俺は、戦わなかっただけだ
ハイネセンはくるりと踵を返し、重々しく椅子に腰を下ろした。指を組み直し、静かに笑う。
「さて……君がこれほどまでに“無力”であることが分かったところで」
ブラスは口元をぬぐいながら、じりじりと立ち上がる。
「……何が言いたい」
ハイネセンは机の上の文書に目を落としながら、まるで雑談でも始めるような口調で続けた。
「最後に、もう一つだけ教えてやろうと思ってね」
「……君と同じレギスにいた副団長。えーと……名前はなんだったかな。いかんね、歳を取ると記憶が曖昧で」
そう言って、ハイネセンは心底愉快そうに笑った。作られた笑みではない。純粋な快楽として、誰かを貶める瞬間を楽しんでいた。
「彼がなぜ、急にロフタの町で融資を受けなくてはいけなくなったのか……そして、なぜ死んだのか」
「君がロフタの町の“最高機密”に、いとも簡単に辿り着けたのは……どうしてだと思う?」
ブラスの背中を、冷たい汗が流れ落ちた。
「まさか……」
「気づくのが遅いね、ブラス君」
ハイネセンの笑みが、形を変える。冷たく、鋭く、獣のそれに近い。
「君をヴェルシュトラから追放するのは、簡単だったよ」
「仲間を潰し、君に口外禁止のスキルをかけて“何もできない”と思わせる。それだけで、君は動けなくなる」
ブラスの指先が震えはじめる。唇が青ざめ、言葉が出てこない。
「最初のうちは、何も言えないなりに健気に頑張っていたねぇ……」
「でも、どんどんと表情が曇っていって。絶望に染まっていく君の姿は——実に、実に微笑ましかったよ」
「自分で何かを変えられると思い込んでいた君が、一つずつ砕かれていく様子はね、まるで……壊れかけた人形が、それでも踊ろうとするようで」
「哀れで、美しかった」
ブラスの呼吸が浅くなる。指が、拳が、歯が鳴る。
「ヴェルシュトラを捨てたんじゃない。君は、ただ……諦めただけだ」
「君は負け犬だよ、ブラス君」
「まぁ、革命でも頑張ってくれたまえ」
その声は、すでに会話ではなかった。
地に這いつくばった者を、さらに靴で踏みつける者の、それだった。
沈黙が落ちた執務室に、突如として破裂するような声が響いた。
「スレインだよ!!!」
ハイネセンの眉がぴくりと動く。
「……は?」
「レギス副団長、スレインだ。てめぇが踏み躙った、最高の戦士の名だ!!!」
ブラスが吠えるように叫ぶと同時に、魔力がその身から噴き上がる。
床が震え、窓ガラスが微かに軋む。抑え込まれていた怒りと屈辱が、一気に爆発していた。
彼の目は燃えていた。激情と、仲間への想いに支えられた純粋な怒りが、全身を駆け巡っていた。
「……お前は、ただ息してるだけで周りを腐らせる。俺の仲間も、街も、全部な……」
「——今ここで終わらせてやるよッッ!! この手でなああああ!!」
ブラスが魔力を練り、今にもスキルを発動しようと構えたその瞬間——
「おやおや、ここをどこだと思っているんだね?」
ハイネセンが冷ややかに言い、手を振る。
「取り押さえろ」
ヴェルシュトラの兵士たちが四方から飛び出し、次々とスキルを展開する。
「《鎖縛陣》!」
「《影縫い》!」
「《地縛紋》!」
足元に魔法陣が浮かび、影がブラスの影を縫いとめ、無数の鎖がその四肢を縛る。
だが——
「うおおおおおおおおッ!!!」
ブラスの筋肉が爆ぜるように膨張し、鎖がひび割れ、魔法陣が軋み、影が押し返される。
ひとつ、またひとつとスキルの拘束が力で引きちぎられ、ブラスがハイネセンに向かって一歩、また一歩と迫る。
ハイネセンの顔から笑みが引き、代わりに薄い焦燥の色が浮かんだ。
「なっ何をしている、もういい!!こいつを始末しろッ!!」
ハイネセンが怒鳴る。
ブラスはなおも拘束をちぎり、凄まじい勢いでハイネセンに迫る。
だが——
シュルッ、と何かが空気を切り裂いた。
次の瞬間、何かがブラスの身体に巻きついた。
捕縛糸。だがその糸は、通常のものではない、鋼線のように編み込まれた“捕縛綱”が、ブラスの暴走を寸断する。
鋼のような硬度としなやかさを併せ持ち、ブラスの身体をギリギリと締め上げる。
「ッ……なっ……この糸……!」
暴れる腕に巻きついたそれは、金属でも革でもないのに、一切たわまず、反発し、制御する。
「てめぇ……キールか……!!」
ブラスが吠えるように声を上げたとき——
「悪いな、ブラス」
背後から声と同時に、太い腕が伸び、がっちりと上半身を羽交い締めにする。
バルトだった。
「……なっ、バルト!? お前まで……!」
キールが、影の中からゆっくりと歩み出る。
「こうなるかと思って同行してもらいました……」
部屋の片隅、冷静な表情で立っていたキールが、息を飲みながらも毅然と答える。
「落ち着いてください……あなたが今ここで動けば、もう収集がつかない」
怒りのままに叫ぶブラス。
「離せ!! キール!!! バルトッ!!!」
ハイネセンはゆっくりと姿勢を整え、再び狡猾な笑みを浮かべる。
「お疲れ様、キール君」
その一言に、キールは冷ややかな怒りを湛えた目で睨みつけた。
「……バルトさん、ブラスを運ぶのを手伝ってください」
抑え込まれたブラスは、なおももがきながら、ハイネセンを睨みつけていた。
「この野郎……絶対に……!」
二人に挟まれたブラスは、ヴェルシュトラ本部の裏口から裏路地へと連れ出されていた。
月明かりすら届かない路地裏。石畳の上に足音だけが響く。
ブラスはうつむいたまま、引きずられるように歩く。
だが、耳の奥には、さっきの言葉が焼き付いたままだった。
——ヴェルシュトラを捨てたんじゃない、諦めただけだ、君は負け犬だよ
ハイネセンの声が、まるで耳の奥に染みついたように響いている。
(……俺は、本当に負け犬なのか……?)
仲間を守るために来たはずだった。
革命を止めるつもりだった。
だが、ハイネセンはそれすらも逆手に取っていた。
革命を「利用」して、反体制の人々をまとめて粛清するための計画だった。
そして何より、ブラス自身——
「……俺は、何もできなかった」
「ヴェルシュトラを、何も変えられなかった」
「結局、俺は負け続けるだけの存在なのか……?」
「だからせめて今を楽しむ、そう決めた……それは逃げだったのか?」
自問自答が渦を巻く中、ある真実が心の底から浮かび上がる。
(……いや、違う)
「戦っても何も変わらない」——そう思っていた。
口外禁止のスキルに縛られて、どうせ無駄だと。
だがそれは、本当に「戦っても無駄」だったのか?
(違う……違うんだ)
「——俺は、“戦わなかっただけ”だった」
そのとき、心に火が灯った。
裏路地まで運ばれたブラスは、静かに拳を握りしめた。
「……やはり、お前は黙っているタマじゃなかったな」
バルトが呆れたように、しかしどこか嬉しそうに言う。
「やっとわかったぜ……」
「俺は、戦うことからもう逃げねぇ」
キールが一歩前に出て、真剣な目で語りかける。
「落ち着いてください、ブラス。さっきの話、聞いてたでしょう? 革命なんて起こしたら、あなた——死にますよ!」
だがブラスは、ふっと肩の力を抜き、にやりと笑った。
「俺は普段の行いが良いからなぁ。女神様のキスで生き返って、墓から這い出してでも酒は飲みにいくぜ」
「冗談言ってる場合じゃありません! あなただけじゃない。革命に参加した民衆も、皆殺しになるんですよ!」
その言葉に、ブラスの目が鋭くなる。
「——だれも殺させねぇよ」
バルトが静かに口を開く。
「ブラス。お前が革命を起こせば……俺たちレギスとも戦うってことだ。その意味、わかってるんだよな?」
ブラスは一瞬だけ真顔になったが、次の瞬間、口元に笑みが浮かぶ。
「模擬戦じゃ128勝80敗で、俺の勝ち越しだぜ、バルト」
「面白いこと言うな。実戦じゃ、前に出過ぎて何度も助けてやったの忘れたのか?」
バルトはニヤリと笑ってみせたが、目の奥ではすでに覚悟を察していた。
——もうブラスは止まらない。
ならば、自分はどう動くか。
その答えを探すために、とりあえず皮肉で返しただけだった。
キールが割って入る。
「ブラス、合理的に考えて不可能です。誰も死なずに革命を成功させるなんて——」
だがブラスは、すでに歩き出していた。足取りはまっすぐに、迷いなく。
革命軍の拠点へと向かう背に、バルトは静かに歩き出す。
「俺はヴェルシュトラに戻る」
キールが焦って声を上げた。
「待ってください、ブラス!」
ブラスは振り返らなかった。
ただ、その背中が、すべての覚悟を物語っていた。




