帰る場所は遠く
午後の陽が傾きかけた頃、キールは静かに門をくぐった。
小高い丘の上にある、木造の古びた建物。かつて自分が過ごした場所。変わらぬ佇まいに、どこか安堵するような、あるいは痛みのような感情が胸に差す。
中庭には洗濯物が干され、風に揺れていた。子供たちの姿は見えない。時間帯のせいか、建物の中もひどく静かだった。
奥の部屋に通されると、院長は机に向かって書類をまとめていた。相変わらず痩せ細っており、骨ばった手が書類の上で震えているのが見て取れた。
キールは黙って歩み寄り、小さな布袋を机の上に置いた。袋の中から、鈍い音を立てて金貨が転がる。
「これで、急場は凌げるはずです」
声はあくまで淡々としていた。礼を求める様子も、感情を交える気配もなかった。
院長は袋を見つめ、しばらく動かなかった。やがて、弱々しく顔を上げる。
「……本当に、ありがとう。でも……だけど、キール」
その言い方に、キールの目が微かに揺れる。
「なんですか?」
院長は小さく息を吸った。
「クラフト君たちの元を……離れたって聞いた。ヴェルシュトラに入ったって……。それは……私たちのためにか?」
その問いに、キールはわずかに視線を逸らした。
「……あくまで私は、“正しい”と思った道に進んだだけです」
院長は頷くように、かすかに目を伏せた。だが、それでも静かに言葉を重ねる。
「キール……クラフト君たちと……ちゃんと、話したのかい?」
一拍の間のあと、キールはわずかに笑みを浮かべた。
「えぇ。まったく話が通じませんでしたよ」
その口調は、どこか皮肉めいていた。だが、院長はその言葉を受け止めながら、ゆっくりと顔を上げた。
「……そうじゃなくてね。気持ちは伝えたのか? キール……おまえの思いを、言葉を尽くして……ちゃんと、伝えたのか?」
キールは言葉を返そうとして、ふと詰まった。
口を開いたまま、数秒だけ沈黙が流れる。
「……非合理ですよ」
ようやく絞り出した声には、かすかに滲んだ何かがあった。あれほど理路整然としていたはずの彼の言葉が、かすかに喉が詰まったような声だった。
院長はそれには触れず、ただ静かに言った。
「そうか……なんだか、少し……辛そうなんだよ、おまえが」
キールは表情を変えないまま、わずかに姿勢を正す。
「では、私はこれで」
それだけ言うと、背を向けて足早に部屋を出ていった。
その背中には、いつもの理性的な冷たさがあった。だが——どこかに、迷いの影が差しているように見えた。
院長はわずかに口を開いたが、結局何も言わなかった。
言葉よりも、想いよりも、いまの彼には静けさが必要だと感じた。
だからただ、黙ってその背中を見送った。




