血。
わずかな空気の揺れ。
それは、錯覚かと思うほど微かなものだった。
だが、確かに聞こえた。
「……グゥ……」
低く、くぐもった唸り声。
クラフトの背筋が凍りつく。
「……嘘だろ」
恐る恐る視線を向ける。
そこには、確かに絶命したはずのオーガの巨体。
焼け焦げた皮膚、深々と刻まれた傷跡――
だが、胸の奥で何かが鼓動しているように、赤黒い輝きが鈍く瞬いていた。
「嘘……」
リディアが息を呑む。
「魔導石……再生してる……?」
キールの声は冷静だったが、その指先はわずかに震えていた。
そして――
「――グォオオオオオオオッ!!」
よろめきながらもオーガが咆哮する。
衝撃波のような振動が、疲れ果てたクラフトたちの体を揺るがした。
クラフトの喉が乾く。
「まだ……動くのか……」
リディアが青ざめた表情で呟く。
「もう……魔力も、体力も……」
揺らぐ身体を引きずるようにオーガが一歩一歩距離を縮める。
ただ一撃でも、誰かが直撃を受ければ、それで終わる。
誰もが、諦めかけたその瞬間――
「……うるせぇんだよ、てめぇは……」
どこか呆れたような声が響いた。
次の瞬間、
大地を蹴る爆音とともに、巨大な影が前へと飛び出す。
「朝っぱらから……!」
斧を担ぎながら、血まみれのブラスがオーガを睨みつける。
「ガーガーうるせぇんだよ!!!」
クラフト、リディア、キール――誰もが呆然とする中、
ブラスは血走った目で、叫ぶ。
「俺は今、死にかけなんだよ!! せっかくいい感じに気絶してたってのに、なんだその耳障りな遠吠えは!!」
ブラスの足が地を蹴る。
「黙らせる……!」
巨斧が横薙ぎに振るわれ、オーガの肩を砕く。
「静かにしろって言ってんだろォォオオ!!」
一撃。
二撃。
一撃、二撃、三撃——
ドスッ! バギィッ!!
オーガの小さな脳内で、奇妙な回路がつながる。
『ニンゲンチガウ……オーガ?』
『オーガ……!?』
『……オーガ、キング……!?』
オーガは確信した。コイツは上位種。
ナカマ! コワイナカマ!!
でもナゼ殴ル!? ナゼ殴ル!?
「寝かせろ!!!」
三撃目が、オーガの膝を砕く。
「お前のせいで頭ガンガンするんだよ!!!」
四撃目、五撃目、六撃目――
容赦のない、怒りの斧撃が降り注ぐ。
「てめぇは目覚まし時計か!!」
そして、最後の一撃。
ブラスの渾身の斧が、オーガの魔導石を貫いた。
静寂。
洞窟に満ちていた圧倒的な威圧感が、一瞬で消え去る。
そして、ズシン……と巨体が崩れ落ちた。
今度こそ、本当に、戦いが終わった。
――だが、クラフト、リディア、キールは、ただ呆然とその光景を見つめるばかりだった。
「……なあ」
クラフトがポツリと呟く。
「俺たちの……あの死闘って……なんだったんだ……?」
リディアが疲れた顔でため息をつく。
「もう……考えたくもないわ……」
キールが静かに呟く。
「ブラス……次からは、最初から起きていてください」
「るっせぇ……」
ブラスはぐらりとよろめき、肩で息をする。
「俺は……もう、寝る……」
そして、そのまま洞窟の地面に倒れ込んだ。
——今度こそ、本当に戦いが終わった。
洞窟内は静寂に包まれていた。
——ようやく、終わった。
全員が疲労困憊し、その場にへたり込んでいた。
壁際に倒れ込むクラフト、リディア、キール。どこか無遠慮に大の字になったブラスは、規格外のイビキを響かせている。
「オーガよりデカい音のイビキしてるんだけど……」
リディアが呆れたように呟くが、その声にも力がない。自身も全身の疲労に押し潰されそうになっていた。
クラフトは仰向けになり、天井を見上げた。
戦闘の余韻がまだ抜け切らない。洞窟の冷気が火照った体を冷やし、張り詰めていた神経が少しずつ弛緩していく。
「……ふぅ……」
呼吸を整えるクラフトの横で、キールがゆっくりと体を起こした。
「……やれやれ、休む間もありませんね」
そう呟くと、キールは静かに立ち上がる。
「……どこに行くんだ?」
「オーガの血液を採取します」
淡々とした口調で答えると、キールは腰から小型の試験管を取り出し、倒れたオーガの巨体へと歩み寄った。
クラフトはゆっくりと目を閉じる。
「あんなに苦労して倒したのに、まだ仕事があるのか……」
「ええ、それが冒険者というものです」
キールはオーガの胸元に残る傷口を確認すると、小刀を抜き、慎重に肉を裂いた。すると、じわりと黒ずんだ血液が滲み出す。
それを手際よく試験管に流し込んでいく。
「……で、それをどうするんだ?」
「オーガの血液は、適切に精製すれば上級ポーションの材料になります」
キールは無駄のない動作で試験管を数本満たしていく。
「精製しなくても、骨折の応急処置にはなります。もっとも、飲み心地は最悪でしょうが」
「……は?」
クラフトの思考が止まる。
「……おい、まさか」
「クラフト、あなたの左腕、完全に折れていますね。それに、肋骨も二、三本ヒビが入っているでしょう」
「いや、まあ……それは自分でも分かるが……」
「では、どうしますか?」
キールは試験管を揺らし、オーガの血がとろりと波打つのを見せた。
「今すぐ回復する手段はこれしかありません。飲みますか? それとも、このまま痛みに耐え続けますか?」
クラフトの顔がひきつる。
「……」
「選択肢は二つです」
「……」
「飲むか、もしくは飲むか」
「一択だろ!」
クラフトは頭を抱えたが、左腕の激痛と肋骨の鈍痛が現実へと引き戻した。
「………本当に飲めるのか?」
「子供の頃、英雄に憧れてましたよね?おめでとうございます、今まさに英雄っぽいことをする瞬間ですね」
「英雄って……こんなことしてたのか……?」
クラフトは、観念したようにため息をついた。
「……わかったよ….」
意を決して試験管を受け取り、震える手で持ち上げる。
どろりとした漆黒の液体が、ゆっくりと試験管の内側を流れる。ほんのり鉄の匂いが漂い、嫌な予感しかしない。
「……いくぞ……」
クラフトは目をつぶり、一気に流し込んだ。
瞬間——
「——!!?」
喉に流れた瞬間、強烈な苦味と鉄臭さが口内を支配した。
「ぐっ……! げほっ……!」
咳き込みながら喉を押さえ、床を転がる。
「クラフト!?」
リディアが慌てて駆け寄るが、クラフトは涙目になりながら手を振った。
「だ、大丈夫だ……ちょっと……ちょっとヤバい味なだけで……」
「ヤバい味ってレベルじゃないでしょう、それ!」
「……いや、これ、何て言うか……肉を生のまま血ごと口に押し込まれた感じ……」
「それは最悪ね……」
リディアが顔をしかめる。
「でも、効いてるはずですよ」
キールは淡々とした口調で言った。
「……そうなのか?」
クラフトは自分の体を確かめた。
身体の内側から熱がこみ上げるような感覚と共に、さっきまで鋭く走っていた痛みが、じわじわと和らいでいる。
左腕の感覚はまだ鈍いが、動かすたびに響いていた激痛が軽減されていた。
「……ん?これは……」
「骨が完全に治るわけではありませんが、応急処置としては十分でしょう」
キールは試験管を片付けながら、淡々と言った。
「……いい匂いがするな?」
低く唸るような声が響いた。
地面に大の字になっていたブラスが、ぴくりと鼻を動かす。
「おいおい、これは……オーガの血じゃねぇか?」
ブラスはキールの手元にある試験管を見つけると、目を輝かせた。
「しかも、とれたて……!」
ブラスは嬉々とした表情で鼻をすんすん鳴らし、陶然とした顔になる。
「この濃厚な鉄分の香り、ほんのり焦げた脂の風味……こいつは最高の仕上がりだぜ。普通のオーガじゃこうはいかねぇ。魔導石が一度砕かれた個体の血は、独特のコクが出るんだよ……」
「……どこで味の違い覚えたのよ」
リディアが引きつった笑みを浮かべながら、じりじりと距離を取る。
クラフトも、震える指で自分の耳をつまんだ。
「ごめん、俺、今たぶん聞いちゃいけないこと聞いた気がする」
だがキールだけは淡々と試験管を差し出す。
「では、お好きなだけどうぞ」
「よっしゃ、いただきます!!」
ブラスは満面の笑顔で試験管を受け取り、まるで高級ワインでも嗜むかのように——
ゴクッ。ゴクッ。ゴクッ。
一気に飲み干した。
「……っっくぅぅ〜〜〜ッ!!! この後味のスモーキーさよ!!」
「……ど、どういう育ち方したらあれが“スモーキー”になるんだ……?」
クラフトは顔面蒼白で後ずさり、思わず天を仰ぐ。
「俺の味覚が狂ってるのか、ブラスが狂ってるのか……もしくは、世界が間違ってるのか……」
リディアはクラフトの肩に手を置いて、小さく囁いた。
「答えはね、全部よ……」
「……そういえばさ」
ふと、リディアが顔を上げた。
「ゴブリンと戦ってる最中、魔導石が光ったでしょ? あれ、一体なんだったの?」
クラフトは一瞬考え込み、頷いた。
「ああ、確かに。あの光がなかったら、ゴブリンに囲まれてたかもしれないな。でも……魔導石が光るなんて、聞いたことがない。」
「一度、見に行ってみましょう」
キールが冷静に提案する。
「確かに気になるな」
ブラスは立ち上がると、興味深そうに腕を組んだ。
「よし、せっかくだし見に行こうぜ。なんか面白いもんがあるかもしれねぇし!」
クラフトたちは再び坑道を進み、魔導石が光った場所へと向かった。
***
洞窟の奥、幻想的な輝きが広がっていた。
暗闇の中で、淡い青白い光がゆらめくように輝いている。
岩肌に埋め込まれた魔導石の群れが、まるで夜空の星のように瞬いていた。
「……綺麗……」
リディアが感嘆の声を漏らす。
その横顔は、どこか神秘的な光に照らされ、柔らかな表情を浮かべていた。
その姿を見たクラフトは、ふと考え込む。
「ちょっと待っててくれ」
そう言って、クラフトは腰の道具袋からナイフを取り出した。
魔導石の岩壁に手を伸ばし、慎重に一部を削り出す。
「おいおい、何やってんだ?」
ブラスが不思議そうに覗き込む。
「……ほら」
クラフトは削り出した魔導石の小さな欠片を取り出し、紐を通して簡単なネックレスに仕立てた。
「リディア、お前にやるよ」
「え……?」
リディアは驚いた顔でクラフトを見つめた。
「お前、こういうの好きだろ?」
クラフトは少し照れ臭そうに言いながら、手渡した。
リディアは目を瞬かせながら、そっと受け取る。
「……ありがとう!」
満面の笑みを浮かべ、ネックレスを胸元にかける。
魔導石はリディアの肌の上で、優しく光を放っていた。
その光は、単に輝いているだけではなかった。
魔導石全体が淡く光を放ちながら、その内部では小さな光がゆっくりと漂い、回転している。
流れる星のように動く光点は、不規則に明滅しながら石の中を巡っていた。
「……なんだか、不思議な光ね」
リディアがそっと指先で触れると、石の中の小さな光がかすかに揺らぐ。
「クラフト、工作スキル……まだ持ってたんですか?」
キールはわずかに眉を上げ、小さく首をかしげた。
それから、どこか納得したように口元を歪め、薄く笑う。
クラフトは肩をすくめた。
「まあな」
「スキルは同時に持てる数に上限がありますよね? そんな器用仕事に枠を使うなんて、もったいないですよ」
「それはそうなんだが……なんというか、愛着があるんだ」
クラフトは魔導石の光を眺めながら、どこか懐かしそうに笑った。
お読みいただき、ありがとうございました。
小さな物語ですが、どこかに残るものがあれば嬉しいです。
※もし続きを読みたいと思っていただけたら、評価やブクマでお知らせください。