第二話 妻の方
夫が戦争へと駆り出されて半年が経ちました。
口座に振り込まれた金額は銀貨五枚です。
その金額を目の当たりにして私はひどく自責の念に囚われていました。
指は震え、呼吸もまともにできません。
夫とは幼馴染で何時も一緒でした。
小さい頃からぼんやりとして、動作ものんびりで、私には見えない世界を見ている。そんな人でした。
ご飯を食べるのもゆっくり、何時も眠そうで気だるげ、ご両親が面白がって女装させると、そのままお姫様として扱われてしまう。そんな人でした。
小さい頃は、そんな夫のお世話をするのが好きでした。
口についたパンくずを取ってあげたり、お口を拭いてあげたり、着替えを手伝ってあげたり、一緒にお風呂へ入ったり、まるで姉弟のように育ちました。
でも十を超えると周りにからかわれ、別にお世話をするのは嫌いではないのに、恥ずかしくてひどい態度をとるようになります。
その頃からでしょうか。夫が魔術の才能を発揮し始めたのは……。
十二歳を超えると夫は私達が通う学校ではない別の学校へ通う事になりました。その間、ずっと疎遠で、たまに思い出しては、ちゃんとやっていけているのか考えるほどでした。離れても夫の事を考えるばかりで、この頃からもうすでに夫の事が好きだったのかもしれません。
男性からの告白を受けても、ではこの男性の事だけを考えて生きられるかと問われれば夫の顔が浮かび、実感が持てませんでした。
夫に恋人が出来ていたらと考えると胸が痛くて堪らなかった。
この人は本当にどうしようもない人で、たまには実家に帰ってくればいいのに、全然帰っても来ません。私から会いに行くのもいいですが、重いと思われるのも嫌で。そんな悶々とした日々を過ごす中で、私は夫の両親から、夫と結婚してくれないかと告げられました。
付き合ってもいないのに結婚なんて……そうは考えましたが、内心ではとても嬉しかったのを覚えています。私はその理由を深くは考えていませんでした。
世界に魔王が現れて、私達人類は一丸となり対抗しなければいけないだなんて、急にそんな事を言われても私には良く理解できていなかったのです。
久しぶりにあった夫は相変わらずのんびりとしていました。
全然変わってなくて、むしろ驚いたぐらいです。
身長は低く、童顔、真ん丸瞳と柔らかほっぺ。母親が嫌がるからと切らずに伸ばした髪は滑らかストレート。
初見では女の子と捉えられても不思議はありません。
でもこの容姿には理由があると私はのちに知る事となります。
魔力適正の高い人間は容姿が中世的になり成長が止まるのだそうです。
これには先祖返りが関係しているのではないかと、そう言われていました。友人達が語る理想の旦那様からは程遠い人でした。
夫との結婚をどうするのか打診され、会ってみて変わっていないのも知っていて、ますます好きになって、でもそれを素直に伝えられなくて、渋々を装って。
「結婚したらあっちの両親が家を用意してくれるって‼ いい話じゃん‼」
そう語る姉をダシにしました。
(お金と結婚するの?)
内心ではそう考えつつ、家の姉ならやりかねない。そう感じたものです。姉をダシにしている時点で私も同罪ですが。
夫はのちに戦場へ駆り出されるからその前にと……彼のご両親に懇願されました。
私の両親は断っても構わないと言っていたし、姉はお金と家だけ貰っとけと言っていたけれど……。
私はこの人が好きでした。
理由もありません。ただ好きでした。顔が好みとか性格が好みとかニオイが好みとか、そんなのはどうでも良くて。ただこの人が無性に好きでした。視線は追い、自然に触れたいと考えてしまう。
何時も見ていたい。傍にいると嬉しい。ただそれだけで良い。
後ろから抱きしめてゆらゆら揺れる。それだけで頬が緩むほどでした。
だけれど渋々ながら結婚してしまった手前、素直にはなれません。
「今日からよろしくお願いします」
そう告げて頭を下げる夫に。
「……不本意だけどよろしく」
(不束者だけど……こちらこそよろしくね)
なんて言ったり、冷たい視線を投げたりしてしまった。
違うの。嬉しかったの。でも素直になれなかった。
「……何時もお世話してくれてありがとう。でも……断っても良かったよ? ごめんね。ぼくが……知り合いが、君しかいなくて」
「……別に」
(迷惑じゃないよ。そんな顔しないで。私も嬉しい)
言葉とは裏腹に、夫婦になったことが嬉しくて堪らなかった。それしか考えていなかった。
「私と結婚したいってあなたが言ったの?」
(私の事、好き?)
「……そうだけど」
どうしよう。どうしよう。顔が熱くて堪らない。
初夜では念入りに体を洗い、ムダ毛を処理し整えた。何度も何度もおかしな場所がないか念入りに確かめた。
一番綺麗な私を愛して欲しいだなんて。そんな事を考えていた。
「はじめだから……上手にできないかもしれないけど、ごめん」
「……そう」
(私が初めて……私が初めて……私も初めて)
私も初めてだから嬉しかった。こんなに嬉しい事が他にあるのかと舞い上がっていた。肌が重なった時は、それだけで……気絶するほど嬉しかった。
でもやっぱり素直になれなくて、歯を食いしばって顔を背けて、にやけそうな顔を我慢して、本当に馬鹿だったと思う。一言、嬉しいって、好きだと言えばいいのに、言えなかった。
目を覚ましたら旦那を抱きしめてうつ伏せのまま。
体を起こした時の……何とも言えない夫の香りを嗅いで放心してしまう自分がいる。このニオイ好き。このニオイが堪らなく好き。
起きないようにゆっくりゆっくり……擦りつけて緩慢に。
「うぅ……」
呻きに顔を歪ませる夫が愛おしくて堪らなかった。
(気持ちいいんだよね? だってこんなに……)
腰を落とし、痛みすら恍惚で沈みこませてピッタリと寄り添う。この形、この形を体が覚えようとしている。この形に体が無理やり変形させられていく。あなたの形。あなたの私。
そのまま夫に覆いかぶさり、寄り添う体温。脇の下から通した両手。頬の弾力。あなたの耳裏のニオイ。
お腹に力をぎゅっぎゅって何度も緩急をつけて与えると、夫は腕に力を入れて私を思い切り抱きしめた。これ以上はくっけないのに、これ以上を望むように強く強く。心の奥の奥まで入りたいみたいに……。私も力を込めて密着した。絶対に離れないと言わぬばかりに。もっとくっつきたかった。もっともっと奥の奥まで入って欲しい。体に食い込む指先の感触に酔い、もっともっとと求めて欲しいだなんて。
「ふー……ふー……んー……うー」
荒い息が可愛くて仕方がなかった。
目を覚ました夫が、私を視認して……私の頬や肩に唇を何度も寄せて来る。
「……何してるの?」
(ちゅーしたいの? ちゅーしよ)
嬉しいのに素直になれなくて。そう告げた途端、夫は切なそうに。
「……うー」
申し訳なさそうに、こちらを窺うように何度も肩や頬に唇を寄せるばかりだった。
それから三日も経てば我慢できなくなったようで。
「好き……。好き好き……」
事が終わるとひたすらに好きを連呼して口付けをせがむようになった。
「ふーん」
(私も好き。好き好き好き。もっと好きって言って欲しい)
冷たい台詞を吐きながらも、これが堪らなく好きだった。色々な所へと唇を寄せようとする。こちら眺め、視線が絡むと悶えるように顔を歪め、体を寄せ、耳元で好きを連呼する。
離れようとしない。料理を作っていると背後から抱きしめて離れようとしない。
「ちょっと邪魔なんだけど」
(もっとくっついていてもいいよ。もっとぎゅーってしてていいよ)
座って休んでいると隣に座り、寄りかかって来る。
「なに? なんか用?」
(どうしたの? 甘えたいの? お耳掃除する?)
こんな日がずっと続くだなんて――私は浅はかでした。
夫が戦場に駆り出される日が来ました。
早ければ数カ月で帰ると言います。すぐ帰って来るだなんて、私はそんな風に考えていました。夫は何時通りののんびりで、いなくなるだなんて考えられないぐらいに――これから戦場へ行くだなんて考えられないぐらいに。
夫の伸ばした手。指先に触れ手の平へ……持ち上げられて頬を唇を寄せられて、私は素直になれず顔を背け。
唇を求められたら恥ずかしくて顔を背け、口付けすらできず。
「さっきまで散々したから、しなくてもいいでしょ」
(もっと強引に求めていいよ? 痛いぐらいでもいい……)
なんてそんなつまらない台詞を言った。
それでも唇を頬に寄せられて――飛び上がりそうなほど嬉しかった。
夫は十年以上も帰ってこなかった――。
最初の数日は寂しくも何ともなかった。夫がいなくとも日々の生活はあります。ただ夫の分まで食事を作ってにやけたり、夫の衣類を片付けたりしていた。
「もー……多めに作り過ぎちゃった」
なんてのろけていたと思う。
それから数週間経ち――魔族が攻めて来たと村中が騒然としていました。ここは田舎だし、魔族が攻め込んでも奪う物も旨味もない。みんな不安ながらも何処かやっぱり遠い世界の話を聞いているような気分だったと思います。
それでも世界は不安の渦に包まれてゆく。
両親や姉は徒歩で会える距離だけれど、家の中に一人でいると、村からの言いようのない胸騒ぎのような感覚がひしひしと伝わって来くるのを感じていました。
月日が流れるごとに、村はにわかに騒がしくなっていく。
この村は比較的安全だと言う理由で移住者や、その移住者を守る名目の元、冒険者の方々がやって来られたからです。
一ヶ月もすれば夫が帰ってこない事に焦り初め手紙を何通も送りました。
夫から帰って来た手紙は走り書きで――。
心配しないで。体と心を大事にして。
それだけが書いてありました。
少しの滲んだ跡、ぽろぽろと崩れたインクからは、かすかに鉄のニオイがしました。
神様にあまり縁のない私が教会でお祈りをするようになるのに時間はかかりませんでした。
朝早くに教会へと赴き夫の無事を祈る。
何時でも様子を知っていられるようにしたい。
村の飲食店で給仕を募集していたので給仕として雇ってもらいました。
村は冒険者と移住者で日々が過ぎる事に賑わいは彩へと変わってゆきます。
どんどん人が増えている。それは良い事ばかりではありませんでした。真っ先に悪くなったのは治安です。
私はお世辞にも可愛いとも綺麗だとも言えません。
そばかすも少しありますし姉の方が美人です。
そんな私でも、給仕をしていると男性に声を掛けられるようになりました。
指輪をしているのに気にもしない男性もいる。
「旦那さんとはどう? うまくやってる?」
最初は優しそうに声を掛けて来た馴染みのお客さんも、会うたびに甘く囁くようになってゆきました。女性に言い訳を与えるのが彼らの手段なのだそうです。日々の変化を指摘してくれる。それだけで嬉しいだなんてどうかしている。私は毎日同じ姿恰好です。髪型も変えていません。それでも成長はします。それを褒められます。
「戦場に行ってるんだってね。女性一人で大変でしょ? 寂しくない?」
「たまには気晴らしに行かない? 仕事ばかりだと息がつまるでしょ」
ガラの悪いお客さんに絡まれると助けてくれたり、気を使ってくれたりもしました。
「大丈夫だった?」
「はぁ? ありがとうございます」
「いいよいいよ。何かあったら何時でも声をかけてね」
私にはいい人そうに見えるけれど、既婚者である私を誘っている時点でその手の男なのだそうです。一緒に働いている給仕の男性が教えてくれました。彼らは思い人のいる女性から気持ちを奪い取る事に快感と興奮を覚えるのだそうです。
何とも思っていない。それが私の答えでした。
私には夫がいる。他の人は求めていません。
ただ夫の安否を願っていました。
「あのさ。守って貰ったのに、何とも思わないわけ? ひどいんじゃない?」
同じ接客仲間の女性にはそう告げられました。
「感謝のお礼はしましたよ?」
「あんたってほんと空気読めないよね」
この人が何を言っているのか良く理解できません。それ以上は何もできません。するべきでもありません。
「ではどうすればいいですか?」
「はぁ? そんなの自分で考えなよ。なんであんなイケメンがあんたばっかりに話かけるのかわかんない。ブスの癖に」
結局この人が何を言いたいのか理解できませんでした。
人が増えると良い人も悪い人も増えてゆきます。お尻を触られそうになったり、胸を触られそうになったり、それぐらいで大げさだと言われたり、でも夫以外に触れられたくはありませんでした。
「一人で辛くない? こんな美人の奥さんを貰って羨ましいよ。でも俺だったら一人にしないのにな。絶対に寂しい思いはさせないよ。俺なら」
国からの招集を断れるわけもないのに何を言っているのだろう。
「まったひどい旦那さんだよね。君みたいな可愛い奥さんを一人にして」
「もう関わらないで下さい」
「……え? ごめんごめん。怒った? そう言う意味じゃなくてさ」
勝手に恩を売って、勝手に見返りを求めてくる。私に何を期待しているのでしょうか。
「仕事がありますので」
「ちょっと待てよ‼」
壁に押し付けられた時は、股間に膝蹴りを入れてしまいました。ぶにゃりとして嫌でした。つま先でも蹴ってしまいます。何度も何度も拭い感触を忘れるのに時間もかかり嫌でした。
それから半年が過ぎいよいよ魔族が本格的に進攻を始めたと噂が波を伴って押し寄せて来ました。村の人口は増え、思えば発展事業が賑わい始めたのもこの頃からだったかもしれません。
そして私は銀行の口座にお金が振り込まれているのを確認し戦慄しました。
振り込まれていた銀貨五枚がいよいよ夫が戦争に駆り出された事を意味していたからです。
死ぬかもしれない戦線へ立たせる兵士の命に対するお金の前払い。
私は何をしていたのだろう――いくら思い返してもろくな結婚生活ではありませんでした。両親は大丈夫だと言ってくれたけれど……。
今日も帰って来たのは不可の落胤を刻まれて送り返されてきた手紙だけ。
逃走を誘発する台詞や、兵士を怖気づかせる台詞のある手紙は検閲の時に弾かれると聞いてはいましたけれど、ここまで厳しいとは考えてもいませんでした。
夫が戦場へと駆り出されて一年――毎月振り込まれる支給額だけが、夫の安否を知らせてくれます。これが途切れたら――想像したくもありませんでした。
一般的な兵士に振り込まれる金額は銀貨五枚。一人で暮らすには十分すぎてお釣りが来ます。でも振り込まれていた金額は銀貨十五枚へと変わっていました。これは魔族と戦っている一般兵の支給額です。夫は魔族や魔物と命懸けで戦っている。命の対価。このお金が夫の命の重さなのだと考えるととても使う気にはなれませんでした。手が震えてとてもではないですが、確認するのも苦痛です。
そんな不安とは裏腹に、村はどんどんと発展してゆきます。
念のため教会にて聖なる護りを買い求めました。
聖なる護りは教会からの庇護を意味しています。教会は国からその存在を保護されています。つまり聖なる護りとは教会からの庇護を意味し、それは国によって保障される。女性だけが持つ事の許される身を護る御守りで、この御守りを持つ女性を襲う事はかたく禁じられています。
その代わりに毎月銀貨三枚の寄付をしなければいけません。
聖なる護りを買ったのと私がすでに婚姻している事実から、ギルド職員になるよう村長さんに勧められました。未婚の女性や若い女性が冒険者の受付に立つのには危険が伴います。そこで聖なる護りを持ち、すでに婚姻している私が勧められたのです。
激務ではないけれどギルド職員は確かに厳しい職業でした。
この頃になると家に干していた下着が無くなる等の不可思議な現象が起こり始めたため、両親に相談すると家の周りに壁を作る事となりました。
私の下着を盗んでどうするのでしょうか。
あっと言う間に三年――気が付くとギルド職員として普通に働けるぐらいになっていました。前は夜まで残業していた書類仕事も、今は定時で終わります。
上司や同僚には随分とお世話になりました。その分はお仕事にて返させて頂いております。
ただ……ただ普通に働いていて困った事もあります。
お世話になった上司だけれど、二人きりになるとそわそわされるのが嫌でした。無理に話かけてくる。話しを広げようとする。気遣ってくれるのはありがたいのですが、残業で二人きりの時間を作られるのには困りました。
夜道は危険だと送り迎えを買って出てくれるのは気遣いとしてはありがたいのですが、ですが夜遅くなる日は職場からより近い実家に帰るようにしています。
「君が心配なんだ」
そう告げられて重ねられる手。思わず手を引っ込めて後ずさりをしてしまいました。
それを同僚に見られていたらしく、上司の奥さんに誤解されたり疑われたりもした。働きやすいかと問われると働きにくかったです。
それを家族へ相談すると、両親は微妙な表情をし姉は。
「あれでしょ。あんたの夫ってもう三年も帰って来てないのでしょう? いい加減離婚して新しい人見つけたら?」
そう言われて腹も立ちました。
「どうせあんたが勘違いさせるような行動や言動をしたんでしょ」
そうなのかもしれません。
「あんたが羨ましいわ。あたしなんて夫と子供の世話で自分の時間なんてほとんどないのよ? 結婚なんかするんじゃなかったわ。家の旦那も戦地に行ってくれないかしら。稼ぎも悪いしね」
「姉さん。子供の前。それにその台詞は最低」
「いいよ。お母さんの性格知ってるから。お姉ちゃんいい子いい子して」
「いい子いい子」
「お姉ちゃんの子だったら良かったのに」
「生意気。親の苦労も知らない癖に」
こんなに可愛いのに……。子供、ちゃんと作れば良かった。今更ながらに――同時に……夫のニオイがわからなくなっていた事実に気が付いてしまいました。
夫の記憶が薄らでいる事実に気が付いて泣きそうになってしまいました。
「お姉ちゃん大丈夫?」
「うん。大丈夫よ」
家に帰ったら夫の私物を漁り、夫の服に顔を埋めて、いつの間にか慣れていた一人暮らしに唖然としてしまった。
もちろん朝のお祈りはしています。無事を願っています。でもそれが、生活の一部として当たり前になりつつある事実がありました。
毎月の夫の通帳を見るのが苦痛でした。苦痛にかまけて確認を怠っていた。
金額が上昇すれば、それは夫がより危険な場所に派遣された事を意味しています。
毎月毎月それを確認するのが苦痛だった。
支給が無くなれば、それは夫の死を意味するのだから。
何かないかと部屋を漁り――結局その日は夫の枕を抱きしめて眠りました。ひどく後悔した。あんなにも好きだったのに。夫の記憶が少しずつ薄らいでいく。
それは仕方のない事なのかもしれません。
街は発展してゆくけれど、比例して生活が豊かになったわけでもありません。何処かで戦いが行われ被害が生じ、それは物価などに確実なダメージを蓄積させてゆきます。
物流が滞れば食料品の価格も高騰する。
それを何とか抑えようとするけれど、貨幣の価値は下がり商品の価値は高まってゆきました。
私にも貯金はあるけれど確実にすり減り始めていた。
職場にも悩んだ。
確かに、私が上司に対して勘違いさせるような行動や言動をしていたのかもしれない。だから今までは少し距離を取っていたけれど距離を大きく取る事にした。
確かに……上司が奥さんと一緒にいる時間よりも長く上司と仕事をしているのかもしれない。だからシフトもできる限り被らないようにしました。
でもそれが良くなかったのかもしれません。上司や同僚との連携がうまくいかず、業務に支障をきたすようになってしまいました。
三年も経てば優秀な人はいくらでもいる。私が無理をして職員でいる理由ももうありません。そうは言ってもお金は必要で、なるだけ愛想を無くしました。
それでも強引に迫って来る冒険者はおり、冒険者に迫られるほど職場での肩身は狭くなりました。
彼らは私を好きなわけではないのです。
一晩の相手を求めているだけ。そして私が頑なであればあるほどに、得られなければ得られないほどにしつこかった。
「旦那ともご無沙汰で溜まってるんだろう? 俺が最高に気持ち良くしてやるよ」
この人は自分の妻が同じ目にあっても笑っていられるのだろうか。
「まーた色目使って。仕事してくださーい」
同僚からのトスは助けじゃない。
裏へ行けば――。
「大丈夫? 俺がちゃんと言っておくから」
「大丈夫です。お気になさらず。また奥さんに誤解されても困りますので」
「あいつは気にしなくていいよ。ちょっと病的なんだ。息抜きは必要だよ。これから飲みに行くけど、一緒に行こうよ」
「すみません。今日は用事がありますので」
「たまにはさ。息抜きは必要だよ。彼女達とも仲良くしないとね。旦那さんのために我慢してるんじゃない? たまには息抜きしたって旦那さんだって怒らないよ」
「お気遣いありがとうございます。今日は用事がありますので」
「あのさ。何時も用事があるって言うけど、本当に用事があるの? 悪いと思わない?」
「すみません」
あの人は国を守るために戦っているのに……。
我慢とかそう言う問題ではないのだ。
職場とは言え、二人きりで話しているのも嫌なのに。職場で恋人を探すのは構いません。でも私の薬指を見て欲しい。そして自分の指にはまっている指輪も見た方がいい。やっと家へと帰るとため息が漏れてしまいます。
お風呂に入らなきゃ――そうは考えても水汲みをする元気もなかった。
旦那の枕に顔を埋めて眠る時だけが至福だった。
あの人は何をしているだろう。ご飯をちゃんと食べているのだろうか――夫が戦場で苦しんでいる夢を見て、はっとして目を覚まします。
目が覚めて、どうしようもなく寂しかった。
あの人が傍にいないのが寂しいわけじゃない。
あの人が死ぬかもしれない。二度と会えないかもしれないと思うと途方もなく胸を突きさし痛かったのです。
門を叩く音に顔をあげ。
(こんな時間に誰?)
最近女性の一人暮らしは危険視されていました。もう村は街と言っても過言ではありません。
私には聖なる護りがあるのである程度は大丈夫だけれど。
何度も何度も門を叩かれて何か急ぎの事案なのかもしれないとナイフを握りながら扉を出て門へ向かいます。
「どなたですか?」
「……あなたの上司の妻です」
「どうかしたのですか?」
「もうやめてくれませんか? 旦那を返して下さい‼ いるんでしょ⁉ ねぇ⁉ 出てきなさいよ‼」
小さな小窓から門の外を眺め、確かに女性一人だったので門を開きました。
女性は門の中へと素早く入り込むと家の中までズカズカと踏み込み、自分の夫の名前を叫びながら家を荒らし回りました。
「何処にやったの⁉ ねぇ‼ 何処にやったの‼ 返して‼ 返してよ‼」
「私は知りませんし、何にもありませんよ」
「嘘よ‼ じゃあどうして帰って来ないのよ‼」
「今日は街で飲むと言っていましたよ」
「行きつけの店にいなかったもの‼」
「それは……私にはわかりません」
「うぁあああああああああああああああああああ‼ ぁああああああああああああああきゃあああああああああああああああ‼」
本当にやめて欲しかった。
「気持ちはわかりますが落ち着いて下さい」
「貴女に何がわかるのよ‼」
「私も結婚していますから」
「結婚しているのに人の旦那に手を出すなんて最低よ‼」
話が通じない。何度も何度も何度も根気強く朝まで説得を試みたけれど、結局は信じて貰えませんでした。
自警団に差し出すわけにもいかず、今日も仕事なのにお風呂にも入れていない。
朝になってやっと帰ってくれて謝罪もない。
寝不足でお風呂にも入れず、荒らされた家を眺めて辟易としました。
教会へ行こうかどうか迷ったけれど、あの人の事は何よりも優先したかった。
仕事では身が入らず、上司の優しさと猫なで声が神経までもを逆なでする。
昨日と同じ制服だとか、昨日は何をしていたのとか、自分は家にも帰らず何をしていたのか逆に問い正したかった。
同僚と上司から同じニオイがする。その事実が余計にため息を加速させます。
(何をしているのだろう……私)
それでも日々の生活を続けなければいけません。魔族との戦争は激化の一途をたどり、物資の不足や治安の悪化も加速させています。この街へと避難してくる人が増えるたびに、加速度的に発展もする。それは良い意味だけじゃない。人は生きるためならば他人を平気で害する。スリや盗み、命の奪い合いに娼館も増えました。
「今日は暇? これから食事なんだけどどう?」
「まだ仕事がありますので」
「お姉さん。また会ったね。これって運命っぽくない?」
「そうですね。では」
「この人、俺の彼女なんで」
絡まれた所を助けてくれたのはありがたいのですが、私の左手の指輪を見て。結婚しています。
「お姉さんごめんね。彼女だなんて言って」
「そうですね。困ります。私にはちゃんと夫がいますので。次回からはやめて下さい」
「助けて貰っておいて、それはないんじゃない? ねぇ?」
「いや、いいよ。別に感謝して欲しくてやったわけじゃないからさ」
「この人ほんと愛想がないのよね。私、ちょうどこの時間で終わりだから、ご飯食べに行かない?」
「え? それはちょっと……」
「それでは失礼しますね」
「待ってよ。お姉さん」
一度路地裏で襲われた時は焦りました。聖なる護りが反応し発光し音を鳴らし神殿騎士の方がすぐに駆けつけてくれたので難を逃れました。股間をナイフで刺してしまいましたが、罪に問われなくて良かったです。
「お姉さん大丈夫だった?」
「大丈夫でした」
「お姉さんほんと最高。守る必要なんてなかったね」
「あっ‼ 見つけた‼ 昨日は良かったね……今夜も、ね? お酒飲みに行こ?」
「きょきょきょ今日は仕事があるから。それじゃお姉さん。またね‼」
「あっ‼ 待ってよ‼」
私は家を離れ、実家で暮らす事に――。
でも実家には長女がいますので、彼の実家で彼のご両親と一緒に暮らす事となりました。
……実家には帰り辛い状況になりつつあります。
父が私を心配して男性を紹介してくるのが苦痛です。
「会ってみるだけもいい」
会うのも嫌です。夫と他の男性を天秤にかけさせる気なのです。どっちが傍にいて大切にしてくれるのか。選ぶのは良くありません。私は人を比べて選びたくありません。夫に対して申し訳なく思わないのか不思議で仕方ありません。相手にも期待を持たせたくありません。会話するのも苦痛です。
「あんたの幸せだけを願えばそうなるのよ」
姉はそう言います。
「誰かを傷つけても裏切ってもですか?」
「あんたは甘いのよ。一番大切にしないといけないのは自分なんだから」
「そんな理不尽で不義理な行為をするぐらいなら私は死にます」
「そう言う所が甘いし馬鹿なのよ。まぁ金が振り込まれている内はそれでもいいかもね」
「そう言う問題ではないでしょう」
「カマトトぶってんじゃんないわよ。いい子ちゃんぶりっこが」
彼の両親は私にとても良くしてくれました。
まるで実の娘のように扱ってくれます。小さい頃から知っていますのでそれはそうかもしれません。
農業をしていましたが、現在の農業は色々と複雑で頭を悩ませてもいました。単純な食糧不足から食料の値段が高騰し、農家には色々なところからの圧力がかかっているようです。野菜泥棒も増えました。
ただ農家として暮らしていくのも楽ではないのですね。
「もっと早く暮らしていれば良かったわね。ごめんなさいね」
「いえ……」
でも彼のご両親からも……。
「でもね。無理はしなくていいのよ? あの子を待たなくてもいいから。結婚だって本意ではなかったのでしょう? あなたはあなたの幸せを考えていいのよ。あの子の事は帰って来ないと思った方がいい」
そう告げられた時はショックでした。
苦笑いと笑顔を返したけれど、裏で泣いてしまいました。
そんな悲しい事を言わないで欲しかった。
私は彼を愛しています。会わなければ会わないほどに、彼を思えば思うほどに、それは強さを増して私の中に確かにある。
誰に否定されてもいい。幸せに見えなくてもいい。それでも構わない。
我儘でしょうか。それは我儘でしょうか。
たまに友達に会います――日々が過ぎる中、みんな変わってゆきます。
「子供が一緒でごめんね」
「ううん」
「もう全然目が離せなくてね。結婚したらもっと幸せになるって思ってたけど……家事に育児に仕事でしょ。もう自分の時間がないのなんのって。それなのに夫は休みの日には家事も育児もせずにダラダラダラダラ過ごすのよ? 俺は働いてお前達を養っているんだって偉そうに」
みんな現実を生きている。私だけ夢を見ているみたい。
「前は夫に尽くすのも苦じゃなかったけど、最近ねー。もう……年取ったなーって思うのよ」
何も答えられません。
それでも愚痴をこぼしても、みんな自分の居場所がちゃんとあるようでした。境遇を笑い合い共感しあう。
私だけ置いて行かれているみたいです。心の中に焦りのような焦燥のような、まるで私だけ水の中を進んでいるかのような。
「旦那さん戦地なんだっけ」
そう告げる友人もいれば、そう告げない友人もいます。どちらも気遣いでそして現実です。男を紹介してあげようかと告げる人もいれば、あの人の事は気にしないでいいからと気を使ってくれる友人もいます。どちらも現実で優しさに近く、笑って誤魔化す私がいます。左手の指輪を弄り、その硬さに安堵する。不思議な話ですよね。
そんな折、姉の子供が病気にかかりました。
治すのに大金が必要だと言います。姉夫婦にそんなお金があるわけもなく、私は歯噛みしながら夫の貯金に手を出しました。これにだけは手を出したくなかったけれど……命には代えられません。
久しぶりに開いた夫の通帳には信じられないくらいのお金が入金されていました。
毎月の支給額が金貨五枚――それは最前線にいる事を示唆していました。
その場に崩れ落ちそうな足を踏み留め、下ろしたお金で王都へ向かいます。何とか病気の薬を買い、道中で何人かの冒険者の方に助けて頂き、それには本当に感謝しています。
そこでロズンさんと言う冒険者の方とお話をする機会がありました。
ロズンさんの奥さんも戦地へと派遣された魔術師なのだそうです。
薬のおかげで姉の子、姪は一命をとりとめました。
姪と姉の旦那さんには沢山の感謝の言葉を頂きました。
「お姉ちゃん。お薬ありがとう」
「ううん。このお薬はね。私の夫が買ってくれた物なのよ」
「そうなの?」
「うん。だから、あの人に感謝してあげてね」
「うん‼ 私、将来はお姉ちゃんの旦那さんのお嫁さんになってあげるね」
「うん。それはダメかな」
「なんで?」
「そりゃいいわ。あんたの旦那、随分お金稼いでるみたいだし、いいよいいよ。行きな行きなー」
「姉さんはちょっと黙ってて」
「なによ。別にいいじゃないそれくらい。それより残金はどれくらい残っているの? 最近きついのよね。ちょっと回しなさいよ」
「お前は何を言っているんだ。すみません……こいつが」
「はっ。何言ってんのよ。綺麗事で食べていける世の中だと思ってるわけ?」
「お前はほんとにっ……すみません。義妹さんにここまでお世話になってしまって。薬を買って頂けなかったらこの子は……本当にありがとうございます」
「後でお金の請求とかやめてよね。払えないから」
「おまえ‼ 本当にすみません。少しずつでもお返ししますから。何年かかってもお返ししますから」
「そんなん無理無理」
「おまえ‼」
「ほんとの事でしょ‼」
「すみませんほんとに。少しずつでもお返ししますから」
「いえ」
「だから無理だっつーの」
姉は良い意味でも悪い意味でも口が悪くてリアリストです。
でも思えば、昔の私があの人へと向けていた言葉も、こんな風だったのかもしれません。やはり姉妹なのでしょうか。
帰りに教会に寄ったおり、修道女の方から回復の聖書を買わないかと聞かれました。
「ちょりー……ではなく、こんにちは。あなたの献身的な姿を毎日眺めておりました。よろしければこちらの聖書を金貨五枚でお売り致しますが如何でしょうか?」
今まで出会ったことのない修道女の方でした。
「……それは」
「マジさ……ではなく、持っていて損はありません。あなたは報われるべきなのです」
教会からの進言を無下にはできません。
夫に申し訳ないと脳裏を過りつつ、金貨五枚で回復の聖書を買いました。
簡易回復の祈りを身に付けたので、簡単な怪我なら治せるようになりました。微々たるものですが。
「やっぴっ……ではなく、やっぱ習得できちゃったかー。習得できましたね。良かったです。よろしければ教会で働きませんか? ギルドよりはお給金は下がるかもしれません。しかし昨今は治安の悪化が見受けられます。近々聖なる護りをお持ちの女性達で纏まり保護活動をする予定なのです。よろしければ参加致しませんか?」
「少し、お時間を頂いてもいいですか?」
「もっちー……ではなく、もちろんです。より良いお返事をお待ちしておりますね。それと、こちらは聖印です。戸口へとお飾り下さい。治安維持強化のため教会ではこのたび神殿騎士の巡回を開始致します。聖印があれば優先的に巡回させて頂けますよー」
「ありがとうございます」
「気にしなくていいっしょっ。あんたマジっ……ではなく、大丈夫ですよ。毎日お祈りは偉いです。旦那さんのお帰りをお待ちなのですよね。本当にあなたは素晴らしい人です。ではでは」
神殿騎士が治安維持で巡回するようになり、街の治安は各段に向上致しました。また聖印を授かれましたので、家の戸口に飾ることで家が教会の保護を受けた証を得ました。
彼の両親との同居は嫌ではないですが、気を使われるのは……。私の両親が彼の両親に圧力をかけているのです。申し訳なく思います。
こうして私はまた家へと戻りました。
あれから五年です……。
やはり夫の通帳を毎月確認するのがとても苦痛でした。見たくない。そうは言っても生活があります。両親の生活も芳しくありません。治安の維持が向上しても、食料の問題は解決していないのです。
夫に申し訳ないと考えつつも、振り込まれるお金で彼の両親や自分の両親、姪の生活を支えました。通帳からお金を引き出すたびに苛まれる罪悪感はとても苦痛です。私は我儘でしょうか。
家には相変わらず上司の妻がやってきます。ここにはいないのに。
そんな彼女に夕食を振舞い話を聞くうちに、なぜだか親しくなりました。
最初は錯乱していた彼女も、徐々に落ち着きを取り戻し、普通に話をするまでになりました。
「……ごめんなさい。私、どうすればいいのかわからなくて」
「気にしないで。確かに……毎日帰って来ないのは辛いよね」
「私どうすればいいの……。教えて下さい。どうすれば夫の愛を取り戻せますか?」
それは私に聞かれても答えようがありません。一度離れた愛は取り戻せるのでしょうか。それで良いのでしょうか。それでも愛している。それは愛なのでしょうか。それとも執着なのでしょうか。私の夫がこんなだったら私は夫の襟首を掴んで殴っています。ごめんでは許しません。
テーブルへと突っ伏して、思い描くのは思い出になりつつある夫の姿です。それが胸を締め付けます。今夫がどのような姿なのか、何をしているのか、想像すらできません。過去のあなたを思い返し、営みの狭間でゆらゆら揺れているだけ。夢に見ればこれほど甘美なものはなく、目が覚めるほどに胸を締め付け、締め付ける癖にその日は機嫌が良くて困ります。
夢の中でもいいからあなたに会いたい。我儘でしょうか。
あの人が傍にいる気がして、抱きしめてくれている気がする。気のせいなのはわかっているのです。でもそう願わずには望まずにはいられません。
それからしばらく私の家の周りにも数軒の家が立ちました。
隣に越して来たのは意外な事に、ロズンさんでした。ロズンさんは姪のお薬を買いに王都へ向かった際、出会った冒険者の方です。
奥さんが私と同じく戦地にいます。
上司の奥さんが私の家へと遊びに来たおり、奥さんとロズンさんが交流を持ち、三人でたまに食事などをするようになりました。もっぱら私は付き添いなのですが。
上司の奥さんにはギルドで働かないかと勧めています。
けれど上司がやっぱり良い顔をしないそうです。
鉱石ラジオを買いました。
高かったけれど奮発です――ただ買った事を少し後悔しました。最初の戦死者が帰って来る話が流れたからです。今まで戦死者は帰って来ませんでした。秘匿していたんです。民を不安にさせないようにと理由はあるのですが……。
私の街にも死者が帰ってきました。
でも……でも、遺体はありませんでした。
名前のついたタグと、運良ければ遺品等が少々。どの遺品も血に濡れ、牙で穿たれた穴や攻撃を受けて歪んでいました。
開いた名簿――。
「ちょっと‼ 確認したなら早くどきなさいよ‼」
「すっすみません」
周りの人達には申し訳なく思いながら、夫の遺品が無い事に安堵の息が漏れます。あまりのストレスに、目がピクピクと痙攣してしまう。
泣きじゃくる遺族の隣で、明日は我が身かもしれないと……。誰も彼もストレスで顔が歪みまともに立ってもいられません。
(何時まで続くの? 何時まで続くの?)
家に帰れば夫の遺品が無い事に安堵し、ニヤニヤしようとする顔と布団を抱き締めて、体が震えてわけもわからず涙が零れる。
私が安堵する半面、ロズンさんは……。
奥さんが戦死している事が判明してしまいました。遺品はタグと箱だけ。ロズンさんは狂ったように笑っていた。隣の家から狂ったような笑い声と泣き声が聞こえていて、戦々恐々としています。
そんなロズンさんを心配するように上司の奥さんであるリーナさんが佇んでいました。
ロズンさんと彼女の関係は、良い関係とは言えません。
それを私が知ったのは、随分と先の話です。
上司の奥さんがギルドへ入るのと代わりに私はギルドをやめました。
教会で働くためです。上司の奥さんがギルドで働くには、誰かがやめなければ無理だと話もありました。私には丁度良かったのです。
教会では怪我をした人々のお世話やお年寄りのお世話をしました。
回復の祈りと言う魔術は不思議な魔術です。傷を癒したいとそう願う心がそのまま効果となるのだそうです。
何度かこの魔術書をお売り頂いた修道女の方を探したのですが、あの時の修道女の方はあれ以来めっきり姿を現しませんでした。
確かにギルドよりは給料は下がりましたが、こちらの方が働くには気が楽です。女性が集まる事で身を護る術にもなります。
教会は私の性には合っていました。朝の礼拝時には夫の無事を祈れますし、夕方仕事が終わった後も夫の無事を祈れます。
ただ夫の無事を祈る。ただそれだけの時間が好ましいです。この時間と眠る時だけは夫の事だけを考えていられます。私にとってこの純粋な時間はとても大切なものでした。
「このカマトトが。あんたのそう言う所が昔から嫌いだったのよ」
姉には会って話をすると何時もそう悪態をつかれます。
「お姉ちゃん気にしないで。私もお母さんのそう言うところが嫌いだから」
「このクソガキ」
「くそばばぁ」
「二人共」
ロズンさんの様子は良くありません。
髪は乱れ無精ひげもそのままに、食事もせずにやつれて酒浸りに。
非情ですがだからと言って私は彼には近づけません。
私にとって一番大切なのは夫だからです。不要な慰めは返ってロズンさんを傷つけると考えます。私には何もできません。ロズンさんが自分で立ち直るしかない。そう思います。
「お願い。ロズンを慰めてあげて」
でも上司の奥さん、リーナさんからはそう告げられます。
「すみません。それはできません」
「なぜです? ロズンと同じく、貴女の夫も戦地にいるのでしょう? 気持ちがわかるはずです……」
「だからです。一番大切なのは夫です。不用意にロズンさんを慰めるなどできません」
「……あの人の奥さんは戦地で男を作っていたようです。私の夫だってそうです。貴女の夫だって……ロズンは貴女に……」
戦地のジンクスですか。離れれば例え最愛の人がいても浮気をする。あの人に限ってそんな……。でも例えそうであったとしても私には責められません。
彼の命の対価で姪は救われました。両親だって……。
例えそうであったとしても……帰ってくれば、帰って来てさえくれたなら。私の元へ帰って来てさえくれたならそれだけでいいだなんて……。
帰って来た夫が私を必要としていない。それを覚悟しておかなければならないなんて。理屈では理解していても感情は溢れるばかりで納得をしてくれません。未消化で何時までも留まり続けて苦しい。今すぐにでも夫に会いたい。愛していると言って欲しい。お前だけだど言って欲しい。でも夫はいません。信じて耐えるしかありません。
「私達には何もできません……」
「私は……‼」
「それはいけません。貴女にも夫がいるのですから」
「私の夫など……。どうせ女と遊んでいます。どうせ貴女の夫も他の女と遊んでいますよ‼ ロズンは純粋な人です‼」
夫が他の女性と関係持つ等と想像するのも苦痛です。
「例えそうであったとしても私達は……私にはできません」
「貴女がしなくとも私はします」
「いけません‼」
「うるさい‼ あんたのそう言う所が大嫌い‼ 何もできないなら黙ってて‼」
私にはどうしようもありません。
あなたが戦地へ赴いてから七年が経ちました。
季節の移り変わりは早いものです。国からの管理はさらに厳しいものとなりました。死者も増加の一途を辿っております。それと共に戦地よりの帰還者も受け入れられ始めました。戦役を終えた人々が帰って来たのです。戦役を終えた人々が帰ってくると共に、新たな戦力が戦地へと導入されて行きます。若い人達が戦地へと送られます。その中には冒険者の方もいました。傭兵として国からの依頼に答えるため、沢山の冒険者が戦地へ送られたそうです。
毎日毎日帰還者名簿を眺めますが、夫の名前はありませんでした。
それと共に帰って来た人々の噂が聞こえ、胸を痛めました。体も心も皆傷だらけです。せっかく帰って来られたのに居場所を失っていて自ら命を絶つ人もいるのだそうです。その話は私の胸を強く締め付けて止みません。
「……買い物?」
「ロズンさん。そうですね。お買い物です」
「手伝うよ」
「大丈夫ですよ」
「いいから。手伝うって。その方が気が紛れるから、気にしないで」
「いいですから」
「いいから‼」
ロズンさんは酒浸りからは回復したのですが、最近は少し乱雑になられました。
ギルドの……上司は離婚なさったそうです。
だからと言ってロズンさんと上手くゆくわけでもなく。
「どうして‼ 昨日だってあんなに‼」
「もうやめよう……俺は君の事を愛していない。ごめん」
「どうしてですか⁉ 昨夜はあんなに求めて下さったのに‼ まだ亡くなった奥さんに未練が⁉ 違いますね……あなたは」
「違う‼ 彼女は関係ない‼」
お隣から聞こえてくる会話を聞きたかったわけではないです。
最近ガーデニングを始めました。
教会から頂きました種を用いて色々な薬草を栽培しています。煎じて薬にすれば教会に買い取って頂けます。色とりどりに揺れる植物に触れると自然と笑みが浮かびます。すっかりはまってしまい自室でも栽培してしまいました。
しかし今朝も夫へと送った手紙が手元へと返ってきます。
夫と連絡が取れなくなり何年経ちましたでしょうか。
検閲済みの判だけが押されています。夫からの手紙もありません。
今、何をしているでしょう。何時もあなたを思っています。
引き出しから何年も前の手紙を取り出し、結局はこの一通だけでした。ぽろぽろと崩れ、鉄のニオイがします。これだけです。たったこれだけ。
次の日、手紙が来ておりました。戦地からです。
差出人は――ラートリーハーベル子爵令嬢となっていました。
なぜ――。
貴族特権で検閲されていません。
部屋へ戻りながら封を切ります。そこには……。
夫と別れて欲しい旨が記載されておりました。
最前線にて関係を持ち、戦地から戻りましたら一緒になりたいとそう記載されてありました。指が震えました。ショックを受けたと言えばショックでした。
何にもやる気がおきなくなり、何日も何日も部屋に引きこもってしまいました。
食事が上手に喉を通りません。もう私の元へは帰って来ないのかもしれません。それを考えたら悲しくて悲しくて。
「ばかっ。ばかっばかっしんじゃえっ」
うそ……死んじゃダメ。
何をやっているのだろう私……。それでも月日は流れます。どんなに苦しくても明日はやってきます。生きるのを待ってはくれません。別の意味で帰って来ない事も視野に入れなければいけないかもしれません。
ラートリーさんからの手紙を眺めると平常心ではいられません。何度も燃やしてしまおうかと悩みました。手元に手紙を置いておきたくありません。それでも捨てるわけにも燃やすわけにも行かず。
今月振り込まれた夫の通帳を眺めます。金貨十五枚。一体何をしているのでしょうか。普通の人が受け取れる金額ではないです。心配するだけ損だったのかもしれません。
ラートリー子爵令嬢を探しました。もしかしたら夫はそこにいるかもしれません。
ハーベル子爵と貴族の方なので探すのは比較的容易でした。
ラートリーさんは……お墓の中にいました。遺体は無いそうです。
手を合わせる男性と子供が一人、偶然ですが……事情を聞きました。
丸まるおメメと緑髪の可愛らしいお子様です。
ラートリーハーベル子爵令嬢は公爵家の男性と恋に落ちたのですが、認められず、戦地で軍医として三年過ごし実績を積めば結婚を認めると申し付けられたそうです。
ですが一年ほどで男性は他の方と婚姻してしまい、もう少しで三年と言う所で、その事実がラートリー子爵令嬢に伝えられたそうです。ラートリー子爵令嬢は結局三年経っても帰っては来ませんでした。その後戦地で亡くなられたそうです。最後まで最前線で医療に従事なさっていた。
「あなたは‼ またこんなところに‼ どれだけ私を惨めにすれば気が済むのです‼」
「ナタリー。お前には関係のない事だ」
「お母さん……。どうしたの? お父さん?」
「ごめんな。お母さんの所へ行ってくれるか?」
「……うん」
「あなたの妻は誰なのですか‼ 私が……私がどれだけ……どれだけ。何処まで私を惨めにすれば……貴方は最低です」
「お母さん」
「……違うの。あなたに言ったわけではないのよ。声を荒げてごめんなさいね」
「ううん。お母さん泣かないで。お父さん‼ お母さんをイジメないで‼ 行こ‼ お母さん」
女性の方は泣いていました。
「すみません」
「いえ……」
「ところでラートリーの知り合いの方なのですよね? 何処かでお会いに?」
「あっいえ。私では無いんですが、実は夫が戦地でお世話になったそうで……」
「そうですか……。そうですか。その辺の野花を摘んで差し出しても喜んでくれるような、彼女はそんな女性でした。彼女を殺したのは私も同然です」
「どんな理由であれ、夫に蔑ろにされるほど妻にとって悲しい事はありません。今からでも追いかけて下さい」
「だが私は……ラートリーを……」
「今の貴方の奥さんはラートリーさんではないですよね? どうか今の奥さんを大事になさって下さい。まだ間に合うはずです」
「……そうか。そうだな。そうか。もう……ラートリーは」
男性はふらりと立ち上がり、女性の後を追ってゆきました。子供が男性へと手を振っています。
結局夫はいませんでした。取り出した手紙が風に飛ばされても私は追いかけませんでした。
十年が過ぎました――夫は帰っては来ませんでした。
勇者が魔王を倒したとラジオが高らかに告げます。戦争は終わったのです。でも夫は帰ってきませんでした。笑ってしまう話しです。結局は始終夫に振り回される人生でした。後悔はありませんが胸の中に風が通りスースーします。
「買い物? 付き合うよ」
「ロズンさん。大丈夫ですよ」
「良いから任せなって。荷物重いだろ? どうせ帰るついでだから」
「ロズンさん……」
正直やめて欲しいです。
「呼び捨てでいいよ」
「はぁ……」
何度もはっきり申し上げていますのに。私の態度が煮え切らないのでしょうか。隣人としては仲良くしなければいけません。好意を抱かれているだなんて、私の思い過ごしでしょうか。例えそうであってもそうでなくても距離感は大切です。
「なぜ何時も貴女なの‼ 貴女さえいなければ……」
そう告げられたのはロズンさん。貴方のせいですよ。
ロズンさんの距離感は同性の友達か恋人の距離感です。困ります。
「これからガーデニング?」
「そうですね」
「手伝うよ」
「大丈夫です」
「遠慮しないでよ。お隣でしょ。心配しないで。別に感謝の押し売りがしたいわけじゃないから」
「彼女とはどうなったのですか?」
「え? あぁ……。俺には、もったいなさすぎるよ」
「関係を持ったのならしっかりと責任は取らなければいけませんよ?」
「はははっ。そんな関係じゃないよ」
本当かしら。
国を挙げての喝采の日々が始まりました。それでも夫は帰って来ません。何をしているのやら。勇者が凱旋します。それでも夫は帰って来ません。世界が平和となり、魔物が減ったため、避難していた人々が方々へと散り帰ってゆきます。それに伴い冒険者の数も減りました。それでも夫は帰って来ません。笑っているのに涙が零れるのですから、変な話ですよね。
「ばかっばかっばかっ」
何度罵っても足りません。お金だけ寄越して最低です。あなたがいないと意味がないのに。あなたは最低です。しんじゃえばいいんです。
なんですかラートリー子爵令嬢って。怒っています。私は怒っています。私一人待ち続けて馬鹿みたいです。それでも待ち続けます。意地でもやめません。
「お姉ちゃん‼」
「いらっしゃい。もーすぐ抱き着いて。何時まで経っても甘えんぼさんなんだから」
「へへへっ。今日は泊まっていっていい?」
「学校は大丈夫なの?」
「全然大丈夫‼ 明日はおやすみなんだ」
「そっか。お母さんは元気?」
「あの人は何をしても死なない人だから心配しなくても大丈夫」
「ふふふっ。そうね」
「ねぇねぇ。今日は薬草の煎じ方教えてよ‼」
「わかったわ」
「パトリシア‼ パトリシア⁉」
「……また隣の人が来たの?」
「はぁ……困ったものね」
「お邪魔だった?」
「お姉ちゃん結婚してるのよ。特定の男性の方が頻繁に来られるのは困るわ」
「……帰って来ないね」
「……そうね」
「パトリシア⁉ いないのか⁉」
「はぁ……」
玄関を出て門へ。
「なんですか? ロズンさん。呼び捨ては困ります」
「おっ。いたいた。別にいいじゃん。呼び捨てでも。誰か来てるの?」
「姪が来ています」
「お邪魔だった?」
「そうですね。遠慮して下さい」
「おー手厳しい。これ、いいお肉貰ったんだ。おすそ分け」
「困ります」
「お隣なんだから別にこれぐらいいいでしょ。置いて行くから食べてね」
そう告げるとロズンさんは自宅へと帰ってゆきます。困ります。嫌です。
「健気だね」
姪にそう告げられます。いくら私でもここまでされるとさすがに好意には気が付きます。困ります。嫌です。
「困りました」
「別にいんだよ。貰っとけば。くれるって言うんだからさ」
「そう言うわけにはいかないの。嫌なのよ。煩わしいわ」
「はっきり言っちゃうんだ。でもお姉ちゃんのそう言う所、私は大好きだよ」
少し姉に似てきましたね。そう言うと嫌がりそうなので言いません。
「仕方ないよ。お姉ちゃん性格いいしさ。グラマラスだし……今日化粧してないでしょ?」
「性格は貴女のお母さんと一緒よ。化粧は今日は……えぇ、まだしていないけれど」
「お父さんだってお姉ちゃんが来ると鼻の下伸ばすんだから。肌だって綺麗だし……。お母さんが何で浮気しないか知ってる? すっぴん見られるのが嫌だからだよ」
「冗談ばっかり言って。この子は。私も昔はソバカスがあったわ。そんなに気にしないの。可愛いじゃない」
「あのね。自覚したほうがいいよ。すごくいい匂いするしさ。街で歩いている時、みんな振り返ってるよ? あとソバカスを可愛いって思っているのはお姉ちゃんだけだからね」
「そんなわけないでしょう。ニオイは多分、薬草の香りね。服に付いちゃうんだわ」
「……はぁ。お姉ちゃん。好きな人ができたら遠慮なくて言ってね。旦那さんの帰りは私が代わりに待つからさ。お姉ちゃんが好きって言ったらみんなころっと落ちると思うしね」
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ。ふふふっ」
「へへへー。いい子いい子してー」
「もー。甘えん坊さん」
「私さ。お姉ちゃんには幸せになって欲しいんだー」
「うふふっ。ありがとう」
「だから遠慮なく言ってね? 玉の輿には私が乗るから」
決めました。例え夫が帰って来ても姪には絶対に会わせません。
日々は流れます。年ばかりを重ねてしまいました。
魔王討伐から一年を過ぎ、賑わいは落ち着きを見せ始めます。でも何処かそわそわとして希望に満ち新たな時代が芽吹いています。それはざわめきとなり国全体を覆っておりました。
ですがこの街はまた田舎に戻りつつあります。それは仕方のない事なのかもしれません。結局あの人は帰って来ませんでした。
でももうそれでも構いません。私は何時までも待ち続けるだけですから。
例え虚しいだけの人生だと噂をされても構いません。
もうお金も使っちゃいます。……いいですよね。あなたを待ち続けた女として石碑でも建ててやります。大きい石碑です。
「やぁパトリシア。今日もガーデニング?」
「こんにちは。そうですよ」
「手伝うよ」
「ロズンさん」
「いいからいいから。これで水あげればいいのかな?」
「ロズンさん」
「二人でやれば早く終わるって」
人の話を聞いて下さい。なんだかムカムカしてきました。自然と笑顔になってしまいます。威嚇の笑顔です。水をかければ帰って下さるでしょうか。迷惑だとはっきり告げた方が良いのでしょうか。でも隣人付き合いを考えると……。水かけちゃいます。
「もう‼ ひどいじゃないかパトリシア‼」
(早く帰って?)
視界の端に誰かがチラリと映ります。門の傍です。軍服でしょうか。鞄を持っています。気付くのを待っていてくれたのでしょうか。こちらを眺めておりました。
「あら? 誰かしら。ごめんなさいね‼ 今行きます‼」
(背が低い。女の子?)
「こんにち……」
長い黒髪――真ん丸の……瞳。私を捉え、ほんの少しだけ顔を傾けて表情の緩む様。優しげで気だるげな――。
もしかして……。もしかしてもしかして。すぐにでも傍に駆け付けたいのに、まるでそこだけが重たい水の中のように感じられました。体が上手に動かず息ができませんでした。
私の目の前にいたのは――。