1.『誰かの声が届いた日/誰かに声を発した日』
『ソレ』が目覚めたのは、真っ白な空間の中だった。
――アレ、私は死んだ筈じゃなかったっけ――
上も下もない、ただ漠然と広い、と感じる空間の中に、意識だけが残っていた。
自分の枯れ細った肉体があるかもわからない。感触もなければ実感もない。
ただ、意識だけは確かに残っており、死ぬ前とは違って思考も正常であった。
――おかしいなあ、もう絶対に死んだって思ったのに、なんで自分はまだ生きているんだろう――
そこまで考えて、ふと疑問が浮かんだ。
――生きてるってなんだろう。今の私、生きてるの? 腕も足も感触は無くて、考えることしか出来ないのに――
肉体はない。それでも『自分は自分である』と意識だけは残っている。
――まるで、魂だけが残ってるみたい――
そう思い至って、無いはずの背筋が凍るように寒気を覚えた。
思考だけではなくて、感覚も残っている。それが、『生きている』と確信させる材料になった。
――私は何だろう。何のために、まだ『生きている』んだろう――
言葉は口に出せたかもわからない。目の前に広がる白い空間は、ただ沈黙で応えるだけだった。
◆◆◆
ただ、時間だけが流れた。
ただ、思考だけをして『ソレ』は過ごした。
最初に考えたのは自分の事。
とは言っても、殆ど何も覚えていない。
両親がどんな人だったのか、どこで生まれて、どうやって生きて来たのか。とっくに昔に忘れてしまっていた。
たぶん、覚えておくほどの事じゃない、と、彼女は終わりにする。自分の正確な年齢すら覚えていないのだから。
忘れる程度の、思い出で、忘れた方がいいものだから。
最低限の教育だけを受けて、社会に放り出されて、そして搾取されて消えていった。
数十年前なら悲劇といわれ、最近なら何も珍しくない、『普通に不幸』な人生を生きて死んだ。本当ただそれだけ。
――ああ、本当につまらない――
そう、つまらなく、取るに足らない物であると、改めて納得してしまったのだ。
――本当に、なんで生きていたんだろう――
思い出せない。記憶する必要すらなかった甲斐のない人生。
それだと言うのに、最後まで生きていたのは何だろう。
その疑問をぶつけようにも、相手もいない。
自分で答えを出そうにも、出せるだけの経験は残っていない。
――誰か、いませんか――
だから、はじめて『誰か』に問いかけた。
その問いかけが声になったのかは分からない。もしかしたら、意味のない行為だったのかもしれない。
だけれども、はじめて明確に外に向けて何かを投げかけた。
それは、波紋になって真っ白な空間に広がっていく。
時間にしてそれは数秒。
波が届いた。
『誰か、助けて――』
それは、声の形をしていた。
誰かの懇願する声。必死に、誰かに助けを求めている。
『――助け――て、この子、のこと、を』
途切れ途切れの波は、白い空間に飲み込まれていく。一瞬だけ波紋となって世界に広がって、すぐに消えていく小さな現象。
だけれども、少女には届いていた。
――誰かが、よんでる。
――ねえ、何をいってるの?
声は形にならなくて、ただ広がっていくだけ。それでも呼びかけることは止めない。
――分からない……分からない、「けど」
そこで、意思がようやく形になった。
失われていた筈の声が再び魂に結び付くと、確かな力を持って世界に呼びかける。
「あなたが必死なのは、分かるよ」
声を確かに、意思を確かに。自分の感情を乗せて言葉を送る。
「よく分からないけど、私に出来ることがあるなら教えてほしい。
もし、最期に聞く言葉があなたの泣き声だとしたら」
その言葉に、優しさが乗っていることに、少女は気が付かない。
あまりにも自然で、当たり前のように口にする。
「それは、嫌だから」
その瞬間、世界が開けた。
真っ白な空間が確かな輪郭を帯びていく中、少女の視界に僅かに『誰か』の顔がうつる。
それは、満足気に微笑むと、消えていく。
――よかった、あなたには資格がある。
次の人生は、幸せにね――
その言葉は届かない。
けれど、少女の背中を押していた。