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第三話 もう一人のパトリシア。

 「この箱は完全真空状態です。そしてこの箱の外殻は透明ですが、皆さんにはこの箱の中身が見えないでしょう。この箱の中には光すら存在していないからです。そうつまりこの箱の中には何も存在していません。しかし箱は箱として存在し、中にはしっかりとした空間があるのです。この箱は空間を保有しながらも移動する事ができます。この箱をA地点からB地点へ移動した際、中の空間はA地点のものなのでしょうか。それともB地点のものなのでしょうか。この箱の中には確かに空間と時間が存在しているのです」

 魔術学基礎理論は相変わらず難しい。それを証明されたところで頭にハテナが浮かんでしまう。だから何。だから何なの。

「火の反対は水。しかしそれは科学では違います。これが成り立つのは魔術における相克概念にのみ成り立つのです。つまりこの世界には物理現象ではない概念が存在するのです。空間と時間、これらは概念です。物理現象では決して干渉できません。魂もその一つです。物理現象ではないからです。これらに干渉するには物理現象から逸脱しなければなりません。例えば勇者や聖女が存在します。彼らを彼らたらしめるものはなにか、私はそれを精神や意思だと考えています。勇者も聖女も、不屈の精神、そして意思を持っているのです。勇者が魔王を倒すと望めば倒すまで止まりません。聖女が待つと語れば、例え百年だろうと待ち続けます。この不屈の意思こそ、彼ら彼女らをたらしめるものなのです。空間と時間、そして魂。これらは物理現象ではありませんので、物理現象で干渉する事はできません。昔は魔法がありました。火をただ現象として扱っていた時代があったのです。その時代には空間と時間を操る法がありました。しかし現在ではこれらは失われています。魔法から科学を導き清廉された魔術では、火はただの火として扱えないからです。それは魔力の無い人間が魔術を使おうとするようなものなのです」

 魔術における基礎理論。

 つまりこれらが何を言いたいのかと言うと、空間や時間などを魔術で構築する事はできないと、そう言いたいのだ。

 これらを扱いたい場合は、構築式等を用いない古代の魔法として用いる事になり、しかしそれを扱うには、魔力の無い人間が魔術を扱うのと同じぐらいに難しい。

 つまり空間や時間などの概念を扱うのは時間の無駄だと言いたいのだ。


 ため息が漏れる。

「聖女かぁ……」

 ボソリと呟いていた。

 私、ラートリーハーベルは医療の名門であるハーベル子爵家の長女だ。魔術を用いた現代医療魔術の最先端を走っていると自負している。

 でもそんな技術も聖女の前では形無しだ。

 聖女の習得する魔術は私達が必死に学んだ技術を、たった一つの呪文だけで解決してしまう。

「聖女は聖女として生まれてくるわけではありません。それは勇者が勇者として生まれて来ないのと同様です。彼らは意思の力、そしてのその強靭な精神ゆえにのちに聖女、勇者と呼ばれるようになるのです。誰もが勇者や聖女になる素質を有している。ですが全ての人間が成れるわけではありません」

 そうは語られても……。

「聖女は死者を蘇生させる奇跡を有します。しかしその奇跡は万能ではありません。使う側、そして使用される側にも鋼の意思が必要なのです。聖女の奇跡は医者を殺す。ですが全てにおいて聖女が優れているわけではありません。聖女の力が最も発揮するのは勇者においてのみなのです。それは聖女同様に勇者もまた強靭な意思の力、魂の力を有しているからです。この二つが合わさり始めて奇跡が成る。聖女がいる限り、勇者は幾度となく復活し、必ず敵を穿つでしょう」

 そうは語られてもね。

「聖女も勇者も実は後天的な発現なのです」

 そうは語られても……。

 厳密には聖女の奇跡は魔術ではないらしい。けれど貴族達が扱える魔術と同列にしたい思惑もある。人を救えるのならどのような力でも良いのだけれど……。

「難しい話だね」

 そうして物思いに耽る中、ふと隣におり声を掛けて来たのが彼だった。

 整えられた髪、吸い込まれそうな青い瞳、優気な笑みと高くすらりとした背に、長い手足。

「そうですね」

「僕はユリウスアードリィ。よろしくね」

「……ラートリーハーベルです。よろしくお願いします」

 アードリィ……アードリィ公爵家の方ですか。驚いて目を見開いてしまいました。

 アードリィ公爵家は由緒正しい古き良き御家です。

 家とは比べ物にならない歴史を有しています。

 こうして話すのもおこがましいですが、よくよく考えれば私にはあまり縁の無い方だと察して素に戻りました。

 改めて眺めても綺麗なお顔です。王子様みたい。

 公爵家と子爵家では生活が天と地ほども違います。彼らの生活がどのようなものなのか、私は存じておりませんでした。

 それからちょくちょく席が隣となり、声を掛けて頂きました。

「ちょっといい? さっきの話。この魔術理論なんだけど……」

「あー。ここはですね。この文脈からこの数式を導き出せば、あとは数字を当てはめるだけですよ」

「ほんとだ。ラートリーは頭がいいんだね。確かハーベル子爵家は医療の名門だよね? ラートリーも将来は医療の道に進むの?」

「そうですね。私は長女ですので、このまま婚約者ができなければ医術士になると思います」

「それはラートリーの夢?」

「夢……とはちょっと違うかもしれません。必然でしょうか」

「好きな人はいないの?」

「……男性は大きなお胸がお好きでしょう?」

 自分の胸元を撫でるとあまりの平面に辟易します。夜会や社交界にはちゃんと出席はしているのです。ですが殿方には全く相手にされません。たまに声を掛けてくるのは遊び人の方達です。たまには小さなもので遊びたいのですって。辟易します。

「それは君の魅力に気付いていないだけだよ」

「ユリウス様。ユリウス様も、そのような甘い台詞を吐くのですね」

「ふふふっ。別にからかっているわけじゃないよ。僕がそう思っているだけだよ」

 罪な人です。


 そうしてユリウス様と一緒にいる時間は増えてゆきました。

 自然と心が弾むのは仕方ないです。会うたびに好ましいと感じてしまいます。一緒に授業を受けお互いを補強し合う。お昼には一緒にご飯を食べ、午後の抗議の予習をする。放課後は連れ立って街へゆき、ただ談笑する。たったそれだけ。たったそれだけの事が、小さな小さな雪の結晶になり降り積もってゆきました。

「はい。これ、プレゼント」

「もう……その辺の野花を束ねたものがプレゼントですか?」

「ダメかな? 君の鮮やで淡い黄緑の髪と透き通るような褐色の肌に良く栄えるよ」

「……とても、嬉しいです。でも、むやみに野花を摘んでは可哀そうです」

「優しいんだね」

「……嬉しいのは本当です」

 惹かれるなと言う方が、無理なのではないでしょうか。身分違いなのは理解しているのです。理解はしても感情がそれを許してくれません。

「それでね。僕と結婚して欲しいんだ」

「……それは、その、でも……」

 でもとは戸惑いを見せるものの、心は決まっていました。一押しして欲しい。一押しされたい。求められたい。

「ダメ……かな?」

 引かないで欲しい。困ったように眉を顰める仕草が妙に胸を締め付けて。そんな顔はしないで下さい。

「……私でいいの?」

「君がいいんだ。どうか僕と一緒になって下さい」

 差し出された指輪。

「……はい」

 世界は残酷です。


 国は混乱に包まれ始めていました。

 私は医療の名門ハーベル子爵家の長女。

 国が混沌と化せば、医術士としてそれに立ち向かわなければいけません。

 公爵家の方々が私を気に入っていないのを理解していなかったわけではないのです。それでも彼と結ばれると信じていました。彼と結ばれるには私の家の力では足りない事も理解してはいたのです。功績とお家柄が足りていないのは理解していたのです。それでも結ばれると信じていました。彼を信じていました。その先にどんな未来が続くのか、手を取り合い、歩んでゆけると信じていました。

 ですが彼を好きなのは私だけはありません。彼を求めるお家は私のお家だけではありません。その方々を納得させなければいけませんでした。そして公爵家の方々に、私が一番彼に相応しいと証明しなければいけませんでした。

 ですがそれはやはり表向きで……私を排除するためだったのでしょうね。

 医術士として戦地へと配属させられました。


 配置場所は時が進むごとに最前線へと近づいてゆきます。

 わかってはいたのです。でもそれでも彼が、私を待っていてくれていると信じていました。たった三年です。たった三年耐えるだけのはずでした。

 この手紙が届くまでは――。

「呼吸を合わせて‼ 1、2、3、はい‼ ハサミ‼ 意識を確認して‼ 抗生魔術用意‼ ハサミ‼ 早くして‼ 熱傷指数の算出を‼ 早くしなさい‼ ……もういい‼ 私がやるから服の切除をしなさい‼」

 私は聖女じゃない。聖女なら祈るだけで治る怪我も治せない。

「カトリーヌ医術士‼ 魔物の群れが迫っています‼」

「患者を見捨ててはいけないわ‼ この人達はまだ助けられる‼」

「上官面令です‼ 医療魔術班は速やかに撤退しなさい‼」

「しかし‼」

「命令です‼ 私達はより多くの命を救わなければいけないのです‼」

 たった一人も治せない。

「カトリーヌ先生……お願い。楽にして。お願いよ」

「貴女はまだ助かります。大丈夫です」

「いやっ‼ いやいやいや‼ もう治さないで‼ ここから帰して‼ おかああああああさんんん‼ おかああさああああんん‼」

 何のためにここにいるのか意味すら理解できなくなる。

「カトリーヌ医術士……。以下三名の医術士が、おそらく脱走したかと」

(どうしろって言うのよ……。どうしろって……。あともう少しで三年。三年経てば故郷へ帰れるわ。この人達を見捨てて? 見捨てて一人故郷に帰るの?)

「フロギィ。あなたも逃げてもいいのよ?」

「いっいえ。ぼっ僕はカトリーヌ医術士に付いて行きます」

「そう」

 自らの未熟さに打ちのめされる。

 助けられたはずの命を一度のミスで失ってしまう。私が殺してしまった人の方が、助けた数よりも多いかもしれません。


 届いた手紙へはポタリポタリと跡が付いてゆきました。

 なぜ今伝えるの――彼が結婚してからもう二年も月日が経っていました。何もかもが崩れてゆく音。そしてそれに対してあまりショックを受けていない自分もいたのです。人の死は私の感情を殺していた。

「カトリーヌ医術士‼ 重症患者です」

「……わかったわ。容体は?」

「左手と左目を失っています」

「良く生きているわね」

「魔将と交戦したようで」

「2151番……。2151番。またあなたのなの?」

 運ばれて来たのは少女と見間違う容姿をした男の子でした。

 前線での死傷率は9割を超えています。三カ月もすれば部隊が丸まると入れ替わるそんな前線の中で、生き残り続ける人間が稀に存在する。

 2151番もその一人。自らの部隊が全滅しても生き残り帰ってくる希有な存在。

「施術室へ通して」

「わかりました」

「おお……ベルーチカ少将が魔将軍を倒したと報告があがりました」

 ベルーチカ。ベルーチカアドヴァイト。アドヴァイト公爵家の娘。将軍とは名ばかりの女。戦場に情夫を連れ込み引きこもる。そんな女が魔将など倒せるわけもない。部下の手柄を奪ったのだろう。

 公爵家としては戦場で華々しく散って欲しいのでしょうね。だがベルーチカは生き残っている。その図太さだけは一級品だわ。


 2151番を一目眺めて、その怪我の度合いを理解してしまう。

「ひどいわね」

「……捨てて来ましょうか?」

「いいわ。新しい施術を試してみましょう。ここからは私がやるから貴方は他の人達の応援に向かって」

「わかりました」

 カルテを眺める。

 貴族にだけは伝えられていた。ベルーチカ少将に与えられた任務は敵の殲滅だけではない。十五人の処刑人が存在している。

 戦場における秩序は絶対だ。その維持のために上官の命令は絶対的に厳守される。しかしそれを破る人間は存在し、そして自らに与えられた役職の権限を、自らの権限だと勘違いする人間もいる。本性が獣の人間がいる。その人間を殺すために十五人の処刑人が元老院により後天的に作られた。

 2151番もその一人――。


 よりにもよってその権限は情夫多きお飾りのベルーチカへと与えられ、そしてそれはどう考えても権限を与える相手を間違えていた。それでもこれが上の命令だ。いざと言う時のしっぽ切りには丁度良かったのかもしれない。なにせ人殺しをしろと命令するのだから。真っ当な人間にはできないから、真っ当ではないベルーチカ少将が指名されたのかもしれない。ベルーチカ少将は自らの快楽以外に興味がない。


 2151番には同情を覚える。

 再生魔術に麻酔はできない。細胞や神経が麻痺すると生成に著しい阻害が生じてしまう。再生魔術は私が考案したもっとも難しい術式の一つだ。痛みによって患者が絶命するかもしれないリスクも孕んでいる。実際何人も殺している。殺すたびに改良を加えてきた。どうせ死ぬなら実験してもいいじゃない。そう考えている時点で私も狂っているのかもしれない。

 魔術熱風で服や部屋内の雑菌を巻き上げる。

 心臓付近に手を当て振動系魔術によるバイタルチェック、身体スキャン。

 風魔術と氷魔術を混合した精密なデブリード――傷口が焼けて出血が少ない。噴き出した血液が顔にかかったが問題はない。

 おそらく魔術サンオブサンを使ったと考えられる。サンオブサンは小さな手のひらサイズの太陽を再現する魔術だ。辺り一面を消し炭にするほどの威力を持っているが、その代償は己自身、つまりは自爆魔術だ。

 敵将に左手を食われ、とっさに発動したのでしょうね。左半身を犠牲に敵を口内より吹き飛ばした。誰にでもできる判断ではない。命と勝ちを拾いにいった。

「素晴らしい手腕だわ……」

 思わずそう呟いていた。

 魔術ウォーターウォッシュで目の中を洗い流し、魔術ウィンドボールでゴミと汚れた組織を吹き飛ばす。

「フー……」

 奥にある目の組織、血管の表面を削り、噴き出した血液と共に組織を素早く再生させる。

「頑張って……頑張るのよ。もう少し、もう少しよ。よし……」

 眼球再生に成功――瞼を一度接合し、目の組成を固着させる。今光を与えるとショックで彼が死にかねない。

 続いては腕だ。

 腕切断部における服の癒着が著しい。魔術ウォーターリングで腕を圧迫。口に布を噛ませ、癒着を切り離す――。

「んんんんんんんん‼」

 跳ね上がる体を体全体で押さえつける。

「大丈夫‼ 大丈夫よ‼ 落ち着きなさい‼ 大丈夫よ……よし……よーし。いい子ね。いい子いい子」

「……はれ? あトリシア?」

 パトリシア――カルテにあった彼の配偶者の名前だ。

「……そうよ。パトリシアよ。大丈夫。大丈夫よ。もう喋らないで。痛いけれど我慢するのよ」

「……あかった」

 切断部から血液と共に魔力操作と細胞活性化にて再生を促す。腕の付け根から細胞の再生能力を利用して――しかしこれは非常に難しい。人間には分化全能性がないからだ。下手をすると傷口を覆うだけの再生になってしまう。神経と筋肉、骨、全てが横繋がりで流れるように作業しなければならない。

「いだい。いだいだいだいだい」

 ファントムペイン――良い兆候ね。体が腕の形を覚えている証拠。これがなければ腕は再生できない。

「我慢して。いい子だから動かないで」

「……あトリシア」

「そうよ。パトリシアよ。いい子にしててね」

「うー……」

 汗が拭き出して上着を脱ぎ棄てる。

 何度も失敗した工程だ。顔色が青くなってゆく。血が少ないのだわ。

 魔術血液同化――魔術で作り出した水分を本人の血液と同化して補充する。これはあくまでも仮の処置に過ぎない。

「がゆい」

「我慢して」

「目が、がゆい」

「掻いちゃダメよ」

「あ゛―。がゆいがゆいがゆい」

「いい子だから‼ 動かないで‼」

 大抵の患者はここで大暴れする。その痛みと不快感、拒否感は相当だと感じる。

 瞼の縁に溜まった黄色い膿。健康に再生している証拠だ。

「いい子ね」

 手首から指先を再生する。神経の分かれ目――筋肉の分かれ目、骨の分かれ目。指一つ一つの形は違う。

「よし……形は出来た。後は固定化するだけ」

 ここで固定化するのにも時間を有する。この体勢のままで十分程度。その十分が異様に長い。失敗したら一からまたやり直しだ。おそらく血液が足りなくなる。やせ細ってゆく体。本人の脂肪と筋肉を消費して再生されているのだから、やせ細っても仕方が無い。

「あトリシア……」

「なぁに? 動いちゃダメよ」

「ごめんね。無理に結婚して……ごめんね」

「……いいのよ」

「あのね。ずっとね。お世話してくれてありがとう。最後にこれだけを言えなくて、ずっと後悔してた。もう、自由にしていいから……。ありがとう。一緒にいてくれて」

 なぜだか不意に涙が溢れてしまって、なぜなのかしら。

「気にしなくていいのよ」

「……愛してる」

 その言葉に打ちのめされてしまった。カルテの内容を知っていた。ずっと初期から何度も怪我の治療をしている。この子は三年も前からずっと妻を思っている。

 私と一緒だ。でも私はもう……。何もかもが擦り切れて糸が途絶えていた。目まぐるしい日々。ここから去るために捨てる良心とへばりつく血だまり。救えなかった人々。戻っても意味の無い現実。公爵家も実家すらも、私を腫物として扱うだろう。あの人の顔。もう思い出せない。公爵家は私と彼との関係を隠すのでしょうね。もうあの人の顔が思い出せない。助けられなかった人々。違うの。助けたかったの。でも。違うの。野花で作られた花束。あなたの顔が思い出せない。

「バイタル低下……。ダメよ。ダメダメダメ‼ 起きなさい‼」

(ここから去るの?)

 みんなが私を見ている。

(ここから逃げるの? 私達を置いて)

 できるわけがない。

「死んではダメよ‼ 帰って来なさい‼」

 振動系魔術でひたすらに心臓に鼓動を促す。振動系ではダメ――。電撃系魔術――危険は伴うけれど、これしか残されていない。威力を間違えれば私が殺す事になる。それでも――。それでも……。

 子爵令嬢である事実すら隠して。偽名を名乗って。

(私ってだれ? カトリーヌってだれ? 私の名前って……だれ?)

 実名を知られたら、実家にも迷惑がかかるものね。

「私を置いて行かないで‼」

 最初から婚姻させる気等なかったのだ。

 体温低下――覆いかぶさり体温を魔力で行き渡らせる。

「パトリシアはここよ‼ 妻を置いてゆく気なの⁉」

 胸に置いた手の平――雷撃で跳ねる体。バイタルの再活性化を促す。終わりへのカウントダウンはあまりにも短い。

「帰って来なさい‼」

 ピクリと心臓が再び鼓動を始める。弱弱しく。

「そうよ。死んではダメよ」

 それでも力強く。

 涙を流す資格すらない。この手を滑り落ちていった魂。私へといくら縋り付いたところであなた達は生き返らない。

 失ったはずのあなたが、私に言うはずだった言葉が、頬に当てられた手の平。赤く湿り力強く温もりを孕んでいた。

 私は見てしまった。彼が私に向かって微笑んでいるのを。優しく微笑んでいるのを。その微笑みは、母が私を眺める時の表情によく似ていた。

 緩んだ目元、その唇の形。他人に向けられるには、私を壊し過ぎた。

 なぜ今更――。どうして手紙を送って来たの。そんなに私を絶望させたかったの。幸せになってほしい。よくもよくもよくもそのような台詞を綴れたものだ。憎しみと悲しみと無感情と絶望と、自分が壊れてゆくのがわかっていた。

 過去の私が私を眺めていた。何も知らない無垢で可愛らしい私を眺めていた。彼を眺め、そして彼に眺められる私をただ茫然と、眺めていた。そして彼は去ってゆく。残ったのは無邪気な私だけ。

「愛してるわ……」

「……あトリシア?」

「ええ……私がパトリシアよ。愛してるわ」

 ただあなたの最愛のパトリシアになりたかった。


 恍惚の中で目覚めた――夫の鼓動が聞こえる。耳に沁みて体中へと伝わるように。あなたの手が私の髪を撫でるの。するりと入り、優しく撫でるの。

 果てるたびに訪れる波と揺らぎ、あなたと私が混ざりあってゆく。

 ファーストキスの音色。ファーストタッチの声色。奥の奥へと触れて触れられて混ざり合う。

「あなた……」

 優しく声をかけるの。

 耳を食み濡らし唇を食み濡らし混ざり合い熱を帯び、糸を引いてあなたの胸へと垂れてゆく。混ざり合っていく。手を睦み、唇を睦み、そして――跳ねるあなたを受け入れ留める。撫でるお腹――口付けされているかのよう。いいよ。コップいっぱいに注がれた愛情は、温かな湯気を垂らして零れていった。

 もう一口をこくりと。

 ミルクを垂らして――。

 赤と白がうち解けてゆく。

 淡い吐息を一口。

 蜂蜜を加えて。

 ほんの少しを一口。

 肌を這う血潮の香り。

 あなたの吐息を一口。

「パトリシア……」

「はい……。あなたのパトリシアはここです」

 鼓動の中で、私は久しぶりに時を忘れて眠りについた。


 髪をなぜる指先。よそ風と共に目を覚ます。顔が綻んでおり、気付いて弾みと共に体を持ち上げる。離れると肌寒さを覚えて、夫の胸が呼吸で上下していた。眠気眼に絡まる視線。夫がじっと私を眺めていた。じっと私を眺めていた。

「……起きたの? おはよう」

 頬に口付けを一つ。

「……あー」

 口元の涎を拭ってあげる。

 バイタルチェック――異常なし。ちょっと痩せてしまったわね。

 じっと夫は私を眺めていた。

「具合はどう? 私がわかる?」

 夫はじっと私を眺めていた。

「どうかしたの?」

 絡まる視線がこそばゆい。顔を近づけて口付けを――まるで甘すっぱい果実に舌を這わせているかのよう。

「ふふっ」

 唇を離して髪を撫でるの。頬擦りをすると深く息を吐くほどの眠りの中へと誘われる。肌の擦れ合う感触に酔う。そうしてまた唇を求めたくなり、何度交わしても物足りない。

「あなたは……だぁれ?」

 垂れる糸と途切れた狭間にそう問いかけるあなたがいた。

「なに言ってるの? あなたの妻のパトリシアでしょ」

「……わぁ」

 そう告げると、夫は目を見開いていた。

 あまりの間抜けな表情に私は噴き出してしまって。

 まだ起きたくはなかったけれど仕事があるからここまでよ。

「しばらくは動けないだろうけれど心配しないで。モルグレン隊長には話をしておくから」

「あーい」

 おでこに口付けをする。でもやはり唇を求めずにはいられない。頬を撫でおデコを撫で髪をなぜ、もう一度。

「もう少し眠りなさい」

 離れて撫でるあなたの表情。

「……あーい」

 瞼を閉じた夫の、すぐに寝息が聞こえてくる。その様子を眺めると胸の奥から熱がじんわりと広がり、抑えきれずにもう一度――自然と笑みが零れていた。


 夫が所属している隊はベルーチカ少将の一万の大隊から成っている。

 一万の隊の中の千人規模を大隊長ホプキンスが指揮し、そこからさらに十分割した百人隊を中隊長モルグレンが指揮している。その百人の中に夫と私が所属している。

 軍医は私とフロギィの二人。

 処刑人は認識阻害魔術と同時に精神異常耐性が高い者から抜粋される。どの子も魔力特性が通常の人よりも強くその容姿が中世的である事が窺えた。

 モルグレンの百人隊には2110番、2151番、2152番、2159番の四人が所属している。この四人で一つのチームを組んでいる。

 この事実は一部の人間か貴族しか知らない。

 少将であるベルーチカ本人が前線に出張って来る機会はほとんどないけれど、ベルーチカ自体は処刑人がいるのを知っていて、自分が選んだ九人を愛人として侍らせている。三人は連絡係。合計十五人の処刑人がいる。

 前線に出て来ない少将と愛人の九人が処刑活動を行う事はほとんどなく、もっぱら夫を含んだ四人がこの大隊の処刑係を担っていた。

 軍と言えど一枚岩ではなく、多国籍軍でもある。当然物資にも限りはあり、また前線維持の辛さから逃げ出して村や町を襲ったり、他の軍隊を襲ったりと物資の強奪を計る輩が現れてもいた。夫は自軍のみならず命令されれば他国軍だろうと葬らなければならない。自国は襲えないけれど、他国なら襲っても良いなどと持論を持ち出す奴らもいるのだ。


 ベルーチカが前線へと出張って来るとろくな事がない。

「そこの貴方。ちょっとこの水たまりに横になりなさい」

「はーい」

 泥の水たまりに夫が顔を付けてぶくぶくと泡を吐きながらうつ伏せとなり、その上をベルーチカとその取り巻きが歩いていく。名前すらも覚えていないのでしょうね。

 まるで見下すように通り過ぎていく九人。

 ベルーチカと九人が去ったあと、夫を心配し駆け寄ると、夫は泥の中でバシャバシャと暴れていた。2110番、2152番、2159番が駆け寄って行く。

「すーぱーどろむし君一号」

「ぎゃはははっ‼ マジ受けるんですけど‼」

「はっ……すーぱーどろむし君二号」

「すーぱーどろむし君、空を飛ぶ。とびとびのとびやんね」

「ぶーん」

「いっいいな。ぼっ僕も飛びたい‼ どろむし君二号も空を飛びたい‼」

「どろむし君は一号しか飛べないのだ。なしなしのなしやんね」

「そっそんなーどうにかならないの?」

「羽が無いからね。ねーねーのねーやんね」

「えーそっそんなぁ……どうすれば羽が生えるの⁉」

「ぎゃははははっ‼ 馬鹿じゃん‼」

 四人は何時もこんな感じだ。

 飛んで行った夫が泥だらけで帰って来た。

「もう、こんな泥だらけにして。着替えを用意するからこっちに来なさい」

「うっへっ。すみましぇん」

 子供の世話をするようで少し微笑ましい。


 それでもやはり処刑人は処刑人で、夜にフラリと消え帰って来ては瞳を濁らせ血のニオイを漂わせていた。夫は処刑人の中でもっとも認識阻害魔術が上手らしい。

「おかえりなさい。バイタルチェックするからこちらへ来なさい」

「うへっ。えー? 眠いよー」

「特務曹長。これは軍医であり少尉である私の命令です。上官の命令は?」

「はい‼ 絶対です‼」

「よろしい」

「うっへぇー」

 本当は逢瀬を重ねたいだけ。

 隊である以上前線でも戦わなければならず、それは例え処刑人であっても変わらない。夫のバイタルは常に気にするようにしていた。独自の魔術を作り、精神と肉体疲労を回復させる。

 夫は何時も頭を撫でてくれた。その胸に顔を埋めると、よしよしと撫でてくれた。何度体を重ねただろう。終わったあとは何時も夫の胸の上。胸に顔を埋めるたびに夫は頭を撫でてくれた。

 体が熱を帯びて鼓動している。

 夫と逢瀬を重ねるたびに、私は夫の虜になっていった。それはただの快楽等ではない。心の底から湧き出るような温かさがある。この人がいい。この人の腕の中にいたい。この人に包まれていたい。

 次々と湧き起こる医術のインスピレーション。日々仕事は充実の一歩を辿っていた。

「今日も傷だらけね」

「うー」

 傷の一つ一つが勲章だ。

 夫は対人には強いが対魔物には滅法弱いようだった。

 縫い合わせる傷口へと勲章を刻んでゆく。今日も頑張りましたね。

 押し倒すと夫は私をじっと眺め、唇を求めると僅かに顔を逸らす。それを無理やり手で寄せて、奪うの。

 夫の目じりは何時も優気で、まるで包み込むかのように私を眺めていた。

 服があるのがもどかしく、夫の柔肌に自らの柔肌を這わせると、背がのけ反るほどの反応に囚われる。この温もりと鼓動の中に何時までも沈んでいたい。


 ある日、隊に届いた手紙の中に、夫宛ての手紙を発見した。今まで一通も来ていなかった手紙が今日は一通だけ来ていたのだ。理由は簡単でベルーチカが愛人達の外部への接触を嫌がり、秘密裡に処理してしまうからだ。

 私がその手紙を見つけたのは偶然だった。

 差出人はパトリシアと書かれていた。

 私は口元を抑えていた。まさか実家からの嫌がらせがここまで及ぶとは考えていなかったからだ。私は手紙等出していない。

 内容は当たり障りのないものだった。祖国のために一生懸命戦うように鼓舞されていた。

「私は何不自由なく元気です。だから心配しないで……か」

 実家の思惑を考える。

「あぁ、三年経ったから私が実家に帰って来ると思っているのね」

 帰って来てほしくないのね。私も実家には未練が無いわ。そもそも夫を前線に置いて実家になんか帰れるわけがない。

 私は手紙を燃やして捨てた。

 何処の世界に夫を置いて一人安全な後方へと帰る妻がいると言うのか。

「馬鹿にしないで貰いたいわね」

 私は夫と前線に残るつもりだ。

 戦役は通常三年、五年、七年と別れている。年数が長いほど支給額は多くなり、長い年数務めるほどさらに支給額が増す仕組みとなっている。その分、中途離脱時のペナルティも存在し、五年を希望したものが三年で離脱すると三年と同じ扱いとなり過分を請求される。さらにペナルティとして違約金も発生する。


 夫は処刑人だ。処刑人に期日は存在しない。この戦場が存在する限り帰る事は許されない。金額に対しても一般兵と同じ支給額しか支払われない。階級も特務曹長で固定される。その代わりこの戦役が終えた暁には、国から勲章と騎士爵の位が与えられる。一代限りの土地を持たない騎士爵ながら、その発言権は侯爵にも匹敵し、順調に行けばのちの元老院の一員ともなる。もっとも一般人に知られる事もなく、通用するのは貴族と王族の間だけだ。

 処刑人は元老院が管理するものであり、如何に王家でもその権限を無視する事はできない。


 時が過ぎ、戦線は激化の一途を辿っていた。

 昼夜休み問わず魔物の群れが襲い掛かり来る。私は死人までもは生き返らせられない。たった半年で隊は七割の人員を失った。

 でももう私はそれをさほど気にしなくなっていた。夫が無事ならそれでいい。だが多国籍軍からの執拗な応援要請には堪えた。大国なら人海戦術が通るだろうが小国はそうもゆかない。

 ベルーチカはその無能ぶりと強欲ぶりを発揮し、軍を所かまわず派遣した。物資だって無限ではないのに。

 しかも支給された物資の六割を横領しまた横流しをしている。

 魔王軍はそんな事等お構いなしに私達を攻め襲いに来た。昼夜問わず休みもなく――疲弊していった隊が壊滅的なダメージを受けるのは必然だった。

 それでもベルーチカはその責任を負わず、千人隊長、そして兵士達へとそのしわが寄った。


 2159番が亡くなった。

 魔将リヴィングツリートレントウッドに襲われたのだ。現れた魔将の前に疲弊した兵士達は次々に殺され腐敗する肉と化して仲間へと襲いかかった。

 そして2159番もその犠牲となった。

 前線は押し込まれ、隊は辛くも撤退し戦線は大幅に下がった。

「にげろぉ~にげるんだぁ~にげにげのにげやんね~」

 夫がそんな2159番の真似をする。寄り目の逆、離れ目をして口を半開き、涎を垂らしながら寄ったら寄ったらと歩く。

「ぎゃははははっ‼ マジ似てるんですけど‼ そっくりなんですけど‼」

「はっ……。ころじでぐれぇ~なにもびえない~。びえびえのびえー」

「なんそれ? ころころのころやろが」

「なんで⁉」

 すかさず2152番も真似をする。二体の物まねは寄ったら寄ったらと歩き回り、2110番が笑い過ぎて泣いていた。笑いながら2152番の背中を思い切り叩き、地面に叩きつけられた2152番は泥まみれ。

「あっあぁあ。泥まみれになっちゃった」

 そんな2152番を眺めてまた噴き出して笑う。夫も泥へとダイブし、ばしゃりと泥水を巻き上げた。もう……あとでまた洗濯しなきゃ。

「すーぱーどろむし君一号」

「はっ……すーぱーどろむし君二号」

「ぎゃははははは‼」

 千人にいた隊は323人まで激減していた。そしてその中でもうちの部隊だけは80人も生存していた。2159番が身代わりとなったからだ。

 死者を蘇らせる術はない。腐敗する肉を元に戻す術もない。中に寄生した種子型の魔物が根を伸ばし、肉体を操っているだけなのだから。生前の記憶を口走らされているだけ。

 笑い過ぎて涙を流す二人に比べて、夫は涙一滴たりとも零さなかった。

 あまりにも死に過ぎて、皆が絶望に囚われていた。

「2151番。念のためバイタルチェックをします。すぐに私のテントへ来るように」

「はーい」

「僕は?」

「フロギィ。お願いね。あなたもよ」

「えー? あーしも?」

「わかりました」

「フロギィ。彼女もお願いね」

「いいんですか?」

「貴方には経験を積む必要があります。頑張りなさい」

「ありがとうございます‼」

 本音半分嘘半分。夫と逢瀬を重ねたいだけ。

「モルグレン隊長。皆を休ませた方が良いのではないですか?」

「そうだな。皆休むように‼ またいつ……。いや、今は休もう」

 前線は下げたが戦いが終わったわけではない。すぐにまた交戦となるだろう――不安になるその言葉をモルグレン隊長が飲み込んだのは私でも理解できた。


 逢瀬の中でも夫は微笑んでいた。私の頭を撫でていた。

「だいじょうぶ?」

「私は大丈夫よ」

 夫が生きていればどうでも良かった。2159番が夫でなくて良かったと安堵するほどだった。そして大勢が犠牲になったけれど、やはり夫が犠牲にならなくて良かったと心の底から安堵していた。夫の胸の中――この温もりさえあれば何もいらない。

「あったかーい」

 私まで子供になった気分。

「よしよーし。あったかふわふわ。ふわふわのふわやんね」

「ふふふっ」

 口付けをしようとすると夫はやはりふいっと顔を逸らす。

「だーめ」

 手で顔をこちらへと向け、その唇へと口付けを繰り返した。左手に光る指輪同士を合わせて握り混むと、とても良い気分だった。


 部隊は再編制――しかし人数がいないため、私達の部隊は80人のままの続行を余儀なくされた。何せ物資も人員も足りていない。人員の追加も間に合っていない。誰が好き好んで死地へと赴くのか。それが答えで全てだった。

 腹が減ろうが魔物には関係ない。寝てなかろうが魔物には関係ない。交渉等一切通用しない。食べる物もなく前線維持のために私達は戦い続けた。

 ある日――。

「見て‼ 大きなネズミ捕まえた‼ みんな見て見て‼ まるまるネズミ‼ ねずねずのねず‼」

「まるまるまるネズミ‼ まるまるのまる‼」

 夫と2152番が何処からか大きなネズミを何匹も捕まえて帰って来た。

「食べよ食べよ‼」

「うっわ。マジまるまるじゃん。マジ美味しそう‼ かしてみっ。あーしが捌いてあげっし」

「捌けるの?」

「なめんなってのっ。任せておけってね‼」

「じゃあ、料理のさしすせそ言ってみて。まずさー」

「さしすせそ? 何言ってんのコイツ、陰キャの癖に。さ……才能?」

「最初からすごいのぶっこんで来たこの人ぅ‼」

「うるさい陰キャ‼」

「いっ陰キャ⁉ こっコイツひどい‼」

 やがて美味しそうな肉の焼けるニオイが漂い出す。夫も2152番も2110番も美味しそうにネズミの肉を齧り、私も差し出されたネズミの肉を齧った。

 味付けも何もされていないのに、そのネズミは妙に舌に合い美味しかった。

 だけれど周りの兵士達は喉や腹を鳴らすばかりで食べようとはしなかった。隊長のモルグレンですら戦々恐々とその光景を眺めていた。

 みんな頬がコケてやせ細っていた。

「……あんなの食べるなんて」

「俺には無理だ」

「うまそう……」

「みんな食べないの⁉ しっぽカリカリ焼き美味しいよ‼」

 夫が焼けたネズミを並べても兵士達は口を付けようとはしなかった。そのネズミが何を食べてまるまる太っているのかを知っていたからだ。

「……みんな餓死で死ぬの? それでいいの? 戦って死んでよ……。亡くなった同胞たちはみんな戦って死んだ。餓死で死んでいいの?」

 夫が冷たい声でぼそりと呟いた。

「戦って死んだ仲間に申し訳ないと思わないの? 飢えで死ぬなんて恥ずかしくないの? 戦って死んでよ」

 その言葉を聞いて、兵士の何人かが歩み寄り、ネズミを食べた。泣きながらネズミを食べた。涙を零しながらうまいうまいとネズミを食べた。

 みんなでネズミを食べた。うまいうまいとネズミを食べた。

 満腹になってぐっすりと眠った。そして――私達の部隊は疲弊した部隊の中で突出して戦果を挙げた。

 腹を満たし良く眠り戦った。

 ネズミを食べた。周りの部隊にもネズミ料理を振る舞った。みんなでネズミを食べた。ホプキンスも食べた。モルグレンも食べた。みんな食べながら涙を零した。美味しい美味しいと涙を零した。今までに、こんなに美味しい物を食べた事がないと涙を零しながらネズミを食べた。お腹にネズミを詰めて交代交替に良く眠り戦った。

 私達の部隊から戦死者は激減した。

 死んだのはみんな気のいい奴だった。みんな言うの。みんな良い奴だったって。

 死に物狂いで戦った。でもみな、もう、この戦いが何時かは終わるだなんて希望を抱くのはやめていた。ただ戦いたい。亡くなった同胞たちのために。そこに、英雄となったその列へと加わるために。


 私は吐き気を覚えるようになっていた。膨らみ始めたお腹――新たな命が宿っていた。気分は悪いのに、心は踊るように跳ねていた。

 しかし実家にそれを知られるわけにはいかない。周りにそれを知られるわけにはいかなかった。幻惑魔術を使い、私はそれをひたすらに隠し続けた。夫にすら隠し続けた。私に子がいると知られれば、私は前線から、夫の傍から離脱させられる。それは絶対に阻止したかった。それと共に実家に知られれば子供は取り上げられてしまうだろう。最悪殺されるか、私の知らない場所へと連れていかれる。

 だから必死に隠した――でもね、なぜだろう。

 夫の膝の上で頭を撫でられながらお腹を撫でていると、ここが戦場である事実を忘れてしまうの。

 十カ月は長かった。助手のフロギィにすら悟られるわけにはいかなかった。

 出産は一人で行った。予め出産を楽にする魔術は習得し、そして改良していた。

 スムーズに行えた。それでも貧血で倒れそうで、それでも我が子を抱き締めると得も言われぬような満ち足りた気持ちとなった。

 離れるのは身を裂くような痛みを伴う。それでも子供を戦場に留めておく事はできない。

「何時か迎えに行くからね。いい子で待っているのよ」

 私は生まれた子供を戦場で拾った子供として扱った。補給部隊に手紙と十分な金品を添えて託した。託した先はアードリィ公爵家だ。

 私に少しでも悪いと考えているのなら、彼なら悪いようにはしないだろう。賭けだけれど確信はあった。この薄っすらと栄える黄緑の髪を見れば、彼ならば気付くだろう。添えた手紙には戦場で拾った子供だと綴った。

 そしてまた夫の腕の中――。

 五年が経っても私達の隊から帰還するものはいなかった。

「カトリーヌ医術士……」

「今はパトリシアよ」

「ぱっパトリシア医術士」

「なに? フロギィ?」

「ぼっぼくは、いやっおっおれはもう一人前の医術士になったと思います」

「そうね。フロギィ。貴方はもう立派な一人前の医術士だわ」

「ほっ本当ですか⁉ 認めて下さるのですか⁉」

「えぇ、もう貴方は私の助手等ではないわ。これからはフロギィ医術士と名乗りなさい。紹介状と免許の発行手続きも進めておくわね」

「あっありがとうございます‼」

「今まで良く尽くしてくれたわ。その恩に報いたいと思うの」

「ありがとうございます‼ ぱっパトリシア医術士‼」

「まだ何かあるの? なにかしら?」

「ぼっぼくと、いや、俺とお付き合いして下さい‼ ずっと見ていました‼ 貴女だけを見ていました‼ お願いします‼」

 部隊の何人かからもその類の告白は受けた。女性の少ない場所だもの。数少ない女性を好きだと勘違いするのは仕方がない。

 もっとも自分はモテると勘違いして股が緩くなる女性もいた。こないだ別の部隊で出会った魔術師の女はまるで女王気取りだった。周りがそれを認めているのだから眩暈もする。毎日何人もの相手をするのですって。五人と同時にやった話を私に自慢げに語るの。しかもその女には故郷に置いて来た夫もいるのだから、信じられなかったわ。

 ……またパトリシアからの手紙が来ていた。

「フロギィ君」

「はっはい‼」

「ごめんなさい。私、好きな人いるのよ。だから貴方とは付き合えないわ」

「そっそんな‼ 待ってください‼ 僕は本気です‼ 本気で貴女を愛しています‼ 尽くします‼ 何でもします‼」

「ありがとう。でもそう言う問題ではないのよ。気持ちって。貴方はこれから医術士とて活躍するわ。私よりずっといい女性に出会えるはずよ」

「僕は‼」

「フロギィ医術士‼ これは何のつもり‼」

「本気なんです‼」

 腕を掴まれたので魔術による電流を流し弾き飛ばす。

「……パトリシア医術士‼ 僕は‼」

「フロギィ医術士。今のは忘れます。力付くでなんて最低だわ。見損ないました」

 そう告げるとフロギィは外へと出て行きました。傷つけて申し訳ないけれど、答えられないものは答えられない。

 ……パトリシアからの手紙を開いていた。

 そろそろ離縁届でも送って来たのかしら。

 しかし私の期待とは裏腹に、そこには何時までも待っていますと書かれていた。何時までも待っています。だから安心して戦って下さいと綴られていた。

 ――そういえば私の名前はラートリーでした。

 でもまぁいいわ。残念だけれど……夫は貴女には返せない。諦めて。

 パトリシア当てに手紙を認める。夫はすでに私と関係を築いている事。貴女の元へは帰らない事を記載して封を閉じた。貴族特権で封の切られる事のないようにしっかりと家紋入り判を使用し蝋で塞ぐ。

 距離が距離だし届くまでに何年かはかかるでしょうね。

 でもこれで次はきっと離縁届けが届く。

 離縁届を見れば、夫も未練を断ち切るでしょう。それでいい。そうすれば、夫は自ら私を求めるようになる。それでいい。

 良い子のねんねではいられない。私はもう欲しいものは何をしても手に入れる。あの人だけは私のものだ。私の最初で最後の人。


 他の国の小隊が野盗化したようで、夫がその処理にあたった。

 知らせを持ってきたのは十五人の中の三人。連絡係の少女達。高度な認識阻害魔術を使用する元老院の使いっ走り。

 赤い封筒を夫へと差し出していた。

「支給額を上げといたよ。感謝していいよ。ベルーチカには内緒ね。あとちょっと強敵だから気を付けるように。氷魔術が得意だってさ」

 夫も他の二人も何も答えませんでした。封筒を開いて中身を確認し、封筒が燃えて無くなると、四人はまるで最初からそこには存在していなかったように消えていった。

 雨が降る中――夫達は帰って来た。

「フロギィ医術士。二人を……」

「はい」

 夫だけが重傷だった。

 心臓付近に氷の矢が刺さっており血の気が引いた。しかし心臓からは逸れおり安堵の息が漏れる。足の裏が凍傷で剥げていた。痛かったでしょうに。夫はまるでなんてことの無いように無邪気な笑みを浮かべている。たまに恐ろしくもなる。ふらっと出て行きそのまま帰らないのではないか。ふらっと消えてしまうのではないか。できるのならあなたを私の胸の中に閉じ込めておきたかった。傷付き帰って来るあなたを見つめるたびに気持ちが胸の内より溢れてくる。誰も褒めてくれないよね。私だけがあなたのその傷へと勲章をあげる。

 心臓を避けたとは言え、刺さった矢が危険な状態である事に変わりはない。まずは周りの血管を一度縫合し止血しなくては……。

 熱風処理――。

(バイタル低下――心停止⁉ 毎回心停止するのはなぜなの⁉ 嫌がらせ⁉ そんなに私を困らせたいの⁉ いや……焦らないで。これを利用すれば……)

 一分で終わらせる。心肺停止で五分以上を経過するのは致命的と言える。

 縫合終了――。

「帰って来て。帰って来るのよ」

 帰って来るたびに止まる心臓を電撃で動かす。

「死んではダメよ。死んではだめ‼ 目を開けなさい‼」

 動き始めたバイタル――安堵の息が漏れていた。

 夫の傍から離れられなかった。医術用の簡易テントだが強靭でテントの扉には鍵と緊急手術中の札がしっかりと張ってある。緊急事態でない限り誰も入れないよう魔術が施してもある。私が改良した私お手製のものだ。緊急時には扉が大きな鞄へと変形し、中へと道具を詰め込み移動できる。

 ……殺すなら私の手で殺したいのかもしれない。

 そしたら――そうしたのなら……。私も傍にいてあげる。

 服を解き夫の温もりを感じていた。鼓動に耳を当て――その安堵感に酔いしれていた。最初と同じ。あの頃と同じ。違うのは、この心と体が夫を覚えていると言う事だけ。


 ……野盗達は見せしめとしてさらし首になったようだった。

 次の日には何事もなかったかのよう。

「わー肉食コオロギいっぱい取って来たー‼ みんなで食べよー‼」

「うおおおお。肉食こおろぎー‼ いっぱいだー‼」

「ぎゃははっ‼ あんた齧られてんじゃん‼ てかさ、これのメスの卵管には毒があるから処理させろしー」

「えー……できるの?」

「できるのー?」

「まーせろりっ。あーしが衣揚げ作ってやっし」

「私も手伝うわ」

「衣無いけど?」

「衣無し衣揚げだしー」

「それただの揚げじゃん‼」

「うるせぇ‼ 陰キャ‼」

「ぁあああああ陰キャって言った‼ コイツ陰キャって言った‼」

「緊急招集‼ 部隊は多国籍軍の援護へ回る‼ 全員速やかに準備を開始‼ 40秒で出発する‼」

「うわぁああああ衣揚げがああああ‼」

 夫の間抜けな声に癒される。

「衣揚げはやっておくから大丈夫よ」

「うゎあああああやったあああああ‼」

「帰ったら衣揚げだぞおおおお‼」

 2152番と二人で手を上げて喜んでいる様に笑みも浮かぶ。それは周りのみんなも同じようだった。

「あーしが作る時より嬉しそうなのなんなん? 喧嘩売ってる?」

「うわぁああああなんかコイツキレてるうぅううわ‼」

「うるさい陰キャ‼」

「この人、僕にだけきついいいいうわあああ‼」

「みんな帰ったら衣揚げパーティが待ってるぞ‼ 準備しろ‼」

「モルグレン隊長。そいつは楽しみですね」

「「「うおおおおおお‼」」」

 ここが戦場だと言う事実を忘れそうになる。戦意がそがれると言うよりは、気分が解れる。今夜もお腹いっぱいになりそう。後でまた逢瀬を重ねましょうね。戦場モードへ。

「フロギィ医術士。緊急事態に備えましょう」

「はっはい。パトリシア医術士……」

「しっかりしなさい」

「はっはい‼」

「何時までもねんねではいられないのよ?」

「すみません」

 フロギィ医術士。腕は問題ないのだけれど、メンタル面ではまだまだ不安だわ。


 ベルーチカの無能のせいで隊が壊滅的な打撃を受けた。

 前線が何度も退いた事による不満を払拭するために打って出たのだ。結果部隊は壊滅。ホプキンス率いる隊は孤立し、私達の隊も40人まで数が減った。敵に囲まれ死体のバリケードに埋もれている。何時終えるとも知れない戦線の中に取り残されていた。

 誰もが打ちひしがされていた。朝は来るのだろうか。夜が来ようとしている。夜が来れば闇に紛れたより強力な魔物に襲われるだろう。彼らは夜目を持つが、私達の夜目はそれほど優れてはいないのだ。

 精神異常耐性が異様に高いのは知っていたが、夫達三人だけはどこ吹く風だった。

「何を食べているの?」

「ネズミのしっぽカリカリ焼き。食べる?」

「貰うわ……。直接泥水を飲むのはやめなさい。携帯濾過器があるから、これを通した水を火で煮沸して飲むのよ? 確かこの帽子、ちょっと汚いけど防水仕様だから漏れないはずだわ」

「うわああああ。煮沸だぁああああ」

「やらせて‼ 僕にやらせて‼」

「ちょっと‼ あーしがやってやっし‼」

 塩味の聞いたしっぽカリカリ焼き。最後の食事だとしても悪くはない。

「みんなもしっぽカリカリ焼き食べよう‼」

 不思議と誰も異論を唱えなかった。妙な一体感がある。残った40人がまるで一つの生き物であるかのように。

「不思議なものだ」

「モルグレン隊長も食べて下さい」

「あぁ……旨いけどちょっと塩味がきついな。酒が欲しいよ」

「隊長―。それは言わない約束ですよ」

「はははっ。そりゃ違いない」

「フロギィ医術士。あなたも食べて備えなさい」

「パトリシア医術士……。ありがとうございます。っやはり。やはり僕はあなたの事が好きです。愛しています。これが最後になるかもしれませんので」

「そう」

「いいんです。僕が好きで愛しているだけですから」

「それがわかっているのなら何も言わないわ」

「……はい。パトリシア医術士は、やはり故郷の婚約者の事を?」

 笑ってしまった。もう学生時代の記憶等ほとんど覚えていない。思い出そうとも思わない。それでも野花の束を貰った事だけは、なぜだか覚えていた。

「はい。しっぽカリカリ焼きとお水」

 それも今、夫から差し出された食べ物で上書きされてしまった。

「もう忘れてしまったわ」

 あの人の事を憎いと感じた事もある。でも今は感謝すらしている。夫に会わせてくれてありがとう。


 夫が隊長へとしっぽカリカリ焼きを差し出しながら話しかけている。珍しいわね。

「隊長」

「どうした?」

「このままじゃ夜が来る。夜が来ればもうもたない。地図をある?」

「あるぞ。そうだな。やはり後退か……地図のこの位置、この位置まで後退すればあるいは……」

「それじゃダメだ。遠すぎる。撤退している間に夜が来る。そうすれば一人ずつ狩られていく。この人数では一人欠けるだけで致命傷になる」

「……何か案があるか?」

「ここは前に出る」

「前に? ……ホプキンス隊長か」

「そう。合流に賭けるしかない」

「できるか?」

「どっちみち死ぬしかない。それなら賭けてよ。どうせ死ぬなら前のめりがいい。仲間の所へ誇って行ける。おそらく地図のこの位置。この位置にいるはず。離脱時に大隊長の槍が見えた。そこから目算するとこの位置にいると読む。後は夜が来る前に合流できるかどうか。合流できれば円陣陣形が組めるはず。組めれば朝まで耐えられる」

「……なるほどな。その案に乗ろう。みんな聞いたか‼」

「うぃーす」

「行けるぞ‼ 仲間の所へ行けるぞ‼ 誇っていけるぞ‼ 最高だ‼」

 笑い声が木霊した。

「……ごめん」

 そんな中、夫がぼそりとそう呟いたのが聞こえた。

 皆にもそれが聞こえたはず。でも誰一人文句を言わなかった。

「なんて言うんだっけ? こんな時の言葉、なんかあったよね?」

「異邦人の言葉っしょ。初代勇者の。確か……ヤマトダマシイ‼」

「ヤマトダマシイ‼」

「「ヤマトダマシイ‼」」

「隊長‼ ヤマトダマシイだ‼」

「はははっ。そうだ。ヤマトダマシイだ‼ みなヤマトダマシイを掲げろ‼」

 私はあなたが誇らしかった。

「勝鬨を上げろ‼」

 闇が迫る――私達は誰一人後方を振り返らずに進み続けた。

 だけれど、幸運だったのは、取り残された部隊が私達だけでは無かった事。

 私達の勝鬨を聞いて、周りに取り残されていた多国籍部隊が答えた。

 すぐに伝令が駆け付けモルグレン隊長の案に乗り合流した。数十、数百の隊の集まりは大きなうねりとなり、ホプキンス隊長に合流を果たした。

「ホプキンス隊長‼」

 ホプキンス隊長率いている隊は多数が亡くなり激減していた。

「モルグレン‼ なぜここに‼」

「なぜも何もないですよ。一人で勲章をさらっていく気ですか? そうはさせませんよ」

「私は隣国のメレンシー騎士団長だ。貴公がホプキンス隊長か」

「これはメレンシー騎士団長殿。このような所でお会いできるとは光栄ですな」

「はははっ。そうだな」

 隊長達が一丸となりすぐに連携が組まれる。

 私とフロギィも他部隊の医術士と合流し怪我人を見て回った。

 他国では医術士の位が低いとは聞いてはいたが、我が国と違い本当に医術士の位は低いように思えた。医術士は女性のみで娼婦の真似事まで行っている部隊まで存在した。

 すぐに夜に備えなければならない。魔物、人問わず死体でバリケードを作り、円陣陣形が組まれる。怪我をした者は内側へ避難させ治療を、前線で交替を繰り返し応戦する構え。

「お前、医術士か」

「そうですが」

「ちょうどいい。相手をしろ」

「怪我をしたなら箇所を見せて」

「怪我はしてない。夜の相手をしろと言っているのだ」

「馬鹿言わないで。怪我をしていないのなら向こうへ行って」

「なんだとっ‼ 医術士の癖に生意気な‼」

 電撃魔術で殴りかかる男を吹き飛ばす。

「国が違えば身分が違う。今の私の身分は少佐よ。貴方の身分は何かしら? ふざけた事言わないで」

 こんな所で夜の相手をするだなんて馬鹿げている。

 そうは言っても国によりやはり身分が違う。他国の医術士がこんな所で夜の相手をさせられているのには辟易とした。命がかかっているのに。

 だからこそなのかもしれない。

「だいじょーぶ?」

「大丈夫よ。心配いらないわ」

 何時の間にか夫が傍にいた。対応できるように待機していたのだろう。

「あなたは怪我していない?」

「だいじょーぶ」

「ウソが下手ね。ほらっ。腕を見せなさい」

「ばれてーら。ばればれのばれだぞ」

 進む時に仲間を庇って腕を噛まれていた。軽傷なのは見ればわかるけれど私が見逃すと思わないで。

「感染症もあるから嘘は付かないで」

「すみましぇん……」

「まったくあなたと言う人は……」

 汚れた頬。乱れた髪。傷だらけの腕。何もかもが愛おしかった。頬に手を当てればこれほど甘美な事はなく、あなたが傍にいるのなら、私は何もいらなかった。その体に刻まれた一つ一つの傷跡を縫ったのは私なのだから。


 夜が来た――。

「火を絶やすな‼ 明かりを絶やすな‼」

「怪我人は速やかに後退せよ‼」

 その夜は多忙を極めた。

「バイタルチェック‼ 胸の裂傷‼ 骨まで届いていないわ‼」

「足だけ治してくれればいい‼ 足だけ動けば後は自分で何とかする‼」

「馬鹿言わないで‼ それで爆弾でも持って突撃する気⁉ それは最後の手段にとっておきなさい‼」

「仲間のためならば命等惜しくはない‼ すぐに前線へと戻らせてくれ‼ 仲間が待っている‼」

 我が部隊の勇猛さには舌を巻く。

「……すっすみません。こちらの人が重傷で、申し訳ないですが見て頂けませんか?」

「貴女は……」

「すみませんすみません。私は間に合わせでとてもじゃないですがこの怪我は見れません……」

「患者を連れて来なさい‼」

「ありがとうございます‼ ありがとうございます‼」

「急いで‼」

「はい‼」

「フロギィ医術士‼」

「大丈夫です‼ 任せて下さい‼」

「おい‼ 俺を優先しろ‼ 医術士風情が‼」

「っ。トリアージって知ってるかしら? あんたは軽傷よ‼」

「うるせぇ‼ 早く見ろ‼ このクソアマが‼」

 腕を掴んで来た男を電撃魔術で気絶させる。

「大丈夫ですか? パトリシア医術士‼」

「問題ないわ‼ 次‼」

「お願いします‼」

「バイタルチェック‼ フロギィ医術士‼」

「はい‼」

「これは……これは今は……鎮静剤を打って。楽にさせてあげて」

 助けられない命はもう切り捨てるしかない。

「わかりました……」

「次‼」

「お願いします‼」

 攻防は朝まで続く――そして朝になれば終えると言うわけでもない。朝になれば次は撤退作戦へと移行する。まとめた荷物を持って飛び地より退避する。

「先頭は槍となれ‼ 後人は盾となれ‼」

「俺達が後人となる‼」

「逸れたら終わりと思え‼」

「怪我人は中央へ‼ 医術士は中央へ‼」

「撤退戦開始‼ 突撃‼」

 それは突撃からしばらくしての出来事だった。隣の男が私の体を蹴ったのだ。槍の外へと弾かれてゆく体。フロギィが私を掴もうとする手。流されていく。体を押し留める事等できなかった。まずいと思った時には魔物の群れの中へと放り込まれていた。

 しかし何かが私の体を包み込み、口を塞ぎ地面を転がり抱えてくれる。見上げたその先にいたのは夫だった。列から乱れ魔物の群れの中に取り残されれば死を意味する。不覚にもそれを瞬時に理解し、それでもこちらへとやって来てくれた夫を思うと心の内が弾けるようだった。

 夫は私を連れて転がると素早く死骸の下へと潜り込んだ。

 魔物が私達に気付いていない。

 認識阻害魔術チャフを使用している――まるで隔絶した世界にいるかのように、魔物達は私達を認識せずに、部隊を追いかけてゆく。

 夫は口に指を当てていた。乱れ一つ無く落ち着いた様子の夫。私は縋り付かずにはいられなかった。その胸の内へと埋もれずにはいられなかった。これが最後だったとしても悔いはない。

 死骸の底で夫のニオイに埋もれていた。

 通り過ぎていく魔物の群れ――仰向けになった天井には腐敗した魔物の腹が広がっていた。遠ざかる足音と土埃。

 刹那の静寂――魔物の群れが途切れた隙を見計らい夫は私の手を引いて外へと這い出ると部隊とは別方向、横へと駆けだした。

 魔物の追いかける部隊を追い駆けるのは得策ではない。一軍が通り過ぎただけで、二軍が来るかもしれない。別方向、手薄な方向へと移動したのだ。

 日中は魔物の手薄を見計らい移動し眠り、夜は魔物の焼いたはらわたに紛れて逢瀬を重ねた。こんな刺激的な夜を見逃せるはずもなかった。この愛おしさを止める術はなかった。

 夫の温もりだけが心と体を焦がしている。死ぬ時は一緒だ。

 焼いた腸の中――肉の焼けるニオイがする。

 焼くのは浄化のためだ。

 温かい肉の中で夫の服を引きはがし、ひたすらに夫と肌を重ねていた。何もかも一緒だ。ぴったりとくっついて旦那の視線をひたすら求める。互いの息が触れ手を押さえただ只管にその唇を求める。視線も唾液も、汗も悶える顔も、注がれる生の鼓動も全て全てを混ぜ合ってゆく。全てをさらけ出しなお求める。

 眠くないの。もっと欲しい。なお欲しい。いくら混ざり合っても足りないくらい。溶け合いたいの。

 何度口付けしても足りない。ずっと絡めていたい。

「……だいぶ進んだはずだけどー。覚えた地図だとそろそろのはずなんだけどなー」

「……えぇ、そうね」

 もう何も言えない。座る夫の胸に寄りかかり、もう何も言えなかった。あなたの傍にいるだけでいい。

「だいじょうぶ。だいじょうぶ」

 夫は優しく目元を緩めながら頭を撫でてくれた。

 そんな夫を私はまた押し倒した。

「もう一度だけ……」

 何度口付けを交わしてもまだ足りない。

 ダメ。拒否させない。何度交わしても足りない。からめさせて。見つめさせて。今は私だけのもの。体温すら重なり平等になってゆく。その熱の重なり合い。果てた後の睦み合い。火酒が弾けて蕩け合うように。何よりも夫の表情に恋焦がれていた。もっと尽くしてあげたい。何も考えられなくしてあげたい。

 全てをさらけ出して私を受け入れる夫の形は、私を誘惑して止まなかった。味わうように這わせずにはいられない。喉の奥の奥まであなたを味わい飲み込めば、天上の甘露を得たかのように体は痺れ魂までもが震えるよう。

 眠りに落ちるの。あなたを感じ眠りに落ちる。

 目が覚めるとあなたの膝の上。よしよしと頭を撫でられて悶えずにはいられない。


 部隊に合流するまで四日――。するりと指の隙間に指を滑り込ませて握り込めば、その感触に世界が止まってすら見えた。

「あっいた。みんな無事っぽい」

「そうね」

 過去のわだかまり。未熟な医療で殺してしまった仲間。救えなかった仲間。

 あの時、あの手紙を読んだ時の喪失や苦しさ、飢えにも似た憎しみ、自分を偽ってしまった事。どうしようもないわだかまり。もういいの。もういい。どうしようもないくらい。癒されて、そして自分に許されていた。

 生まれ変わったみたい。世界が止まって見えるの。世界が止まって見える。

 この荒れ果てた死骸の群れの中。

 もうちょっと二人きりでも良かったのに。

 転ぶふりをして夫を押し倒し、死骸の影に隠れてその唇を味わった。

「……もう」

 顔と視線を逸らし、無防備に転がる手。全てを放棄して私を受ける様は、私の心を捕まえて離さなかった。

「今は我慢するわ。また後で……」

 名残惜しいけれど戦場なのよね。

 戦線へと復帰するとまた目まぐるしい忙しさへと囚われて行った。


 隊は交戦中――なんとか撤退はしたが追撃の手は緩まってはいなかった。後方の部隊と合流し再編成。しかし援軍はなかった。人員の補給はなかったのだ。

「モルグレン隊長。どういう事?」

「どうやらベルーチカ少将がさらに後方に部隊を展開しているらしい。物資もそこで足止めだ」

「さらに後方に?」

「自分達だけは助かりたいのさ。ベルーチカ本人はさらに後方だって話だ」

「前線を引き下げたってこと?」

「最前線はあくまでもここだ。助けないけど前線は維持しろって言っているのさ。先の戦闘で前線を押し出せなかったからな。無能だと言われたよ。ホプキンス大隊長が他の大隊長と連携して物資の確保に乗り出してはいるが、如何せん間に合いそうもない」

「敵襲‼ 右翼よりヴォルカニュクスを視認‼」

「何体だ⁉」

「七体です‼」

「クソがっ迎撃準備‼」

「頭痛くなってきた」

「他国軍との連携もある。部隊が後方へ退けば穴となり横からの奇襲ともなれば多国籍軍と言えど耐えられないだろう。ここから引く事はできない。面子があるのはわかるが連携はボロボロさ」

「一丸にすらなれないのね」

「どの国も自らの手柄だけは確保したくて仕方がない。燃えるのは命だって話さ」

「終えた後で手柄一つもないのは国の面子としてはよろしくないのでしょうね。全滅してからでは遅いと言うのに」

「まったくだ。パトリシア医術士。何はともあれ無事で良かった。歓迎する。フロギィ医術士、他医術士と連携、指揮を任せる」

「わかったわ」

「ヴォルカニュクスを迎撃する‼ 土壁用意‼ 相手は機動力に優れている‼ 口からの火炎にも注意しろ‼ 焼き槍に当たったら焼肉の仲間入りだ気張れ‼」


 ヴォルカニュクスはケンタウロス型の魔物だ。肌は黒く四足、体長は8メートルを超える。鋼鉄の並みの強度を持った体躯を持ち、口からは炎を吐く。手に持った槍は体の一部で熱を持ち、穿たれれば当然焼肉となる。

「フロギィ医術士‼」

「ぱっパトリシア医術士……ご無事で……」

「そんな事より患者を治すわよ」

「はい。あっ。あのっパトリシア医術士……」

「何? 皮膚が炭化してる……これは」

「あっあんた。女か。女か。頼む……頼むよ。最後だから、温めてくれぇ」

「リヴィングトレントの種子を内包した重傷者が見受けられます……」

「……良くないわね。緊急会議を提案するわ‼ 聞こえた医術士はただちに集合するように‼」

「頼むよ……最後の頼みだ」

「馬鹿言わないで‼」

 リヴィングトレントツリーウッド――夫の安否を願わずにはいられなかった。

「側面から敵襲‼」

「なんですって⁉ 抜けられた⁉」

「隣の部隊が撤退した模様‼ 備えて下さい‼」

 何が撤退よ。逃亡の間違いでしょうに。混迷の中に囚われていた。

「もっもうダメだ‼」

「逃げるな‼」

「……フロギィ医術士」

「……はっ」

「パトリシア少佐として命令します。ただちにこの現場を放棄、部隊と合流します」

「俺達を見捨てるのか⁉」

「……パトリシア医術士」

「……ごめんなさい」

「……俺達の事は、俺の事はいい。後処理は任せてくれ。行ってくれ。俺はどうせもうもたない」

 そう呟いた男が持っていたのは爆弾だった。ため息が漏れる。我が部隊の……。

「先に仲間の元へ行く……」

「また会いましょう」

「必ず‼」

 突如として現れた巨大な槍に薙ぎ払われる。もうこうなってしまったらどうにもならない。

「フロギィ‼」

「はい……すまない‼ すまない‼」

「動ける者は続け‼」

「行くな‼ 行かないでくれ‼ ぎゃああああ‼」

「我が隊に栄光あれ‼ いざ仲間の元へ‼ 誇り高き英雄たちよ‼ 先で待っている‼」

 もうどうする事もできなかった。彼らと交渉等できないのだ。医療班だからと待ってはくれない。


 モルグレン隊長と合流後、ホプキンス大隊長の部隊とさらに合流、前線を抜けられたがもうどうにもならない。側面から迫り来る魔物の群れに対処するしかない。

 夫の姿を視認したが駆け寄る暇はない。夫の傍に連絡係の三人がいた。

 こんな時に赤紙が来たようだ。

 夫はモルグレン隊長、そしてホプキンス隊長に目配せと私の方をチラリと眺め、他の二人を連れ立って消えてしまった。よほどのっぴきならない状況なのだろう。

 もしくはベルーチカに無茶ぶりを振られたかのどちらかだ。

「ヴォルカニュクスが来るぞ‼ 第一部隊は土壁用意‼ 第二部隊は火炎魔術を用意‼ 火炎魔術射出後維持‼ 合図と共に第三部隊による氷結魔術を展開‼ 温度差攻撃を仕掛ける‼ 皆合図を待て‼」

「ホプキンス殿‼」

「メレンシー騎士団長‼ 如何した‼」

「隊に乱れが生じている‼ 何か知らないか‼」

「隣に穴が開いたのだ‼」

「なに⁉ 騎士の風上にも置けぬ奴らめ‼」

「はははっ。奴らは騎士ではないよ‼」

「この前線の意味を全く理解していない‼ 崩壊すれば三国はあっと言う間に飲み込まれるぞ‼」

「第一陣‼ 火炎魔術用意‼ 放て‼ いや、穴が開いたのは都合が良い‼ まさにツボじゃな‼ 熱せよ‼ 赤くなるまで熱するのだ‼ 守備隊‼ 槍の薙ぎ払いに注意せよ‼」

「それはどういう‼」

「実はお恥ずかしながら後方に本隊がいる‼ いくらかを抜けさせ本体に相手をさせれば良いのだ‼」

「なるほど‼ ツボ作戦か‼ ならば折り返しの敵はこちらに任されよ‼」

「第二陣‼ 氷結魔術‼ 放て‼ お任せしよう‼」

「はっはっはっ。ん? 貴公はパトリシア医術士か‼」

「はい。メレンシー騎士団長殿」

「実はこちらに負傷者が多数いる‼ お恥ずかしながら我が国では医術士の位が低く練度も低いのだ。恥を忍んでお頼み申す‼ 処置をお願いしたい‼」

「ホプキンス大隊長」

「今だ‼ 突撃せよ‼ 脆く崩れた箇所を狙え‼ ふむぅ。現在我が隊にけが人はおらん‼ 行ってくるが良い‼」

「ありがたい‼ 送ろう‼ 乗れ‼」

 手を取り馬に乗る。馬に乗るのなんて何年ぶりかしら。

「フロギィ医術士‼ ここに残り大隊長以下負傷者を頼みます‼」

「……はい。あのパトリシア医術士。あなたはあの」

「なに⁉」

「すまない‼ 喋っている時間はない‼ 行くぞ‼ 貴公には我が隊の者が迷惑をかけたと聞く‼ すまない‼」

「パトリシア……あなたは」

「何をボソボソ喋っているの⁉ メレンシー騎士団長‼ 何処にでもいるのでお構いなく‼」

「はっはっはっ‼ それは違いない‼」

 力強い良い馬だ。魔物の群れにも怯えを見せない。フロギィ医術士。あの様子、何かあったのかしら。こんな時にあんなんで仕事になるのかしら。

 見えて来た医術士隊と合流し、馬から飛び降りる。

「お見事‼ 私はこのまま迎撃へ向かう‼」

「ご武運を‼」

「はっはっはっ‼」

 患者たちへと向き直る。医術士が数人。何処かで見たことがある。男の相手をさせられていた女性だ。

「トリアージ‼」

「はっはい‼」

「敵が突っ込んできたら私達は患者を見捨ててでも生き残らなければならない‼ 迅速に行動しましょう‼」

「はっはひ‼」

 患者を診て回り感じたのは、ほとんどが現在の医術では治す時間が足り無いと言う現実だけだった。時間も余裕もない。何時崩壊してもおかしくない。現状わざと敵を後方へ抜けさせるツボ作戦はマストだ。おそらく全員は助けられない。助けられる人間を一人ずつ助けるしかない。

「服を脱がせて‼ バイタルチェック‼」

「女‼ 医術士の女‼ 俺を見ろ‼ まず俺を治せ‼」

「貴女。彼を見なさい」

「はひ」

「お前が見ろ‼ お前が‼ 俺を‼ 見ろ‼」

 なにコイツ。

「貴方に構っている暇はないわ」

「俺を誰だと思っている‼ 医術士如きが‼ 無視するな‼ おい‼ こっちへ来い‼」

 見た目から軽傷だとすぐに認識できる。バイタルチェック――。

「しゃぶれ‼ 医術士如きが‼ しゃぶれ‼」

「イカレテルわ」

「跪いて許しを請え‼ しゃぶれ‼」

 電撃魔術を発動――背後から女に捕まれていた。

「なに‼ 貴女何を‼」

「っひ……貴女が悪いんですよ。貴女が。同じ医術士なのに。なんで貴女だけ。なんで貴女だけ。ずるい。ずるいずるいずるい‼ ぎゃああああ‼」

 放電して女を麻痺させる。

「殺さないだけありがたく思いなさい‼ 貴方達は何を考えているの‼」

「うるせぇ‼ 今すぐに俺のものをしゃぶり許しを請え‼」

「助けて。助けてくれ……呼吸が」

「くっ。離しなさい‼」

「あったけぇ……。女。女だ。あったけぇ……」

 狂っている。戦場の狂気にやられている。訪れる死を前に、皆が狂気に包まれていた。縋り憑かれている。

「ずるいよ。私は……医術を志して。なんで男の相手をしないといけないの? 貴女と私で何が違うの? ずるいよ……ずるいよ‼」

「今言う事じゃないでしょ‼」

 電撃魔術を発動、放電する。

「余計な力を使わせないで‼ この余力があれば、それだけ人を救えるって言うのに‼」

「知ってるぞ……。知ってるぞ‼ コイツは負傷者を見捨てたんだ‼ 爆弾を持たせて見捨てたんだ‼ 俺は見てたぞ‼ 俺は見てたぞ‼」

 見捨てたくて見捨てたわけではない。でもそれは言い訳だ。私は戦場の死神だ。それを否定する気持ちはない。助けられる人を助けるだけだ。

「それが何⁉ バイタルチェック‼」

「なんで……なんで貴女だけ。私は。私は……」

「患者を見ないなら戦いなさい‼ 皆戦っている‼ 貴方達はなに⁉ 死んだ仲間に申し訳ないと思わないのか‼」

「うるせぇ。うるせぇうるせぇ‼ 殺してやる‼ 殺してやる‼」

「やってみなさい‼」

 チラリと視界に入ったのはフロギィ医術士だった。一先ず胸を撫で下ろす。しかし本隊は大丈夫なのかしら。

「フロギィ医術士‼ 本隊は大丈夫なの⁉」

「パトリシア……パトリシア医術士」

「どうしたの⁉ しっかりしなさい‼」

 フロギィ医術士に背後を預けるために移動する。

「僕と、寝て下さいよ」

「はぁ⁉ 何言っているの⁉」

「どうしてなんですか? 僕じゃダメなんですか?」

「フロギィ医術士‼ しっかりしなさい‼」

 不思議なの。胸から刃が突き出していた――不思議なの。足から力が抜けていく。身体スキャン――心臓がもう。残っているのは脳に回っている血液の余韻だけ。

「ひっひぃ……私は知らない。私は知らないから。私は知らない」

 崩れ落ちる中、振り返るとフロギィがいた。

「あっ……あぁ。僕は、あなたが好きだったんだ。あなたが」

 まだ死ねない。私が死んだら、あの人を診る人がいなくなる。私は死ねない。あの人はきっと傷ついて帰って来る。死ねない。死ねない。

 回る思考とは裏腹に、自分が助からない事を悟っていた。

「どうして? どうして僕じゃダメなんですか? どうして⁉ どうして2151番なんかと‼ どうして‼ 見てしまったんです……。答えて下さいよ‼ どうして‼ どうして2151番に口付けをしていたんですか‼ ずっと見てた‼ ずっと見てたのに‼ ずっと傍にいたのにどうして‼」

 生き残るだなんて贅沢は言わない。死ぬのは怖くない。ただあの人が死ぬのが怖いだけ。

 貴族じゃなくても構わない。

 平民としてでも構わない。

 静かに暮らす夢を見ていた。

 小さな診療所を開いてもいい。

 二人で冒険者でも……。贅沢よね。贅沢……よね。

 あの子は、元気かしら……。


 ラートリーハーベル子爵令嬢は23歳の若さで亡くなった。


 2151番は涙を流さなかった。

 彼女の死を眺めても、涙を流さなかった。

 どさくさに紛れて村を襲った部隊がいたのだ。その粛清を担わされた。どさくに紛れて領土拡大を狙い村を襲った部隊がいたのだ。国としてそれは最優先に見逃せない事案であった。

 2152番は足を負傷した。右足を引きずっている。2110番は意識を失い顔に亀裂が入っていた。どちらも重症だ。

 足元に彼女の亡骸が転がっていた。

 治療して貰いに来たのだ。

 彼女は亡くなっていた。

「……貴様ら‼ 自分達が何をしたのかわかっているのか‼」

 異変に気付いて駆けつけたメレンシー騎士団長が視界に入れたのは、パトリシア医術士の死骸を囲み、茫然とする負傷者達だった。国の医術士は震えて丸まっている。

 2151番は彼女の体を抱き抱えた。涙は零れていなかった。胸は痛みを帯びて喉は枯れる程熱いのに。ただ虚しいだけ。ただ虚しいだけだ。

「おっ俺達は何もしてません‼ フロギィ医術士が‼」

「フロギィ……貴様」

「なんでなんだ。なんでお前なんだよ。僕はずっと彼女を見ていたのに……なんでお前なんだよ……。医術士でもない癖に。汚らわしい処刑人の癖に……」

「このクソ野郎が‼ フロギィ‼ 貴様は会議行きだ‼ 生きて帰れると思うなよ‼ 伝令‼ すぐにホプキンス大隊長を呼んで来い‼」

「敵襲‼ ヴォルカニュクス三体が接近中‼ 前線崩壊‼ 繰り返す‼ 前線崩壊‼ リヴィングトレントの接近を確認‼ 退避せよ‼ 退避せよ‼」

 混乱に飲まれ、2152番は押されてその場に倒れ込んだ。

 2151番が立ち上がり、2152番は彼を見上げた。

 そして脳裏を過るのは――自分を見捨ててパトリシア医術士の遺体と2110番を抱え去る2151番の姿。

 しかし2151番はすぐにパトリシア医術士の死体を横たえ、2110番を背負い、2152番に手を伸ばして抱き起した。

 一瞬でも見捨てられると疑った2152番は自分をひどく恥じた。

「あぁっあぁ……」

 前線を退いていく――パトリシア医術士を残して。生きるために。戦うために。


 前線が崩壊した事による影響は各国へ爪痕を残した。戦死者と魔物の死骸の山に、誰が何処でどうやって死んだのかも判別できず、散り散りとなって逃げたため、正確な生存者の数も把握できない状況へと陥った。

 命からがら逃げ帰り本隊と合流すれば、ホプキンスを含めた大隊長、以下モルグレン含む中隊長はその責をベルーチカ少将より厳しく追及された。

 この崩壊により国境を越えて魔物が入り込み、三国は穀物などの農業や産業に大きなダメージを受ける事となる。


 2152番は涙が溢れて止まらなかった。

 見捨てられると考えていた。足の動かない自分は戦場に置いてゆかれると――だけれど2151番は見捨てなかった。感動して涙が止まらなかったのだ。誰かが自分を助けてくれる。誰かが自分を思いやってくれる。それが途方もなく嬉しかったのだ。失ったと思っていた感情の本流。

「うぉおおおおん。うぉおおおおん」

「えーなにその泣き声。おんおんのおんなの?」

「これだから陰キャは……グスッ。あーん。あんあんのあーん」

「えぇ……なにその泣き声」

 情けなくも涙が止まらなかった。

 それは2110番も同じだ。

 所詮は使い捨ての捨て駒――その命は恐ろしく軽い。

 それなのに。

「あっぁああああっ。あああああああっ」

「えー」

 二人が泣くものだから2151番は困ってしまった。

 それでも2151番が涙を零す事はなかった。

 同時に自らの能力に目覚めてゆく。

 パトリシア医術士が隊から蹴られて弾き飛ばされた時、気づくと彼女を抱えていた。空間を超える能力に気付いていた。

 消えては現れ、消えては現れ、徐々にその精度を増してゆく。

 戦場の見えざる悪魔が産声をあげた瞬間だった。

 幾度となく繰り返す空間転移テレポート。その有用性は計り知れない。魔術では到達できない領域へと足を踏み入れた。

 気が付くと敵陣のど真ん中――パトリシア医術士の死体の傍にいた。まだ精度が甘い。何度も、何度も、幾度も、死体と本隊を往来しその能力を確固たるものへと昇華させていく。

(ごめんね。こんな所へ置いて行って。……すぐ行くから。待っていて)

 パトリシア医術士の頬を指で撫で、個人認識タグを回収する。

 人を運べるほどの練度が足りず、魔物に食い散らかされるのも容認できない。

 サンオブサン――本来自爆魔術であるこの術も、転移と併用すれば攻撃魔術となる。

 戦場に花が咲く――。

 インビジブルジャンプ――それは魔術であって魔術ではない。

 視界の届く範囲、そして記憶に残った場所へと空間を越えて転移できる法だった。

 本来争うのが苦手で戦うのが苦手な、そんな性格から生じた逃げの一手。

 戦いたくなんてなかった。人を殺したくなんてなかった。

 でも自分がやらなければ誰かがその業を背負うはめになる。

 この無法地帯にて法で捌けぬ犯罪者を誰かが処刑しなければ、犠牲になるのは善人だった。それを許せるのかと問われれば、逃げられなかった。

 嫌がる心を無理やり連れて来た。逃げの一手であり、無理やり戦うための一手でもあった。でも本当はやはり戦うのが苦手で、認識阻害魔術が上手なのもそのためだ。

 それでも戦うのは――誰かに幸せであって欲しかったから。

 頬がこけ痩せ細りナイフを見つめるパトリシアを見捨てる事ができなかった。

 最初から、この戦場より帰れるだなんて思っていなかった。

 死地に赴くからと無理して結婚までしてもらって、パトリシアに申し訳がなかった。


 目を閉じると――はるか後方にて誰かがこちらを思っているのを感じる。

 遥か後方にて――すでに記憶とは異なる故郷へ飛ぶことはできなかった。

 それでも、気づいた――パトリシアの事を。

 体は飛ばなくとも心は飛んで行く――。

「どうかお元気で。幸せになってね」

 もう引き返せない。死んでいった同胞達を置いて、自分一人だけおめおめと生き残るだなんてそんな事は出来ない。

 魔物は待ってはくれない。

「貴公ら。怪我をしているな。私が診てやろう」

「メレンシー騎士団長。部隊が違うけどいーの?」

「先の責任。パトリシア医術士を失った責任を取り団長はやめた。今の私は一介の騎士に過ぎない。丁度就職先を探していてな。これでも聖騎士なのだ。乙女の祈りぐらいは使える。丁度この部隊の医術士はいないのだろう? 私を雇ってくれるよう隊長へと取り計らってくれ。おっとその前に、二人共、私に足と顔を見せるのだ。女が何時までもそんなではダメだ」

「僕男です‼」

「チンチンないけど?」

「チンチンあります‼ チンチンあります‼ あっ‼ チンチンあるってば‼」

「チンチンチンチンうるさいのよ‼ あーしだって無いわよ‼」

「わーお」


 戦況は一変した――認識阻害に空間転移、さらに空間を裂く能力も得た。

 遥か上空へとジャンプし、眼下へと降り放たれる空間の断裂。地面に穿たれた無数の巨大な亀裂は、強大な悪魔の爪痕のようだった。魔物を穿ち、大地を穿ち、魔物の行進を大幅に遅らせた。

「やっと敵が討てるよ。うつうつのうつやで」

「討てるぞー‼ てるてるのてるやんね‼」

「そうね。やったれし‼ やれやれのやれだし‼」

「頂戴。くれくれのくれ‼」

「三秒ルール‼ いち‼」

 二人の作り上げたサンオブサンを受け取り転移する。

「「に‼」」

 ――現れたのはリヴィングトレントの眼前。

 死を振りまくこの魔将に近づく術がなかった。救いなのはこの魔物の移動速度が異様に遅い事。

「ばいばい」

「「さん‼」」

 現れた2151番と二人はハイタッチを交わす。

「おかえりー」

「どうだった?」

「やったんでない?」

「やったぜ‼」

 爆発音と共に衝撃が三人の服をはためかせる。

「どうどうのどう?」

「もう一発行っとく? とくとくのとくやで」

「三秒ルール‼ いち‼」

「「にー!」」

 魔王軍にとっては堪ったものではなかっただろう。

 戦線は一気に押し上げられた。

 戦場の見えざる悪魔として畏怖と畏敬の象徴となった。

 やがて魔王が討たれる。

 何もかもが終わりを迎えた戦場で喜ぶ兵士はいなかった。

 取り残されたみたい。

「生きるのは戦いだ。死ぬまで戦い続けなければならない」

 ホプキンス大隊長の言葉を噛みしめていた。体の良いただの言い分だとわかっている。

「おーらお前ら。凱旋だ。泣くんじゃねーよ」

 モルグレン隊長の言葉に皆が苦笑いを浮かべた。

 彼らは勇者ではなく一介の兵士に過ぎないのだ。

 街で皆が喜ぶ中――部隊は何処かそれを遠い世界のように眺めていた。誰も褒めてはくれないのだ。亡くなった人を覚えているのは家族と部隊の人間だけ。それでも時は過ぎる。

 平和になった世界で、余裕を取り戻した国はベルーチカを断罪しようとした。元老院は蜥蜴の尻尾を切った。しかしベルーチカは元老院へと反旗を翻す。

 国の兵士が元老院へと赴くと、そこにはベルーチカ含め複数の首だけがさらされていた。全ての資料が無くなっており、もはや誰が処刑人だったのかも判別できない。

 ホプキンスもモルグレンも他の兵士達も一切の口を噤んだ。

 2151番の能力はあまりにも強すぎる。認識阻害と合わせれば、あらゆる国家の要人を屠る事が可能だろう。だが同時に、2151番がそのような人物では無い事を長年の付き合いで良く分かっていた。


 2151番は2152番、2110番へと別れを告げた。

(これからどうしよう)

 死にぞこなってしまったけれど、生きなければいけないし、故郷に残して来たものもある。結局死にぞこなって居た堪れない。

 列車に乗り込む2151番を二人は見えなくなるまで見送った。

「……少し寂しいな」

「まぁ、そんなもんでしょ。あーしもいくわ」

「また、会えるよね?」

「これなーんだ?」

 それはガラスの筒へと収められ時の止められた液体だ。

「なにそれ?」

「ひーみーつ」

「まってよ‼ なにそれ⁉ 教えてよ‼」

「まぁ、本人は手に入らないのだから……これぐらいはいいよね。さすがに聖女達には勝てないわ」

 2152番は重力の概念に目覚めた。

「教えてよ‼」

「ダメ―‼」

 2110番は時間の概念に目覚めている。

「なーんーでー?」

「ダメダメのダメー‼」

「なんなんのなん‼」


 2151番は列車へ乗り込み指定の席へ――柔らかな座席はほんのりと温かく、やがて汽笛の音が聞こえる。進み始めた列車に揺られ、窓の外を眺めていた。沢山の人達が乗り込み、穏やかな談笑が聞こえる。

「温かい飲み物はいりませんか? お菓子もありますよー? 如何ですか?」

 そんな言葉を聞いていたら、不意に一筋の涙が流れた。だが2151番がそれに気付く事はなかった。もう自分の名前すらも覚えていない。

「あぁ‼ 聞いた聞いた‼ 悲惨だよな……十年ぶりに帰郷したら婚約者が別の男と結婚してたって奴だろ」

(あが……きつきつのきつやで)

 パトリシアの事を愛していた。

 どちらも愛していた。

 でももうその資格すらない。その事実が胸を締め付けて止まなかった。

 どちらも手の内をすり抜けてゆくだろう。

 もう何も残っていなかった。残ったのは指輪の硬さだけ。

 もう何もなかった。死にぞこなってしまった。

(なんもないなった)

 故郷に居場所はないかもしれない。

(なしなしのなしやんね)

 そうしたら、何処へ行こうか。

 だが当の本人、パトリシアが千年でも待つ女だと言う事実を2151番は考えていなかった。帰っていなければ大きな石碑が経ち、それは千年のちの有名な観光スポットへと変貌を遂げてしまう。しかしそれは回避された。

 危うく、後世に妻を散々待たせて帰らなかった男として刻まれる所であった。


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