何者でもない者にされた夜
静寂に包まれた石造りの廊下。
ギルド長の背が角の向こうへと消えたあとも、ハイネセンはその場から動こうとはしなかった。
重厚な扉の前にひとり残され、彼はゆっくりと振り返る。
ワインの残りを口に含み、舌の上で転がすように味わう。
「さて……表はこれで幕引き、だねぇ」
彼は小さく鼻で笑うと、廊下の奥──何の変哲もない壁の前で、軽く指を鳴らした。
次の瞬間、空気が揺れる。
音も足音もなく、そこにひとりの男が現れる。
黒ずくめの軽装。ヴェルシュトラの職員章を胸に下げながらも、その目は冷たく研ぎ澄まされていた。
彼は、ハイネセンの“影”。
日常では事務官を装い、命じられれば即座に裏仕事を遂行する、忠実な私兵だった。
ハイネセンは、愉快げに目を細める。
「ノインくんに、変な“正義感”でも芽生えられると厄介でねぇ……」
ワインのグラスを傾け、床に一滴こぼれるのも気にせず続ける。
「念のため、略奪スキルで彼の“持ち札”を全部回収しておいてくれないかな? あれでも元・中堅の冒険者だったし……万が一があっては困る」
「……かしこまりました」
影の男は一礼すると、音もなくその場から姿を消した。
まるで、最初からそこにいなかったかのように。
ハイネセンはグラスの底を見つめながら、小さく口元を歪めた。
「捨て駒には捨て駒の最期ってものがある……そうだろう、ノインくん?」
廊下を渡る風が、その言葉をさらっていった。
そしてハイネセンは、何事もなかったかのように、飄々とその場を去った。
誰も見ていない場所で笑いながら、次の“手”を静かに動かし始めていた。
深夜の石畳は、湿った風に照らされて冷たく輝いていた。
ノインは、その道を一人、ふらつくように歩いていた。
足取りは重く、視線は虚空を彷徨っている。
何度も整えようとする呼吸は、浅く、弱い。
(どうする……これから……)
娘の顔が、ふと脳裏に浮かぶ。
無邪気に笑うあの瞳。アカデミアへの憧れを語っていた声。
それを叶えるために、どれだけ歯を食いしばってきたか――
だが今、手の中には何も残っていない。
(……いや)
ほんのわずかに、揺れが生まれる。
(まだ……やれることはある。年は食ったが、スキルは残ってる。昔みたいにはいかなくても……)
スラム街の警備仕事でもいい。肉体労働でも。
娘に贅沢はさせられなくても、食わせてやることくらいは――
(それだけでも、十分だろ……なあ……?)
そんな“希望”のようなものにすがる自分を、どこかで冷めた目で見ていた。
だが、それでも――信じたかった。
同時に、別の光景が胸を刺す。
専売契約によって仕事を失った、あの知人たちの顔。
子どもを抱いていた妻の姿。抗議すらできなかった無力な者たち。
「……自業自得、か」
呟いたその瞬間だった。
「っ……!?」
背後から、鋼のような腕が襲いかかる。
地面へ叩きつけられ、背筋に激痛が走った。
「なんだ……!? お前は!」
視界の端に、大柄な影が揺れていた。
仮面をつけたその男の声は、妙に淡々としていた。
「……ハイネセン、かっ!」
ノインが歯を食いしばった瞬間、腕に、胸に、体中に――冷たい感覚が走り力が抜けていく。
「やめろ……やめてくれ!」
背中を押さえつけられたまま、ノインは必死に叫ぶ。
「俺には家族がいるんだ! 娘のために、スキルがいる……! あれがなきゃ……!」
だが、応答はなかった。
代わりに、ひとつ、またひとつと、自身から“何か”が抜けていく感覚だけが、確かにあった。
冷たい汗が背筋を這う。
「せめて……一つだけでも……! 頼む……!」
その叫びを、嗤うように遮った声があった。
「——安心したまえ、ノイン君」
暗がりの中から姿を現したのは、変わらぬ笑みを貼りつけたハイネセンだった。
「君のスキルは、私が“有効活用”してやるよ。何も心配はいらない」
「やめろ……頼む……っ」
ハイネセンは歩み寄り、しゃがみ込むと、ゆっくりと耳元で囁いた。
「君はもう、“何も持たない者”になった。ただの“何者でもない者”だ」
ハイネセンは言い終えると、立ち上がりながらコートの裾を軽く払った。
その仕草には一片の余韻も、哀れみもない。ただ、薄汚れた靴を避けるように足元の地面を気にしただけだった。
「行こうか」
背後に控えていた仮面の男――“影”は黙って頷き、ノインを一瞥してから足音も立てずに踵を返す。
ハイネセンもまた、飄々とした足取りでその場を後にした。
「……ハイネセン……」
かすれた声が、吐き出される。
「貴様の番が来るのを……待ってるぞ……」
その言葉を最後に、彼は全てのスキルを剥がされ、静かに――
ノインは闇の中へと、消えていった。




