裁かれる契約、笑う影
ヴェルシュトラ本部・評議室。深夜の静寂に包まれた空間に、蝋燭の火が静かに揺れていた。重厚な円卓を囲む幹部たちの影が、壁に歪んで映る。
中央に座るのは、ヴェルシュトラギルド長その両脇には、経済部門の幹部たちが静かに並び、その視線は一人の男に向けられていた。
ノイン。その顔は強張り、指先にはじっとりと汗が滲んでいた。対面には、深紅のスーツに身を包み、余裕の笑みを浮かべたハイネセンが座っていた。
ギルド長が契約書の束に手を伸ばし、静かにページをめくる。
「……専売契約か。」
その言葉に、室内の空気が一段と冷える。
「市場を歪め、競争を排除し、一時的な利益だけを追い求めた結果……ノイン、これはどういうことだ?」
ノインの喉が鳴った。まるで判決を下される罪人のように、全ての視線が自分一人に集まっているのを感じる。
「ギルド長……私は……確かに契約に同意しましたが、これは私一人の判断ではなく……」
その言葉を遮るように、ハイネセンが穏やかに微笑みながら、口を開いた。
「ノイン君、言い訳は良くないねぇ。」
一見すると柔らかく、冗談めかした調子。しかし、その目の奥に宿るのは明らかな嗜虐の色だった。
「契約の承認印も、決裁印も、すべて君の名になっているのだろう?私はただ、市場の混乱を防ぐ手段について助言したに過ぎない。実際に“この案を正式に進めた”のは、君自身では?」
ノインは目の前の書類を見つめた。そこに記されているのは、間違いなく自分の名。だが、それはハイネセンが最初から用意していた罠だった。
(……最初から、俺を生贄にするつもりだったのか)
言いかけたその瞬間——
パン、と乾いた音が響いた。
ハイネセンが、机を手のひらで叩いたのだ。だが、その顔には相変わらず笑みが浮かんでいた。
「ないのか、ノイン君?」
そして——笑みを崩さぬまま、突然、声が爆ぜた。それは感情を一気に噴き上げさせたような激昂だった。
「証拠もないのに私に責任をなすりつけるとは……まったくもって恥ずべき行為だ! ひどく、私の尊厳を傷つける行為ですぞ! ギルド長ッ!!」
声が、評議室の石壁に反響する。
一瞬、全員が息を呑んだ。
その怒号は異様なほど滑らかで、どこか作為を感じさせた。だが、それを咎める空気はなかった。まるで空気そのものが支配されたかのように、誰もが沈黙を強いられていた。
ノインは絶句したまま、立ち尽くしていた。
ギルド長が、重々しい仕草で契約書を閉じ、冷ややかな声を発する。
「……この専売契約は破棄する。市場を破壊する行為は許されない。」
ノインはその言葉の意味を理解した瞬間、肩が小さく揺れた。
「ノイン……貴様はヴェルシュトラの理念に反した。貴様に、この組織にいる資格はない。」
ノインは崩れ落ちながらも、最後の力を振り絞ってハイネセンを睨みつけた。
だがその目には、怒りでも後悔でもなく、ただ「終わりを知った者の虚ろさ」があった。
だが、その向こうではハイネセンが満足げにワインを一口含み、唇の端を持ち上げていた。
「ギルド長、残念ですが専売契約の破棄はいささか難しいかと。」
ギルド長がゆっくりと彼に視線を向ける。
「卸業者と最低三年は専売を維持する契約になっていますから。」
「……チッ」
ギルド長は机の上の契約書を指先で軽く弾いた。その小さな音に、誰もが沈黙した。
ノインは最後に、ハイネセンを睨みつけるように見たが、もはや何もできなかった。
そのまま、無言で部屋を出るよう促され、重い扉が静かに閉じられた。
ヴェルシュトラ本部の廊下は、夜の帳が落ちた今もなお、どこか張り詰めた静けさを纏っていた。天井に吊られた魔光灯が淡く揺れ、磨き上げられた石床にぼんやりと反射している。
深夜の評議会を終え、ギルド長はゆっくりとした足取りで歩いていた。重い足音一つ立てず、ただ静かに廊下を進んでいく。その背後から、軽やかで、まるで舞うような足取りが追いかけてきた。
「いやはや、相変わらずお見事な裁定でしたねぇ」
朗らかな声が後方から響く。声の主は、ハイネセンだった。口元には常のように微笑を浮かべ、その足取りには一切の疲れが見えない。
「ギルド長の判断には、つくづく感服します。まったく、あのノイン君の狼狽ぶりときたら……まぁ、見応えはありましたよ」
ギルド長は立ち止まった。しかし振り返らない。ただ、静かに息を吐いた。その吐息には、長年積み上げてきたものが、どこか目に見えぬ重さを伴っていた。
「……貴様の影は、どこまで広がっているのか」
低く、押し殺すような声だった。廊下に響いたその言葉には、冷ややかな怒気がわずかに混じっていた。
だが、ハイネセンは動じない。むしろ、心から楽しげに笑みを深めた。
「さて、どうでしょうねぇ?」
満面の笑顔の奥で、血のような赤い瞳孔が、静かに笑っていた。
この世界の矛盾と弱さを、すべて玩具にして弄ぶような──
そんな、無垢な悪意の輝きだった。
「私が動いたわけではなく、ノイン君が独断でやったことですから。すべて、記録にも印にも、そう書かれておりましたしね」
ギルド長は振り返らなかった。ただ、その視線だけがわずかに動き、後ろの男を一瞥する。その瞳は、鋼よりも冷たく、凍てついた湖面のようだった。
「……貴様のやり口は、綻びのない布に見えて、すでに端に火が点いている」
その言葉は、呪いのようでもあり、静かな確信のようでもあった。
だがハイネセンは、肩を軽くすくめると、まるで子供がいたずらの後に笑ってごまかすように、あっさりと言葉を返した。
「それはどうでしょう?」
アイノールは、それ以上言葉を発することなく、ゆっくりと歩みを再開した。
黒く重いマントの裾が床をかすめ、静かな足音だけが廊下に響く。
ハイネセンは、ただその背中を見つめていた。
愉快そうに。
飄々と、無邪気に。
まるで、何もかもが思い通りに進んでいることに陶酔しているかのように。
「……フフ、いい背中だねぇ、ギルド長」
誰にともなく、口の端で呟いた。
「しかし、私の方が、影は深いんですよ。ずっと、ねぇ?」
音もなく笑うその姿に、夜の廊下が不気味な静寂を纏う。
そして──彼の背中が曲がり角の向こうに消えてもなお、
ハイネセンの目は、いつまでもその先を見つめていた。




