素材じゃない、人間なんだ
前室には、重い沈黙が流れていた。
ハイネセンとブラス——過去を知る者同士が、向き合っていた。
互いに言葉を発さぬまま、時間だけがじりじりと過ぎる。
だが、先に沈黙を破ったのは、やはりハイネセンだった。
「……ところで、ブラスくん。君も随分と“場末の風”が板についたようだね?」
その声音はあくまで穏やかで、冷たい皮肉を柔らかな棘で包んだような響きだった。
ブラスは肩をすくめ、鼻で笑う。
「……なんだよ、それは」
「君は優秀だった。ヴェルシュトラの戦士として、実に有望だった」
「それが今や、場末のギルドで……ふふ、あれは何だ? 理想主義者と小娘と……」
一瞬、口をつぐみ、薄笑いを浮かべた。
「まぁ、いい。クラフト君は見るに値する。だが、あとの二人は……及第点にも届かない」
「君がそんな“寄せ集め”とつるんでいるとはね。かつての副団長様が聞いたら、泣くんじゃないかな?」
その言葉に、空気が変わった。
クラフトたちが扉の外から入ってきたその瞬間だったが、誰も言葉を発せなかった。
むしろ、扉を開けた瞬間に感じたただならぬ気配に、自然と足を止めるしかなかった。
ブラスは、一歩、ハイネセンに近づいた。
声に笑みがあった。だが、まるで鉄の芯を仕込んだような、重たい響きがあった。
「……ああ、そうか。やっとわかったぜ」
「お前がどこまでも“合理主義者”でいられる理由がよ」
「“切り捨てる側”に立つことで、自分はいつまでも正しいと思えるからだ」
ハイネセンは微笑みを崩さず、黙って見つめている。だがその目は、少しだけ細められていた。
「クラフトが“見るに値する”って? ……じゃあ聞くが」
「お前、あいつの何を見た?」
「クラフトはよ、真っ直ぐなバカだ。……でもな、どんなときでも他人のことを考えて動ける、そんなヤツなんだ」
クラフトが、わずかに目を見開いた。
「リリーは、努力家だ。誰よりも不器用で、誰よりも足りないと思ってる。けど……あいつは、絶対に諦めねぇ。
何回失敗しても、必死に、誰かの役に立とうとしてる」
リリーは口元をぎゅっと結び、俯いたまま小さく頷いた。
「……キールは、冷たいように見えて、ちゃんと見てる。全体を、遠くから、誰よりもよく見てる。全部拾って考えてる。……ただ、ちょっと言い方がきついだけだ」
キールは沈黙したまま、だが、その視線だけはブラスの背に向けられていた。
「……だからな、ハイネセン。あんたが“寄せ集め”って笑ったその仲間たちを、俺は心の底から誇りに思ってる。
そいつらがいたから、俺はこの場所で、もう一度“戦う意味”を見つけられたんだ」
言葉は飾らなかった。だが、そのすべてに確かな実感がこもっていた。
「力か? 頭か? スキルか? あいつの価値は、そういう“枠”で測れるもんじゃねぇ」
「俺たちは、“素材”じゃねぇ。“人”だ」
言葉は静かだった。
だが、その一語一語が、まるで斧で削り出すように、ハイネセンの仮面に食い込んでいく。
「上司に媚び、部下を使い捨てて、口当たりのいい理屈だけ並べて——それでのし上がったお前には、一生わかんねぇだろうけどな」
ハイネセンの口元の笑みが、わずかに固まった。
だがすぐに元の表情に戻る。
「……君は感情的になりすぎるよ、ブラスくん。だから、その座を降りたんだろう?」
ブラスは鼻で笑った。
「つーか、お前、まだヴェルシュトラでのし上がるのに必死でやってんのか?」
その言葉に、クラフトもリリーも、キールさえも一瞬視線を交わし、何も言えなかった。
軽く放たれたその一言は、笑い交じりですらあった。
だが、その言葉の奥には、鋭く研ぎ澄まされたものがあった。
ハイネセンは片眉を上げ、興味深げに応じる。
「……ほう?」
「……ああ、懐かしいな。お前の“立ち回り”ってやつを見てるとよ」
ブラスの口元には笑みが浮かんでいたが、その眼差しは冷めていた。
「上司には媚びへつらい、部下は使い捨て。
少しでも邪魔になりゃ、冷酷な“合理主義”の皮をかぶって、蹴落とす。
……そんなやり口、俺は知ってる」
言葉は飾らない。だが、そのぶん剥き出しだった。
「お前が生き残ったのは、戦いじゃなくて、そういう“抜け目のなさ”だ」
クラフトたちは、声を出せずにその応酬を見つめていた。
リリーでさえ、言葉を飲み込み、ブラスの背をじっと見ていた。
ハイネセンの口元に、いつもの薄笑いが残る。
だが——その目が、わずかに細まった。
仮面が、一瞬だけ揺らいだ。
ブラスは構わず続けた。
「“戦士”ってのはな、戦場で強さを示して出世するもんだ。
だが、お前は“おべっか”と“足の引っ張り合い”でのし上がってきた」
その言葉に、室内の空気が一段と冷え込む。
「……ま、そっちの戦場じゃ、俺はお前に勝てねぇわ」
ブラスの言葉には、自嘲の色すら混じっていた。だが、それは敗北の意味ではない。
自分が選ばなかった道、自分が否定してきた価値観への、確かな拒絶だった。
ハイネセンが口を開いた。相変わらずの平坦な声で。
「……言いたいことは、それで全部かね?」
ブラスは鼻で笑った。
「いや、まだある」
彼はまっすぐにハイネセンを見据える。
「お前は、“支配者”になりたいわけじゃねぇ」
一瞬、ハイネセンのまぶたが微かに動いた。
「“支配者にとって都合のいい男”になりたいだけなんだよ」
ブラスの言葉は、槍のように真芯を突いた。
「そんなんで満足してんのか、ハイネセン?」
沈黙が落ちた。
その刹那、ハイネセンの笑みがほんのわずかに——ほんの、わずかに、歪んだ気がした。
それは、どこまでも静かで、どこまでも冷たい男の中に、かすかな波紋が走った証拠だった。
だが、彼は何も言わなかった。
そしてブラスも、それ以上は追わなかった。
ただ、両者の間に漂う空気は、もはや言葉以上の“敵意”を語っていた。
一拍の沈黙の後、ハイネセンが乾いた笑いを漏らした。
「……フフ、随分とまあ、ご立派な分析だね」
口調こそいつも通り穏やかだったが、その声には微かに硬さがあった。
張りついたような笑みの下で、何かが軋む音がしたような気がする。
彼の指が、ゆっくりと机の上をなぞる。
ほんのわずかな仕草だが、指先には目立たないほどの力がこもっていた。
「だが、ブラスくん。君は一つだけ、大きな誤解をしている」
その言葉に、ブラスは眉を上げた。
ハイネセンはわざとらしく間を取り、息を吸い込んでから淡々と続ける。
「『都合のいい男』は、“使われる”側ではない。“利用する”側だ」
声に抑制が効いていた。だが、耳を澄ませば、その裏に潜む感情がわかる。
苛立ち、侮蔑、そして何よりも——深い怒り。
「君には理解できないかもしれないがね?」
一語一語が、冷たい氷片のように吐き出される。
表情は崩れていない。むしろ、整いすぎていた。
だがその瞳だけが、獣のように細くなっていた。
クラフトたちは、息をのんで沈黙を守っていた。
キールは視線を逸らさず、リリーでさえ、わずかに眉をひそめている。
ブラスは、そんな空気にも動じない。
肩をすくめて、小さく鼻を鳴らした。
「……ハッ。いいこと聞いたぜ」
そして口元に笑みを浮かべる。
それはいつもの豪快な笑いではない。
低く、静かに、内側から込み上げるような笑みだった。
「じゃあ、俺がてめぇを潰す時も——」
一歩、前に出る。
その圧に、空気が微かに震えた。
「“利用する”つもりでやることにするぜ」
その言葉に、ハイネセンの口元の笑みがぴたりと止まった。
次の瞬間には、また何事もなかったかのように戻っていたが——
その一瞬の間に、確かに“仮面”は、わずかにひび割れていた。
そしてそのひびこそが、この先の対立の始まりを告げていた。
ハイネセンは最後まで笑みを崩さなかった。
……が、その口元は明らかに引きつっていた。
「では、私はこれで」
そう言い残し、彼はくるりと背を向ける。扉へと向かうその歩調は、一見穏やか——だが、よく見れば肩に力が入りすぎており、足取りも妙に速い。
扉が閉まり、静寂が戻る。
誰も言葉を発さなかった。
張り詰めた対話の名残が、まだ部屋の隅に滞っているようだった。
その中で、ブラスが小さく息を吐いた。
深く、重く——戦いのあとに剣を納めるような呼吸だった。
「……悪ぃな。あんなもん、見せるつもりじゃなかった」
声はいつもの豪快さを潜め、どこか沈んでいた。
強さに裏打ちされた自信ではない。
過去に染みついた何かと、今の自分との折り合いをつけるために、ようやく絞り出した言葉。
「柄にもねぇこと、言っちまったかもな……」
苦笑すら浮かべずに言うその表情に、ブラスなりの覚悟がにじんでいた。
すると、クラフトが目を見開いて近寄ってくる。
「いや……ブラス……!」
その真剣な表情でクラフトはブラスの肩を力強く掴んだ。
「感動したぞ、ブラス。伝わった。お前の言いたいこと、全部」
「は、はぁ?」
「俺たちは素材なんかじゃない、人間なんだよな……!」
「いや、ちょ、クラフト……」
その背後で、リリーがぱあっと笑顔を輝かせて跳ねるように言った。
「そう! 素材なんかじゃない、人間だよね!!」
キールは口元に手を当て、わずかに俯いたが肩が、かすかに震えていた。
「素材なんかじゃない……人間、ですか。……ふっ」
目元には笑いの色が滲んでいる。喉の奥から込み上げてくる笑いを、理性の鎧でなんとか抑え込む。
クラフトは感極まり、手を握って力強く頷いた。
「お前の熱い気持ち、しっかり受け取ったぞ!!」
「落ち着け!!」
顔を真っ赤にしながら、クラフトを押し返そうとするブラスの背後から、リリーの声が響く。
「感動的な演説だったよ。特にあの“ハッ”って鼻で笑うとこ、痺れた……!」
「リリーやめてくれ!!」
それでもリリーは首をかしげたまま、「ん?」と純粋な顔で見つめ返していた。
続けて、キールが腕を組んで呆れたように吐息をつく。
「なるほど……ブラスにも“倫理観”という機能が搭載されていたとは」
「お前は俺をなんだと思ってんだ!!」
ブラスは耳まで真っ赤にして吠えたが、誰も止める様子はない。
むしろ、クラフトがなぜか感極まってブラスの手を握ろうとし、リリーはメモ帳に“演説構造の勉強”と書き加え、キールはそれを斜め後ろからのぞいている。
「もう……なんなんだよ、お前ら……」
そう呟いたブラスの顔は、赤面で今にも湯気が立ちそうだった。
——こうして、ヴェルシュトラ本部での重々しい一日が、盛大に台無しにされたのだった。




