守りたい家族と、選べない現実
ヴェルシュトラ本部の廊下は、いつも通り静かだった。足音を吸い込むような絨毯の上を、ノインは報告書の束を抱えて歩いていた。行き先は、資料室。だが、その前でふと足が止まる。
——扉の向こうから、話し声が聞こえてきた。
「なあ、聞いたか? スキル販売部門の責任者、今朝クビになったらしいぜ」
男の声。無遠慮で、乾いた笑い混じりの口調だった。
「マジかよ……アイツ、結構仕事できる方だっただろ?」
「できるとか関係ねぇよ。数字が落ちりゃ、それで終わりさ」
「容赦ねぇな……」
ノインは無意識に、手元の報告書を胸元に押しつけた。
(……スキル販売部門って、先月まで黒字だったはずだ)
「“アイツの部署が次に処分される”って噂、当たってたな」
「ってことは……次は、どこだ?」
ノインの呼吸が一瞬止まる。次——。
「さぁな。素材買取部門も、最近数字がヤバいって聞いたが」
その言葉に、ノインの心臓が跳ねた。
(……俺の部門……?)
手にしていた報告書の端が、ぎゅっと潰れる。紙の束に爪が食い込むほどに握りしめていた。
(いや……まだ、何も決まったわけじゃない。憶測だ。ただの、噂話だ)
そう言い聞かせるように息を整えようとするが、扉の奥の声は追い打ちをかけるように続いた。
「最近、買取額が減ってるらしいしな」
「ああ。このままギルド長の耳に入れば、上も動くんじゃねぇの?」
「そうなったら、責任者は……」
「さあな。でも、ノインも……」
それ以上は聞かなかった。ノインは静かに踵を返し、廊下を離れた。歩幅は変えない。変えたら、何かを悟られる気がした。
だが、背中を向けたまま、耳の奥にあの言葉が染み込んでくる。会話は遠ざかっていくはずなのに、音はなぜか、心の奥でこだまのように響いていた。
(……俺が、次?)
誰にも見られていないことを確認してから、ノインは壁に手をついた。
(違う、俺は……数字を落としたわけじゃない……魔導石の台頭が予想より早かっただけだ。予測が……外れた、それだけ……)
言い訳にもならない言い訳が、脳内を駆け巡る。
だが、冷たい汗が背中を伝い、報告書を握る手が震えていた。
彼は、逃げるようにその場を去った。誰にも見つからないように、静かに、足音を忍ばせながら。
背後の扉の向こうで、まだ誰かが自分の名前を口にしている気がして、耳を塞ぎたくなる衝動を、必死にこらえながら。
夜の帳がヴェルシュトラの本部に静かに降りていた。
経済部門の一角、素材買取を任された記録室も例外ではなく、ほとんどの明かりが落とされている。そのなかで唯一灯るランプの下に、ひとりの男が黙々と机に向かっていた。
ノイン。中背で小柄な体躯に、薄く疲れの色が滲んだ顔。日報の束をめくるたびに、指先の感覚が鈍っていくような錯覚すらあった。
山積みの決済書類を前に、彼は何度目かの溜息をついた。
静まり返った空間に、不意にギィ、と扉の開く音が響く。
ノインが顔を上げる前に、すでに室内には一人の男が入り込んでいた。
「ノインくん、随分と遅くまで、ご苦労なことだねぇ」
柔らかく、しかしどこか空虚な響き。満面の笑みを浮かべながら近づいてくるのは、ヴェルシュトラ幹部、ハイネセンだった。光の反射を受けて鈍く光る指輪を弄びながら、その目には計算と好奇が滲んでいる。
「……何の用です?」
ノインは顔を戻し、再び手元の書類に視線を落とした。
ハイネセンは構わず歩み寄り、机の端に手を置くと、わざとらしく視線を上げた。
「ノインくん、最近の市場の動きを見ているかい?」
「……スキルコピーのせいで、中小ギルドの活動が活発になっています」
「その通り。特に、高ランクモンスターの素材。最近じゃ、他所のギルドにシェアを奪われているようだねぇ。つまり、君の部門の利益は……着実に削られているということだ」
ノインの目が細くなった。
「……分かっています」
「そうかな?」ハイネセンは笑みを崩さない。「君は“本当に”分かっているのかい? このままじゃ、責任を問われるのも時間の問題だ」
ノインは何も言わなかった。ただ、手を止めたまま、沈黙を保った。
その時、ハイネセンの目が机の隅にある家族写真を捉える。
「ああ、そうそう。君の家族も……大変だろう?」
ノインが顔を上げた瞬間には、すでにハイネセンが写真立てに手を伸ばしていた。
「!」
ノインが立ち上がろうとしたが、ハイネセンはすっと一歩引き、写真を手に取ったまま眺める。
「娘さん、随分と大きくなったねぇ」
指先で写真の表面をなぞりながら、言葉を紡ぐ。
「そろそろアカデミアに入る年頃じゃないか?」
「……関係ありません」
低く、震えを含んだ声。それでもハイネセンは微笑を崩さない。
「関係ない? いやいや、大いに関係あるとも。親がしっかりしていれば、子供もちゃんとした教育を受けられる。君も、そう思わないか?」
ノインは黙って写真を取り返した。ハイネセンは、まるでそれすら予定通りだったかのように、ふっと肩をすくめて笑った。
(アカデミアに入れなければ……あの子は、一生……)
(いや、そんなことはさせられない……)
ハイネセンの目が細くなった。
「“次に処分されるのは”……なんて話、聞こえてきたんじゃないか?」
ノインの拳がわずかに震える。
(……こいつ……)
「解決策はある」
「……?」
ハイネセンは鷹揚に手を広げてみせた。
「素材の卸先を、すべてヴェルシュトラが独占すればいいんだよ。単純な話さ」
ノインの目が鋭くなる。
「……そんなことをすれば、中小ギルドの冒険者たちが路頭に迷う」
「それがどうした?」
ハイネセンはあくまで穏やかな声で続けた。
「ギルド長は、そういうことを望まないはずです。ヴェルシュトラは、意志あるものへの機会の提供のために存在する」
「ハハッ、問題ないさ。他のギルドからの素材は、これからも買取を行う。ただし——魔導石を使ったものだけは、買取を拒否する」
ノインの目が見開かれた。
「……!?」
その瞬間、ハイネセンは懐から一束の書類を取り出した。
「それと、魔導石使用者のリストも……既に集めてある」
無造作に差し出された束を、ノインは手に取った。そして、その中に記された名前を目にして、凍りつく。
(……こいつら……みんな……)
ランプの灯りが、書類に記された名前をちらちらと照らしている。そこに記されたのは、魔導石使用者のリスト。中には、かつて共に酒を酌み交わした仲間の名もあった。家族を持つ者もいた。必死に生活を立て直そうとしていた者も——。
「……これは……」
「君なら分かるだろう?」
ハイネセンは一歩近づく。
「迷うのも分かる。でもね、早く手を打たないと——君の問題は、“ギルド長に伝わる”ことになる」
ノインは何も言えなかった。
沈黙のなか、ハイネセンは満足げに頷き、軽くノインの肩を叩く。
「君なら、正しい判断ができると信じているよ。家族のためにも、ね?」
その一言を最後に、ハイネセンは軽やかな足音を残し、部屋を後にした。
ノインは、ただそこに立ち尽くしていた。
握りしめた書類の端が、震えていた。
契約を拒めば、自分が切られる。
職を失い、娘をアカデミアに通わせる夢も、家族の暮らしも……すべてが崩れていく。
ギルドの薄暗い空間は、まるで逃げ場のない牢獄のように思えた。
ノインは書類に手を伸ばし、ぐしゃりと拳を握りしめる。
「……ちくしょう。」
その低い声は、誰に届くでもなく空気に沈んだ。
目を閉じる。思考の闇に沈みながら、心の奥にこびりついた絶望の言葉が、ゆっくりと浮かび上がる。
(……俺に選択肢なんて、最初からなかった……。)
その言葉を、ノインは何度も胸の内で繰り返していた。握った拳が震える。
それでも書類はそこにある。
彼の目の前で、何の感情も持たぬまま、静かに“選ばせよう”としていた。




