プロローグ.『死/生』
『ソレ』は、ゴミにしか見えなかった。
二十三世紀、東京。夜。
地上から噴きあがる光は夜空の星を消し、人々は不夜の街を歩く。
夜すら支配した人間の繁栄。
休息の時を放棄し、命を浪費する退廃。
正と負が混ざり合う混沌の都。その片隅、繁華街のビルの谷間に、『ソレ』が居た。
ソレが、『痛い』を忘れたのはいつだろう。
ソレが、『苦しい』を忘れたのはいつだろう。
心に泥を詰めて動かないようにして、苦しいことも嬉しいことも忘れ、機械のようになったのは、いつだったろう。
味のしない食料≪えいよう≫と、最低限の水だけを補給して、単純なことだけを繰り返して生きていく。
そうやって、壊れるまで生きてきた――壊れかけた女が居た。
――やだ、この子生きてるの?――
――放っとけよ、今時、珍しいものじゃないだろう――
雑踏に混じって誰かの声が聞こえてくる。他人事で、哀れみすらもない言葉が意味もなく投げつけられる。
少女の顔が僅かに動く。ゆっくりと目を開く。濁った瞳に虚飾の街がうつる。
「……あ……あ」
少女の口から漏れたのは、言葉にならないか細い息。
もう、言葉をハッキリと形にするだけの体力も残っていない。
僅かに身をよじる。立ち上がる事すら出来ずに崩れ落ちると、冷たい地面が体をうった。
雑踏から笑い声が聞こえてくる。それは少女を嗤うものではない。貧民なんて『そんな当たり前』のものに感情を向ける人は居ない。
栄華に溺れる人。日々の糧にすら困窮し、朽ちていく人。その両方が、隣り合わせに存在する。この時代には、なんら珍しくないのだから。
政治の混乱によって貧富の格差が拡大した日本。富める人はどこまでも富み、彼女のように負けた人間は、使い潰されて野垂れ死ぬ。
繰り返すが、それは当たり前で、見下ろす人たちも当然のように受け入れている。
少女は動かない。とっくに限界を迎えた体と心は痛みも苦しみも感じない。ただ機能が落ちていくのを感じるだけ。
口を開いても声が出ない。
手を持ち上げようとしても、動かない。
目も霞んでいく。
ただ漠然と、終わりが近づいているのだけを理解していた
。
どうしてこうなったんだろう――記憶はとっくの昔に擦り切れて、走馬灯も浮かんでこない。
どうしてこうなったんだろう――誰かの責任だと外に向ける怒りも、とっくに消え失せた。
どうしてこうなったんだろう――
「どうして、私は生まれたんだろう」
誰にも聞こえない枯れ果てた声を最期に、一つの命が散った。
『はあ……困るのよねえ。本当に』
だから、この言葉は彼女には聞こえていない。
それどころか、周囲の人々にも聞こえていないし、声の主は見えない。
仮に見えていたら、『女神』のようだと評しただろう。
『本来は望まれて生まれ、後悔なく生を全うして消えていく。
そうやって正にして聖なる生の循環がないと、世界は恨みで朽ちてしまう。
普通に生きて、普通に死んでいく。そんな当たり前のことが、なんで『人間』には出来ないのかしら』
ため息交じりの言葉にはどうしようもない諦観が混ざっている。
『でもね、それでもね――』
それでも、と、その言葉には希望があった。
物を知らない子供に諭す母のように、希望を乗せて光があつまる。
『もしあなたが、まだ諦めていないなら――
――誰かの声に応えることが出来るのなら――』
朽ちた肉体から、『何か』が抜けていった。
その正体は人には見えない。だが、声の主には見える。
両手で優しく包み込むと、優しく胸に寄せ。抱きしめる。
『これは、願い、だよ』
その声は、朽ちた筈の少女に届いた。
『報われない人生を歩んだ生命が、不幸なままに終わってしまう。それは許されない。
全ての命は幸せになるために生まれてきたのだから。幸せになるまで死んではならない。
その勝手なエゴが転生――だから、ここから先はあなた次第』
夜の闇に願いは溶けていく。
同じように、少女だった何かも、消えていった。
後に残されたのは縁者のない亡骸。
だけどそれは、ここから先には関係のない話。