試しはない。

 体育倉庫なんて、体育委員以外あまり行かない場所だ。体育館内の倉庫ならならまだしも、校庭にあるほうは、なおさら行かない。

 

 僕は昇降口で上履きから靴に履き替えて、校門ではなく、体育倉庫の方向へ。

 授業が終わったばかりの夏前の空は、まだまだ明るかった。


 昇降口にいる他の生徒達は、ほとんどが運動部のようだ。

 放課後すぐに直帰しようという生徒は、あまりいない。


「あ……」

「…………」

 その中の一人、秋本と目が合った。


 同じ教室から出てきたはずなのに、まったく気づかなかった。

 今までの関係なら、お互い別れの挨拶をして手を振っていたけれど、秋本はふい、と顔を逸らした。


 なにも言わずに、昇降口から出ていく。

 ズキリ、と胸が痛んだ気がした。


 なに、一丁前に傷ついてんだよ、と僕は自分に言い聞かせる。

 友達ではいられなくなるほど、口もききたくなくなるほどの仕打ちを、僕は彼にしたのだ。


 僕は校門へ急ぐ彼とは反対方向につま先を向けた。


 秋本は今日もバイトなのだろうか。

 平日に週五でバイトしているって、前に言ってたもんな。

 どれだけ傷ついても、失恋したとしても、きちんと働きに行く彼を尊敬する。

 ……いや、もう秋本のことは忘れよう。

 

 すぐに体育倉庫に到着した。手紙で呼び出すほどの人が来ない場所と言えば、裏だろうか。



 倉庫の裏に周ろうとしたとき、両開きの引き戸タイプの入口が、わずかに開いているのに気づいた。


 ──この中にいるのか……?


「こんにちはー……」


 僕は声をかけながら、びくびくと体育倉庫の中を覗いた。


 ……真っ暗だ。

 なにも見えない。


 扉を大きく開けようにも、取っ手が汚いのであまり触りたくない。

 扉も重量感がある。

 

 早く来すぎてしまったか……?

 それとも、暗闇の中で待っているのか……?

 

 どちらにせよ、入ってみないことには始まらない。

 

 けれど、僕はこの中に入りたくはない。

 嫌いなのだ、狭くて暗いところが。


「お手紙読んで来ましたー……。誰かいるんですかー……?」


 返事はない。

 ……入るしかないのか。


 太陽に照らされて噴き出る汗とは異なる、嫌な汗が額を流れる。

 ふぅーと息を吐き出した。


 落ち着け、大丈夫だ、きっと。

 そうだ、扉は開けっぱなしにしよう。

 僕は意を決して、取っ手に手をかけた。 

 力を入れて、僕の体が通れるくらいに隙間を開ける。

 体育倉庫の内側に体を滑り込ませると、建物の中は、ひんやりと肌寒かった。


 ──暗い。


「すみませーん……」


 なんだか、誰もいないレジ前で店員を呼んでいるような気分だ。

 こんなに真っ暗な店はないけれど。


 ……やっぱり、相手より早く到着してしまったのか?


「すみませーん……」

 もう一度、呼びかけてみたとき──


 ガラガラガラッ!!


「えっ!?」


 突然、入口の扉が閉められた。


 扉の隙間から差し込んでいた光が遮断され、完全な暗闇となる。

 ガチャリ、と外から鍵をかけられた音がした。


「だ、誰だ!?」


 背にしていた扉に振り返る。

 取っ手をつかんで開けようとしたが、ガタガタと揺れるだけで、ほんの少しも開かなかった。


「誰かそこにいるんだろ!? ここから出してくれ!!」


 自力では開けられないと悟り、僕はドンドンと扉を叩く。


 やめてくれ、暗闇は本当にだめなんだ。

 暗闇の密室は、本当に──!


 僕の必死な内情を嘲笑うかのように、返ってきた言葉は、無慈悲だった。


「ウゼェんだよ、お前」


 知らない、男の人の声。

 いや、この声、どこかで聞いたことが──


「一年のくせに、いつまでも猫目につきまといやがって。いい加減にしろ」


 台詞から、相手が猫目先輩に好意を寄せている三年生男子だとわかった。

 三年生で、猫目先輩が好きな男子──僕は一人、思い当たった。


 猫目先輩に振られていた、坊主頭の先輩だ。


 通りで聞き覚えがあるはずだ。

「そこで頭冷やしな。明日の一限には、見つけてもらえるだろ。これに懲りたら、もう猫目に近づくなよ」


「出してくれ!!」

 坊主頭の先輩がなにを言っているのか、もう僕の頭には入ってこない。理解できない。


 それ以上に、ここに閉じ込められる状況が耐えられない。

 何度叩いても、もう外からの応答はなかった。

 足音が遠のいていく。


「出して! 誰か! 誰かぁ!!」


 バンバン! ドンドン!


 扉をパーで叩いても、グーで殴っても、外で誰かが気づいてくれる気配はない。

「誰か……ゲホッ! ゲホッ!」


 手が痛い。


 砂埃だらけの体育倉庫で大声を出し続けていたせいで、喉に異物が入ってきた。

 喉を押さえて、前屈みで大きく咳き込む。


 咳が落ち着いて、顔を上げて──気づいてしまった。


 暗闇。

 密室。


 脳内に蘇る、小学六年生の頃の記憶。


 ──「そこで反省するまで、出さないから」


 ここにいないはずの、母の声。

「やめて……、ごめんなさい……、ごめんなさい……」


 僕は頭を抱えて、その場にしゃがみ込んだ。

 震えが止まらない。

 景色が滲む。


「ごめんなさい……、反省、してるから……! 次は、もっと頑張るから……!」


 しゃがみ込むどころか、お尻をついて体育座りになり、僕はもうその場から動けなくなった。



 現在、高校一年生である僕は、かつて、中学受験に全落ちした。

 志望校も滑り止めも、全部。全部だ。

 もちろん塾には小学四年生から通っていたし、塾内でも決して悪い成績ではなかった。

 それでも、受験したすべての私立中学に落ちたのだ。


 その結果、母は僕に失望した。


「あんたの塾と受験に、どれだけの大金を払ってると思ってるのよ」


 そんなの、知らないよ。

 お金の話なんて、わからないよ。


 パァン!


 母は、僕の頬を平手打ちした。

 あの痛みは、高校生になった今でも忘れられない。


「あんたには、もう期待しないわ」


 僕の頬を引っ叩いても溜飲が下がらなかったらしい母は、泣きじゃくる僕の腕をつかんで──


 押し入れに閉じ込めた。


 僕が出られないように、外からつっかえ棒をして。


「どうして、第一志望に受からなかったのか、そこでじっくり考えて、反省してね」


 昼間にふざけて入る押し入れが、閉じ込められた瞬間、こんなに恐ろしい空間に変化するのだと、そのとき初めて知った。


 父は、そんな母に対してなにも言わなかった。

 やめてやれ、とも、もっと躾けよう、とも。


 押し入れの戸を壊したら、出られたのかもしれないが、そのあとで、母からなにをされるのかが怖くて、僕は母に戸を開けてもらえるのを待つしかなかった。


 ずっと泣いて、何度も謝った。


 それでも、誰からも、一言も返してもらえなかった。

 お腹も空いて、泣き疲れて、眠っては目を覚ますを繰り返した。

 夜ご飯前に閉じ込められ、出してもらえたのは、次の日の朝だった。

 泣きすぎたせいで目はパンパンに腫れ、謝罪を繰り返していたせいで声は枯れていた。


 ボロボロになった僕を見て、母はようやく僕が反省したのだと思ったらしい。


「次は、高校受験だから」


 また、地獄が始まるのだと、幼いながらに僕は悟った。


 その日以来、「暗闇の密室に独りでいること」が異常に怖くなった。

 お化けが出そう、とかの恐怖ではなく、動けなくなってしまうのだ。


 中学時代は、友達が一人もできずに終わった。

 グループで勉強会を開いているクラスメイトが羨ましかった。

 孤独は辛いものだと、身を持って思い知った。

 それでも、耐えるしかなかった。

 その甲斐あり、高校受験は、なんとか志望校に補欠合格することができた。

 しかし、中学三年生の春休み、母は言った。


「次は、大学受験だから」


 地獄はまだ、終わっていない。


 中学の反省を活かし、高校では勉強をしつつも誰にも嫌われないように、クラスメイトとは、当たり障りない関わり方を心がけていた。


 現在、塾に通わせてもらっているが、塾こそが、僕の唯一の逃げ場。夜遅くまで、家に帰らなくて済むから。


 そんな孤独が怖い僕が、出会ったのだ、彼女と。


 愛されないと泣く、猫目先輩と。

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