導火線
ヴェルシュトラ本部。その応接室は、まるで裁かれる者を試すかのように無機質だった。
ハイネセンは椅子にもたれ、指先でグラスを弄んでいる。中身は手を付けていない。
その向かいに座るキールは、落ち着いた表情で視線を真っ直ぐに向けていた。
「キール君、1人だけで我々のスカウトを受けたいと?」
ハイネセンが、やや苛立ちを滲ませた声で切り出した。
「正直に言えば――クラフ……」
「クラフトさえ取れればいい、ということですね」
言葉を遮るように、キールが静かに言った。
「一旦クラフトを獲得するためにノクス全体を引き入れ、信頼を確保した後……クラフトは精鋭部隊のレギスにでも入れて、残りの私たちは適当に散り散りにさせるつもりだった。……違いますか?」
その声には挑発も嘲笑もなかった。ただ事実を並べているような、冷静な口調だった。
その一言に、ハイネセンの指がぴたりと止まる。
「ほぅ……分かっていて、なぜ来た?」
「合理的に判断しただけです」
淡々とした声音。しかしその中には確かな確信が宿っていた。
「クラフトには、理想があります。信じる力もある。でも、それだけじゃ世界は変わらない。……私は、別の手段を選ぶだけです」
「ふん」
鼻で笑う音が応接室に響いた。
「では訊こう。君は冒険者としてこのギルドに来たわけではないのだろう?」
「ええ。私は経済部門に入りたい。冒険者として戦うつもりはありません」
「アカデミアを出てもいない君に、何の価値がある?」
ハイネセンの目が細くなる。興味と警戒が入り混じった視線だった。
しかしキールは怯まなかった。
「結果で示します。三ヶ月以内に成果を出せなければ、支給された契約金も、これまでの給与も全額返金しましょう」
静かだが、言葉に一切の迷いはなかった。
ハイネセンはしばらくキールを見据え、やがてグラスを軽く傾けた。
「“合理性”を掲げる君が、ずいぶんと不利な賭けに出るものだ」
「必要経費です。社会を変えるには、まず信頼を得なければならない」
「……なるほど」
「承知しています。貴方がいる以上、当然です」
皮肉とも受け取れるその一言に、ハイネセンはわずかに目を細めたが、何も返さなかった。
その静けさの中で、キールは椅子から立ち上がり、深く一礼する。
「それでは、失礼します」
扉の方へ向かうその背に、ハイネセンはひとつ、低くつぶやいた。
「……クラフト君とはまた違った“やりにくさ”だな、君は」
だがキールは振り返らなかった。ただ、まっすぐに歩を進めていく。
彼の“やり方”で、社会を変えるために——
ノクスの作業場は、朝から賑やかだった。
魔導石の加工しているクラフト。スキルを転写した魔導石を箱詰めするリリー、採掘場から戻ったばかりのブラス。三人だけなのに、場の空気は落ち着く暇もなかった。
「……数が全然追いついてないな」
クラフトは、木箱の中身を数えながら、少しだけ額に汗を浮かべて呟く。
「昨日もすぐ無くなったもんね」
リリーも慌ただしく手を動かしながら、眉を下げた。
「クラフト……“ちょっと採掘場まで”って距離じゃねぇだろコレ……」
ブラスが苦笑混じりに言いながら、魔導石の原石を背負って帰ってきた。
その時だった。
「——漆黒より目覚めし者たちよ」
突如響いた低くくぐもった声に、場がしんと静まる。
作業場の入り口に、漆黒のローブを翻した男が立っていた。片手には妙に光る杖。肩口から伸びる装飾が、黒い羽根のように揺れていた。
「久しいな……漆黒の牙よ。深淵の同胞たちよ。我が魂は再び焔に導かれし時を迎えたのだ……」
「……あー……」
クラフトは一瞬、視線を宙に泳がせ、なんとか言葉を探す。
「えーっと……黒炎の使徒」
「その名に偽りはない。我が業火は未だ衰えず……」
「すまないが、魔導石の配布分は、今ので一旦打ち止めなんだ。次の分は——」
「それは問題ない」
男はきっぱりと告げた。
「……あの魔導石こそ、我が黒炎の運命を呼び覚ます導きだった。
かつての俺は……空虚だった。
力も、名も、何もなかった。だが――“あれ”を手にした時、初めて思ったんだ。
『俺にも、何かを掴めるかもしれない』ってな……
今の俺は“戦う者”だ。依頼をこなし、素材を狩り、己の力で生きる。
すなわち……“冒険者”……フフ、驚いただろ?」
クラフトは、まっすぐに黒炎の使徒を見つめた。
……が、その言葉の意味を咀嚼しようとするたびに、頭の中で何かが引っかかる。
「戦う者」「己の力」「冒険者」までは何とか理解できる。だが「すなわち」のあとの“……フフ、驚いただろ?”で、思考の歯車が一瞬止まった。
(……いや、たぶん、喜んでくれてるんだよな。多分……)
理解しようとするほど、意味が遠のいていく。
「……すまない、もうちょっと分かりやすく……」
その横で、リリーがぱっと顔を上げて補足する。
「つまり、スキルを買ってもう冒険者として自立できるくらい稼げてるってことだよ!」
「……そうか、本当に……歩き出せたんだな」
あの時から、ずっと問い続けていた。俺のやり方は、本当に意味があるのかと。
その笑みは、その問いへの、ほんの小さな“返事”だった。
黒炎の使徒は、マントをひるがえし、一歩前へ出た。
「我が力が届く範囲において、何か役立てることはないか?」
その真剣な表情に、クラフトは軽く頷いた。
「ありがとう。もし依頼先で魔導石が見つかったら回収して持ってきてくれると助かる。それと……モンスターの血液が余ったら、分けてくれないか?」
「承知した。我が同胞たちにも伝えておこう。漆黒の炎は、常に汝らと共にある」
最後にそう言い残すと、男はマントをなびかせながら去っていった。背中は妙に堂々としていた。
「……ああいうのも、なんか、いいよね」
リリーがくすくすと笑う。
「クラフト、よかったね! あの人、もう自分の力で歩いてるんだよ!」
「あぁ……少しずつ、だけど……ちゃんと届いてる」
クラフトは、手にした魔導石を見つめながら呟く。
不格好で、まっすぐで、どこか照れくさい。それでも確かに、一歩ずつ前へ進んでいる。
ほんの小さな火種が、誰にも気づかれないまま、世界の奥底で息を吹き始めていた。




