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第一話

 列車に揺られている――外の景色は穏やかで、窓枠に肘をついてそれを眺めていた。

 十年ぶりに故郷へ帰る――戦争が終わりやっと帰路へとたどり着けた。

 正確には十一年三カ月だけれど……。

 人と魔族の戦争は辛うじて人の勝利で終わった。それは勇者御一行の旅が終えた事を意味している。無事かどうかは別として勇者が魔王を討った。

 そして戦場で魔王軍の相手をしていた一兵士であるボクも、同時にその役割と戦役を終えた。

 戦いを終えると自分が何をしていたのか理解できなくなる。毎日毎日魔王軍との戦闘で、毎日毎日魔王軍との戦闘を考え、毎日毎日魔王軍との戦闘で生き残る事ばかり考えていた。

 いざ終わり――。

(これからどうすればいい?)

 なんて考えてしまうけれど故郷に帰るしかなかった。他に居場所がない。だって他に何も残っていないのだもの。

 生き残り、一体でも多くの魔物を同胞へと手向ける。

 それだけを考えて生きて来た。


 ボクは特殊部隊の一員だった。メンバーは十五人。表向きは普通に配属される魔術一般兵だったけれど、その内実、部隊内で著しくモラルを欠く人間を間引く役割を担っていた。

 最前線は常におかしかった。逃げ出す者、精神に異常をきたす者、略奪する者、魔王軍に寝返る者、女性を襲う者、男性を襲う者。そのような輩を処理し、前線を維持しつつ最前線を安定させるのがボクの、ボク等の役目だった。

 もちろん魔族とだって戦うよ。

 なまじ魔術の適正があったばかりに、片田舎に住んでいたのにも関わらず軍に徴集され、最前線で生き残るために訓練し改造された。

 十年経ってもボクの容姿は昔のままだ。

「おい、聞いたか? キャスの奴」

「あぁ‼ 聞いた聞いた‼ 悲惨だよな……十年ぶりに帰郷したら婚約者が別の男と結婚してたって奴だろ」

 あが……。聞き耳を立てているわけではないけれど、何処からもそのような話ばかり聞こえてきて、きつきつのきつやでと言わざるを得ない。


 そう、ボク等兵士は十年ぶりに帰郷するわけだが、その帰郷話に皆戦々恐々としていた。

 独身やソロは良い。独身やソロは……。

 既婚者や恋人持ちは悲惨な結末が多いって話だ。

 十年も会わなければ男も女も股ぐらを他人に開く。そんなきつきつのきつのジンクスが兵士の間で話題となっていた。

 家に帰ったら家は留守で妻がおらず、隣の家に聞きに行ったらドアの先から裸の隣人が現れて、その背後に全裸の妻の寝姿があったとか。

 家に帰ったら見知らぬ男と一緒に暮らしていたとか。家に帰ったら寝室で妻が知らない男と寝ていたとか。もうね。何て言うかね。ちゅらいね。


 行も辛いが帰りも辛い。ほんまやで。生きるも地獄、死ぬも地獄やんね。

「俺達の稼ぎで悠々自適な生活を送っていたくせに、帰ったら居場所が無いんだもんな……マジきちーよ」

「あぁ……それで今までの金銭の返金を要求した兵士もいるんだとか。マジ泥沼だよな」

「あれだろ? 帰ったら嫁が顔を真っ青にして次の日、男と駆け落ちしたとか……」

 うわっ。マジちゅらい。聞きたくない。


 なぜここまでボクも過敏に反応するかと問われれば、ボクにも妻がいるからだ。

 十年前、幼馴染の妻と結婚した――ボクは魔術が使えたからいずれ徴兵されるだろうと幼馴染との結婚を急かされて、流されるままに結婚してしまった。夫婦生活は一年ほど……。

 帰る場所がそこしかないのに、そんな話ばかりで帰りたくないでござる。

「聞いたか? 最前線は実質三人の人間に支えられていたって話」

「あー眉唾だろそれ。三人であの前線をどうやって維持したっつーんだよ」

「それがさぁ。認識できないらしんだよ」

「高度な認識阻害魔術ってことか? あほらし……」

「いや見た奴がいたんだって‼」

「阻害されてるのに見た奴がいたらおかしいだろ」

「それが目の前で敵がバラバラになっていったって話でさ」

「はははっ。どうせ頭がおかしくなってたんだろ。あの戦場じゃ仕方ねーさ」

「いやいや知らねーのかよ。見えざる戦場の悪魔って」

 嫌いだったわけじゃない。ツンツンされていた記憶はある。何時も睨まれていた。夫婦生活は悪くなかった。


 まぁ……もっとも、例え幼馴染が他の男性と通じていたとしても、ボクにそれを責める権利なんてないけれど。

 戦場では人が壊れる。ボクはあまりにも人を殺し過ぎた。魔物や魔族の討伐数の方が多いとは言え人殺しだ。

 それに……軍医だったパトリシアとも関係を持ってしまった。

 前線で分断されたおり左腕と左目を失った。

 そうして医務室に運ばれたあと、その左腕と左目を治してくれたのがパトリシアだった。

 ボクが動けなくて眠っていた所を、パトリシアが気遣い処理してしまった。ボクが望んだわけではないとは言え、その事実は決して消えない。

 同時にボクのケツも守ってくれた。

 ボクはどうも容姿が女性よりだ。

 だからか、ボクのケツを狙う男がいた事実には戦々恐々としている。

 戦場に女性は少ない。男性は女性に狂う。たった一人の女性を巡り、裏切りやだまし討ちが横行し戦線が崩壊した事例もある。


 戦線で正常を保つのはとても困難だとパトリシアは語っていた。

 パトリシアも限界だったらしい。縋る術が欲しかったと告げれらた。それから何度も体を重ねている。乞われて拒否できなかった。拒否しなかった。生を拾う彼女の仕事は、戦場においてそんな生易しい仕事ではなかったのかもしれない。


 戦場には娼婦も招かれるし、良くこんな所まで来るなぁとは感じたけれど、それは兵士にとって一番の薬だとパトリシアは語った。

 娼婦の娘が戦線で男子を支え、終わった後に嫁として娶られる話はそう珍しくもない。中には高貴な方の側室に迎えられた人もいる。

 娼婦にとっては命を賭けるほどに人生を逆転させる場だったのかもしれない。


 そのパトリシアも三年前に亡くなった。

 同衾を拒否した兵士に戦場で後ろから刺されて亡くなった。

 軍医は戦場においてもっとも守られなければならない職業だ。そうでなければならない。

 だからパトリシアを殺した兵士は軍法会議にかけられ、磔にされて魔物に啄まれる残忍な刑を受けた。


 これらの事実があるから、例え妻が他の男性を好いていたとしても、ボクには妻であるパトリシアを責められない。

 同じ名前だからと身を許してしまった。望んでしまった。

 でも帰って最初の仕事が離縁て嫌だな……。


 列車が目的地へと到着したのでケース鞄を手に持ちホームへと降りる。

 昔は開通していなかった列車が通っている――改札を抜けると村の様子はすっかりと変わっていた。もう村ではなく街だ。街を歩く人達の中に昔馴染みの姿はなかった。

 でも何処となく雰囲気は変わっておらず、これだけは変わらないな等と、そんな感想を浮かべてしまった。


 本当はもっと早く帰れたのだけれど……。

 戦争終結後、ボク等特殊部隊は雌雄を決する事件に巻き込まれた。

 直属の上司が上層部の扱いと考えに不満を持ち、反旗を翻したからだ。

 十五人中九人が賛同し、三人が逃亡、残り三人で事後処理を行った。

 ボクを含めた三人で上司を含め、上層部でボク等に関わった人物全てをジェノサイドした。ボク等が存在した記録はない。全て闇の中へと葬った。

 同胞を殺して平気なのかと問われれば、もう何も感じない。

 慣れ過ぎると罪悪感も無い。罪の意識も無い。

 手が血まみれだなんてそれはただの錯覚でしかない。洗えば血のニオイだって消える。

 記憶の中の過去が残っただけ――。

 ……記録を一切消したので正式な報酬は受け取れなかった。

 順当に行けば爵位を授かるようだった。上司が反旗を翻した時点でその話は消えている。興味も無いけど。その代わりにお金だけは沢山パクってきた。パクった。パクパク。

 仲間の一人、陰キャは故郷へ帰ると袂を別った。病気の母親がいるけれど、多分もう生きてはいないと語っていた。それでも見舞いたいと。

 もう一人、陽キャのギャルは世界を見て回りたいと旅立った。今は亡き戦友との旅を思い返していた。

 だから二人とはそこでさよなら。


 どちらにしろ妻には会わなければいけないし、これからの事も考えないといけない。妻がもしボクを望むのであればそれに応じるし、離縁したいと望むのであれば、それにも応じるつもりだ。

 離縁しないと妻は再婚できない。銀行の仕送りをストップする等の手続きもある。戦争が終わって帰ってきたら、今度は複雑な現実と向き合わなければならなかった。世知辛いね。

 十年は長いもの――仕方ないよ。


 確かこの辺りだったはず――過去小さな平屋があった場所には立派な木の門が聳え立っていた。開かれた門の先から笑い声が響いてくる。花壇だろうか、色とりどりの花が咲き誇っていた。

 何処か面影のある女性の姿が窺え、小さい頃よりも声のトーンが変わっていた。

 門の前で止まると庭が一望でき、丁寧に造られた花壇で色とりどりの花と蝶が舞っていた。

 そしてその先に妻のパトリシアと見知らぬ男がいた。

 あが……。きつきつのきつやで。


 二人は花壇に水を撒いている途中なのだろうか、水を掛け合い笑い合っていた。

 心臓の鼓動は跳ねあがり、瞳孔の広がりを確認したけれど、受け止めなければいけない現実なのだろう。

 やがて妻がこちらへと視線を移した。ふと誰かがいるとボクの姿を眺め、キョトンと不思議そうな顔をする。

「もう‼ ひどいじゃないかパトリシア‼」

「……あら? 誰かしら。ごめんなさいね‼ 今行きます‼」

 こちらへと向かってきたパトリシアはすっかりと美人になっていた。

 陽の光の中で黄金色に染まり栄える淡い金髪、青い瞳、赤味を帯びて健康的な肌。質素な民族衣装のワンピース。

「こんにち……」

 笑顔だった彼女の顔が急激に真顔へと変わっていった。


 向かっていた足を止め、体が震えはじめる。

「どうしたいんだい? パトリシア」

「ごめんなさい。ロズンさん。今日は帰って下さい」

「え?」

「今日は帰って」

「どうしたんだよ」

「ごめんなさい。今日は帰って下さい」

 ロズンさんと呼ばれた男性は妻に背中を押されて渋々帰る様子を見せた。隣を通る途中で。

「こんにちは‼」

 と挨拶をしてきたので軽く会釈をする。さわやかなイケメンやで。


 ロズンさんが門を出て歩き始めると、妻はこちらへと向き直った。

「おかえりなさい……」

 今にも泣き崩れ落ちそうな表情だった。

「ただいま……」

 そしてボロボロと泣き崩れ、立っていられないようでその場に座り込んでしまった。

「パトリシア‼ どうしたんだい⁉」

 ロズンさんがこちらへと戻ってくる。

「帰って来た。帰って来てくれた……」

「え?」

「あなた……おかえりなさい」

「……え?」

 今度はロズンさんの顔が急激に凍えてゆくのが見て取れた。


 荷物を置いて妻を支え抱える。こんな所で座るよりは家の中で椅子に座った方がいいよん。

「……ごめんなさい。ロズンさん。今日はもう……」

 手を差し伸べるロズンさんに妻はそう告げた。

 ボクに支えられて彼女は歩み進め、もう片方の手で荷物を持ち……茫然とするロズンさんに会釈を――彼女は彼を門の外へと残してその扉を閉じてしまった。大丈夫なのかな。これ。何の心配をしているのか自分でもわけがわからなくなってきたぴょん。ベッドシーンでなかっただけマシだったのかもしらん。


 家はすっかりリフォームされていた。

 ただ雰囲気だけは変わっていなかった。あの頃のままだ。何処か懐かしいと感じるニオイ。

 玄関を開いてすぐのリビング――彼女を椅子へと座らせる。彼女の指はボクの手を取り離さず、只管に涙が止めどなく零れていた。どうする事もできずにぼんやりと身を任せるしかない。

「ごめんなさいっごめんなさいっ」

「いいよ……ゆっくりでいいから」

 何のごめんなさいなのか迷ってしまう。


 向き直ると彼女の顔が良く窺えた。すっかりと美人になっていた。他の男がこんな美人を放っておくわけがない。

 手を離して彼女の頬を撫でようと、彼女の手は離れるのを嫌がり、左手だけを握らせて右手をその頬へと――彼女は頬に触れるのを拒否しなかった。むしろ触れるように身を乗り出してすら――濡れそぼるその熱が指先からじんわりと心臓へ伝わってくるようだった。影の中でもその涙は光を帯びていた。

「……綺麗になったね」

「……え? やだもうっ。なに? もー」

「いや……すっかり美人になったなぁと思って」

「やだもう……あなたは全然変わってない。なんで全然変わってないの? もー……やだ」

 すまんな。

「ごめんなさい……今飲み物を入れますね」

 彼女の手は始終震えていた。


 それから彼女はお茶を入れてくれた。

 自家製のハーブティーなのだそうだ。

 それを飲みながら、彼女はポツポツと自分の年月を語り始めた。

 ロズンさんは隣の家の人で、五年前に引っ越して来たのだそうだ。たびたびお世話になっているらしい。戦争で妻を亡くしているとそう告げられた。

 手紙を送ったけれど一通も返事が来なかった。それには少し怒っているようでもあった。すまんな。

 あなたの仕送りで苦労せずに生活出来た。姉の娘が病気にかかった時、そのお金で薬を得ることが出来た。貴方に感謝している。なぜ手紙の返事をくれなかったのかと強く責められもした。


 いくら思い返しても手紙等一通も受け取っていない。検閲で止まっていたのだろう。上司が処分していた可能性は十分にある。特殊部隊だからね。仕方ないね。最前線だしね。すますまのすーま。でも一通だけ返した記憶がある。そう告げるとその手紙を彼女は引き出しから大事そうに差し出してきた。

 彼女の話を聞いていたらあっという間に夕方だ。

 夕食を作ってくれて、今度はボクにどうしていたのかを質問した。

 最前線にいた事を話した――もちろん任務については話さなかった。軍医との諸事情を話そうかどうか迷ったけれど、とてもではないが淀んでしまって話せなかった。

 傷つけないだろうかと考えていた。

 でも話さないのはフェアじゃない。


 誤魔化すように最前線で人が死んでゆく様子を話していたら、彼女の顔が引きつっているのに気が付いて、自分が笑いながら人の死について話している事実にも気が付いてしまった。あまりにも慣れ過ぎてジョークとして話しているつもりだったけれど、普通に考えてジョークで話して良い内容ではなかった。

「……ごめん」

 そう顔を背けると、妻は手を握ってくれた。妻の手は……なぜだか無性に温かった。


 夜も更けてこれからどうしようか考えていた。家に泊まっても良いのだろうか。

「今夜……泊っても大丈夫? 近くに宿はある?」

 そう告げると妻の表情はいっそう悲しそうに歪んだ。

「何言ってるんですか。ここはあなたのお家じゃないですか……」

 あっ。そうだった。


 寝室へと案内されて荷物を置き解く――寝室には沢山の鉢があり植物が並んでいた。

 コートを脱いでいなかった。気が付いてコートを脱ぐと妻がそれを手に取り、掛けてくれた。このコートは上司からパクった一点物だ。なんとポケットがマジックバッグになっているのだ。やったぜ。

「お風呂沸かしていますので入りましょう」

「えっ⁉ お風呂⁉ はいりゅ‼ いいの? 水汲み大変だったでしょ」

 お風呂には素直に喜んでしまった。

 前線にはお風呂ないからね。仕方ないね。

「うふふっ。今は水道が通っていますし、魔石でお湯を沸かすのも簡単なんですよ」

「そうなの? うへー」


 お風呂場で服を脱いでいたら妻も入って来た。

「あーごめん。洗濯物ね」

「こっちの籠へと入れて下さい」

「はーい」

 そして妻も服を脱ぎ始めた――。これ一緒に入る流れだったのか。もっと距離を取られるかと考えていたのにあれれ。あれれのれ。


 目のやり場には困った。妻は以前よりももっと綺麗になっていた。その柔肌には心臓を撃ち抜かれるような錯覚すら覚える。

「背中流しますね」

「ありがとー……」

 彼女がボクの体の傷をいちいち撫でるから痛いやらこそばゆいやら。

「背中、流そうか?」

「流して下さるのですか……?」

「いいよー」

 彼女の背中も流させてもらった。きめ細かな肌だった。黄色の髪が良く栄える。

 こんなつもりではなかったはずなのに……持ち上がってしまって困る。

 彼女はそれを眺めて微笑んでいた。

「なんだか、初夜を思い出しますね」

 でもその眼差しと口調は、過去よりもずっと柔らかだった。

「前はもっと口調がきつかったと思ったけど……」

「素直になれなかったんです……。ずっと一緒だったから」


 湯船に浸かると見つめ合いながら無言だった――。

 彼女はずっとこちらを眺めていた。そして甘えるように体を擦り合わせてきた。

「お風呂、久しぶりだったのですね」

「ずっと体を拭くだけだったんだー」

「結構ニオイましたよ」

「ほんとに? やだなーもう」

「ううん。私の好きなニオイです」

 上目遣いの彼女の顔が迫り、唇へと触れられる。何度か囀るような口付けの後――。

「ふふっ」

 彼女はまた甘えるように顔を胸へと埋めてきた。くらくらする。

 のぼせるように温かかった。お風呂は最高だった。


 湯船から上がって脱衣所で着替えようと……少しくらくらする。

 のぼせるように体が温かい。少しぼんやりとする。立ち昇る湯気と張り付く水分が心地良い。

 柔らかなタオルに包まれて――。

「ごめん。ありがとう……」

 返事代わりのリップ音が耳元で響く。

 包み込まれて――王族の寝るベッドはこんな感じなのだろうかだなんて。回り肌を滑る腕と指――彼女の体温と息遣い。身を任せるように寄りかかってしまい。何をされてもいいだなんて……。

「はい……ぎゅーしますね」

 耳元で囁かれる声色とその何処かぎこちない動き方は十年前を彷彿とさせ、過去が脳裏を過り巡り思い出として流れてゆく。

 その一瞬で十年とか戦争とか浮気とかジンクスとか、そのほとんどがどうでも良くなってしまって。十年前のあの時に引き戻されていた。

 全身の力が抜けてゆき、彼女の体温だけを感じていた。

 振り返り混じり交じる視線と――指の間に滑り込み触れ合わせる手の平。頬の熱が伝わり唇の感触だけが傍にある。慈しむように包まれて。唇だけを寄せ合っていた。温かな湯気の中。彼女の肌に張り付いた水滴が零れてボクの体へと滴り下り、ポタリと落ちて広がった。

 彼女のニオイ。鼻が鳴る。彼女のニオイ。

 寝室へと――腰を下ろした彼女に寄り添い、触れた部分からその体温が交じりあい平等になってゆく。ずっとこのままでいたいだなんて――。

 でもボクには傷があり。それを何度も口に出そうとしてしまう。でも彼女の指がボクの唇を押さえて語らせてはくれなかった。

「それは言わなくとも良い事です……」

 でも……。でもボクは。

「ダーメ」

 それ以上何も言葉にできなかった。


 脱力するように眠っていた――が習慣とは恐ろしいもので誰かが家に近づくのを感じて飛び起きて、妻が上にいるので飛び起きられなかった。意識では飛び起きたつもり。妻が温かくてぬくぬくしている。背中に手を回してしまう。擦れ合う肌が気持ちいい。ボクの奥さんだ。

「ん……どうかしました?」

「んー……」

 なんと伝えたら良いのだろう。束の間――門を強く叩く音が響き何度も何度も響く音に妻も体を起こす。その柔らかな妻の温もりが離れると無性にそれを嫌だと感じてしまった。それを申し訳なくも思う。

「なんでしょう……この音。ん? どうかしました?」

「いや……離れられるのが嫌で……その、離れちゃや、です」

「はい……。……これからはずっとくっついていられますから、大丈夫ですよ……私の旦那様。ぎゅー。ぎゅーしましょうね」

 くっついたまま離れたくないだなんて子供みたい。

 柔らかな眼差しと微笑みを向けられて。

「……でもなんだろう。門が叩かれてる?」

「……そうみたいですね」

 そう告げて門へと視線を移す妻の瞳は冷たかった。表情のギャップに驚いてしまう。


 服を着て明かりを灯すカンテラを持ち玄関のドアを開く――外門が叩かれており。

「パトリシア‼ 君はひどい人だ‼ 俺は‼ 俺は君が‼」

 あっ。察し――ロズンさんだこれ。背後にいた妻がボクに目配せを。

「私が話をした方が良いですね」

 ロズンさんはだいぶ酔っぱらっているようだった。お昼ごろの様子を見ていれば、二人が友達ほど仲が良いのは遠目からでも良くわかる。恋人と勘違いされてもおかしくないとも感じる。実際そうだったのかもしれない。

「ロズンさん」

「パトリシア‼ 俺は‼ 俺は‼」

「ロズンさん。お酒を飲んでいるようですね」

「パトリシア‼ 俺は‼ 旦那がなんだ‼ 君と指を重ねた感触が残ってるよ……」


 妻が耳元へ唇を寄せてくる。

「……手が触れただけですよ? 勘違いしないで下さいね」

「あっうん……あっうん。はい」

 小声で囁かれる言葉。

「パトリシア……俺と過ごした日々を……逢瀬を忘れてしまったのか……。パトリシア‼ あんなに‼ あんなに睦み合ったじゃないか‼」

「……だいぶ酔っていますね」

「そうみたいだね」

「買い物で良くご一緒になったのですが……それでしょうか?」

「どうだろ?」

 ボクに囁かれても答えられないよ……。妻の服の裾を握ってしまうボクは卑怯者だ。

「もしかしたら奥さんとの記憶を重ねているのかもしれませんね……」

 そんなボクを気遣うように妻は身を寄せて――蕩けるような表情でボクの指に指を滑り込ませてきた。

「あーフラッシュバック的なね」

「……ロズンさん‼ 帰って下さい‼ ちゃんと帰って下さいね‼」

 顔をあげて門へと声を投げる妻の顔は勇ましかった。

「パトリシア‼ 旦那と一緒なのか‼ 俺より旦那がいいのか‼ 開けろ‼ 開けろ‼ この五年間一緒だったじゃないか‼ 苦楽を共にしたじゃないか‼」

 妻は結局外門を開かなかった。


 ロズンさんをこのまま放置して良いのか、家に入れてあげた方が良いのではないのか。そうは考えたけれど、妻を尊重するしかなかった。

 手を掴まれて家の中へと連れてゆかれる。

「あの。勘違いしないで下さいね」

「大丈夫だよ。もし君が、例えそうであっとしてもボクは……十年は長いもの。周りの人達だってそうだった」

 ボクの返事が気にいらなかったのか、掴む指に力が込められるのを感じる。痛いぐらい。

「私だって‼ 私だってその手のジンクスは知っています‼ 戦場で出会った同僚とそのような関係になって帰って来なかった夫の話とか。帰って来た夫が恋人を連れて来て追い出されたとか……娼婦と子連れで帰って来たとか‼ 私は……私はそれは許せません……」

「ごめん……」

「私は十年間ずっとあなたを待っていました‼ だからそれは許せません‼」

「はひ……」

 十年間粛々と貞淑に待っていたのなら、妻のその発言も許されると感じる。

「だけどそれよりも‼ 生きて帰って来てくれるのをずっと待っていました……生きて帰って来てくれるだけでよかった‼ あなたはちゃんと帰って来ました‼ 私の元に……」

 胸に埋もれてくる彼女をただただ甘やかすしかなかった。

 体温を交えたのも、ボクが生きて帰って来た事実をしっかりと認識したかったからなのかもしれない。

「あなたは笑いながら戦場の話をしていました……私にはとても笑えるようなお話ではありませんでした。あなたが心配なのです……もう何処にも行かないで下さい」

 見上げ、今度はボクが妻の腕の中へと包まれていた。

 いい話なんだけど外でロズンさんがドンドン扉を叩いているからシュール過ぎる。

「どうして怒ったり……疑ったりしないのですか? あなたからはその素振りが見えません……不安になります。私はどうでもいい存在ですか?」

「……それは違うよ。帰るまでは不安だったし、庭先の二人を見たらきつきつのきつだったよ。ジンクスが脳裏を過ったし、ロズンさんのさっきの言葉も疑ってしまう」

 でもボクにはそれを言う資格がそもそもない。

 寂しいけれど、妻が望むのなら離縁にも慰謝料にも応じる。何でもしてあげる。それが今ボクにできる事だから。

「……ごめんなさい。ガーデニングを手伝いたいと言うので……。誓って家には入れていません」

 パトリシアの髪を撫でる。

「ボクは十年間、君を放置してきた。だから……」

「そんな事はありません‼ あなたは国のために命を賭けてきました‼ あなたは私に十年間毎月信じられないぐらいの額を仕送りしてくれました‼ 十年前を覚えていますか? 私は恥ずかしくて……全然優しくなくて、見送りも……ちゃんとしませんでした。ずっと後悔していたんです。全然子供だった。皆が貧困にあえぐ中、あなたの仕送りのおかげで両親ともども健在に過ごせました……。それなのに私は……あなたが戦場でどんな目に合っていたのかも考えていませんでした……」

「そんな大した事じゃないよ」

「そんな事ない‼ そんな事はないのです……。そんな事はないのですよ……。あなたは心が……。だから私はあなたにこの身も心も捧げてあげたい……」

「もしボクが今日帰って来なかったのなら……」

「……私は仕送りが続いている間は待つつもりでした。ロズンさんにも悪い事をしたとは思います。ちゃんと言えば良かった。彼は奥さんを亡くした身ですから……お互い寂しさはあったと思います。結果的に良くありませんでしたけれど……あなたにも勘違いさせてしまってごめんなさい」

「いいよ……」

 そんなの。

「でも誓ってそのような関係はありません。一度でも誤れば二度目は無いと考えていました。教会の方に真眼を使って頂いても構いません」

 嘘を見抜く真実の目――自分からそれを申し出るのはある意味強い一手だ。信じているから受けなくてもいいよって話にもなるから。

 耳が痛いよ。

「男女の友情は……成立しないのかもしれませんね」

 そんな事はないよ。ボクは同僚の陽キャギャルとは良い友達だったし。良い距離間と節度が大事なのだと感じる。感じるだけだぞ。


 ロズンさんには申し訳ないけれど、妻を……パトリシアを譲れそうにはない。譲るなんて言葉はおこがましいけれど。

 やがて音が無くなり――ロズンさんには申し訳ないけれど……。それは妻に対してよろしくはないから。ボクは妻に、パトリシアには何も言えない。妻の望む通りにするしかない。何も言えない。

 妻がロズンさんと一緒になりたいとそう願ったのであればボクはそれを受け入れる。でもそうでないのならボクには何も言えない。


 抱きかかえ――寝室へと向かいベッドへと横たえた。

 少しずつ少しず重なり合う体温。強張る手――小刻みに震え僅かに背けた顔。受け止められて包まれて。両手を差し出され深く求め求められて沈み込んでゆく。確かめるかのような口付けが答えのように重なって。指も甲も平も腕にも重ねずにはいられなかった。

 夜の水面。漣。妙に熱くて――浮かされる。

 目覚めると――優しい笑みで頬や髪を撫でられて息が深くなるばかり。視線が絡むとおでこに寄せられるその唇。心地良さに耐え切れず悶えてしまう。

「私……今、幸せです……」

 擦れた声。何度も唇が寄せられて。

 その滑らかで女神の如き曲線――。

「ふふふっ」

 触れられて痺れ何もできない。唇を寄せられ痺れ何もできない。離れたくないとただ指を背中へと這わせ。そんなボクを妻は嬉しそうに眺めていた。

「離れたくない……」

「ずっと一緒です。ずっと……」

 頬を撫でる視線と口付け。唸り声が漏れそうになり耐えるしかない。


 午後からは妻が買い物に行きたいと言うので付き添った。ねむねむのねむだけれど仕方がない。温もりが離れるの嫌。視界からいなくなるのが嫌。それを無理やり抑えつける。

 彼女は奥から荷台を持ち出してきたが、ボクがいればその必要はない。

 異次元付きコートがあるーよ。上司よ。性格は最悪だったけれどコートだけは最高だーよ。

「準備できた?」

「本当に荷台はいらないのですか?」

「だいじょぶだいじょうぶ」

「では準備完了です」

「じゃあ飛ぶね。インビジブルジャーンプ」

 自分で説明しよう。インビジブルジャンプとは目的地へとワープする魔術である。一瞬で街の駅へとやってきた。着地――一度行った場所なら大体飛べるのだ。やったぜ。

 デメリットはある。味気ない。とても味気ないのだ。ただそれだけ。

「うわっ。ここ……駅? すごい」

「すごいでしょー」

 スキップを踏む妻は振り返り微笑んだ。

 秋のような街の中で、妻だけが春のようで眩しい。

「早く。買い物を済ませて帰りましょう」

「はーい」

 妻は食料品を中心に随分と買い込み始める。それらをボクはポケットへと一つ一つ仕舞い込んでいった。今はマジックバッグなんてそんな珍しい物でもない。


 戦争は終わったので、持ち帰った兵士達から巡り巡り値段も暴落するだろう。支払いを済ませる。お金だけは沢山あるのだ。

「良いんですか? 支払いまで……」

「夫婦だからね」

「……夫婦でもお財布は別々です。こう見えて回復魔術を覚えたので教会で治癒のお手伝いをしてお金を稼いでいるのですよ? 魔術書を買うのにあなたのお金を使ったのは……許して欲しいですけど。後でお返しします」

 すごすごのすごやんね。

「でもボクも食べていいんでしょ?」

「それはもちろん」

「じゃあ共有でいいと思うよ」

「いいのですか?」

 妻の指を唇へと這わせてしまう。

 触れていたくて手をとってしまう。頬へと摺り寄せてしまう。視線を絡めてしまう。妻の表情は、とてもとろんとしていた。

「……わかりましました。その代わり料理は私が作ります。から……うふふっ」

 ましましましまし。

「うん」

「私の旦那様……」

 ボクは奥様って呼べばいいのかな。

「……それにしても随分と買い込むんだね。下着に……トイレペーパー?」

 なんかちょっとすごい下着が多い気がするようなしないような。

「だから荷車だったのですよ?」

「そうなんだ」

 街まで少し遠いから通う頻度を下げるために荷車を使っていたのかな。 

「こんな所でしょうか」

「ほいほい」

「あなたのおかげでこれからは買い物が楽になりそうですね」

「便利に使ってくれたまえ」

「変な言い方して……。では帰りましょう」

「他に用はないの? 実家には寄る?」

「いいえ。今は大丈夫ですっ」

 ではインビジブルジャンプ。お家の前へと降り立つ。

「本当にとっても便利ですね」

「そうでしょう。そうでしょう。でもデメリットもあるんだ」

「そうなのですか?」

「味気ないんだ」

「うふふっ。そうですね。旅行の時は控えましょうか」

 門を開き――妻が奥から取り出して来たのは不在用の札。

「何に使うの?」

「……門に掛けるのですよ?」

「えー?」

 ゆっくりと門が閉じられる。鍵ではなく、しっかりと掛けられた閂の栓。持っていたはずの不在の札が彼女の手の中にはなかった。


 妻がこちらへと振り返り微笑んでいる。

「これで……しばらくは……二人っきり……ですね」

「え?」

「……いいですよね?」

(あっ。あー……あー。あー……。あぁ? うんうん。あ?)

「誰にも邪魔されたくありません……しばらくは、私だけのあなたです……」

(あっはい)

「それに……あなたから他の女のニオイがするんです……」

「へ?」

「私にはそれは許せません……」

(あっはい)

「私のニオイが沁みつくまでは……離しません」

 手を伸ばして彼女を抱き締めていた。ごめんね。

「あなたを……私に夢中にして見せますから……」

 好きにしていいし、何してもいいよ……。


 一週間後――ボクは彼女にトロトロにされていた。

 あれからロズンさんは妻に酒乱を謝罪し、その上で改めて告白をしたけれど断られていた。それで一悶着はあった。妻との関係性で匂わせもあったし、でも妻は教会へと申し出て真眼を使い一掃してしまった。お前さへ帰って来なければとその口から出た台詞も妻のビンタで一蹴されてしまっていた。

 何時の間にかロズンさんは引っ越してしまい――妻はそれに対して何も語らなかった。ボクを優先するのであればロズンさんには冷たくするしかなかったのかもしれない。妻には謝罪された。妻もロズンさんも本来は拗れるような人達じゃないのはわかっている。どうやらボクはここにいても良さそうで、そして妻が献身的で嬉しかった。

「また買い込むんだね」

「ダメですか?」

「いいけど……」

「帰ったら……またトロトロにしてあげますからね」

 ふへ。

「……改めておかえりなさい。あなた」

「……ただいま」

「ふふっ。愛しておりますよ」

「ボクも……」

 直視できないよ。

「そこはちゃんと言って下さい」

「あっ愛し……愛しています」

「パトリシア……」

「へ?」

「パトリシア‼」

「あっ愛しております。パトリシア」

「よろしい」

 待っていてくれただけで嬉しいだなんて、どうかしている。それでも。それでも。それでも良いだなんて。

「あの……あのね?」

「はい……」

「好き……あの……あのね……。好き……だから。その」

「はい……」

「何しても、その……いいから。ボクには……何しても……いい……から」

「はい……。あなたを愛しています。あなたをお慕い申しております。もう離しません。離れません」

「どうぞ……」

 都合がいいのはわかっている。もう一人のパトリシアを忘れたわけでもない。ボクにはもう、どうしようもない。差し出せるものは全て差し出して妻の答えに従うしかない。それ以外ボクには何もできないから。

「他の女性の事を考えていませんか?」

「え? ……えーとっ」

「今日は、ずっと……チューしていましょうね」

「えーとっ……」

「ね?」

「……どうぞ」

「はい」

「あの……。パトリシア」

「はい」

「好き……」

「はい。結婚しましょう」

「今日は、ずっと、チューしていい?」

「それは‼ ……それは、つまり、私と、結婚すると言うことで、よろしいか?」

「そうだけど」

「はい。結婚しましょう。今日も結婚です」

 繰り返す頬擦りと口付け。彼女のニオイ。首元へと押し付けて擦り付けてしまう唇。彼女のニオイ。握り込む指の圧。彼女の唇。肌と肌の間でたわむ汗。ポタポタと胸の上に垂れる唾液。視線までもが交り合い睦み合わずにはいられない。

 痛みが消えたわけじゃない。何時も心の中で土下座をしている。悪魔に魂を売り渡す覚悟はあるの。きっと許しては貰えないけれど。言い訳はしない。もう一人のパトリシアが確かにボクの中にいる。それを消し去る事はできない。戦友も……。彼女達も戦友も愛している。

「何をしてもいいから。その……ボクには何をしてもいいから」

 でも妻は貴女と……一人だけ。

 そう告げるたびに妻の表情は蕩けるように解れ頬を緩ませて。

 触れ合い重なる指輪。ニオイまでもが交わってゆく――。

 蕩けているのはボクの方なのかもしれない。

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