努力の梯子と、登れなかった誰か
本部の静寂な前室。その扉が音もなく開き、整った身なりと冷ややかな笑みをたたえた男——ハイネセンが現れた。
「待っていたよ、クラフト君。さあ、どうぞ——こちらへ」
彼の手招きに、クラフトとキールが立ち上がろうとした瞬間——
「悪りぃ、俺はここで待つことにする」
ブラスが、わざとらしく椅子に深く腰掛け、腕を組んだ。まるでこの場の主であるかのような尊大な態度。
ハイネセンの眉がわずかに動いたが、すぐにその表情は消える。
一瞬の苛立ち。だがその奥に、どこか含みを含んだ笑みが浮かぶ。
(──いつまで演じ続けるつもりかね)
何も語らぬブラスに対し、ハイネセンは何かを知っているような目を向けた。
あたかも、「今さら吠えても、鎖の重さは変わらない」とでも言いたげな、薄い笑みだった。
クラフトは一歩遅れて振り返る。
「お前……一体、ヴェルシュトラで何したんだ?」
静かな問いかけに、ブラスは肩をすくめて笑う。
「まぁ、色々あってな」
笑ってはいるが、その声はどこか空虚だった。まるで、記憶の底に沈めた何かを引きずり出されたように。
キールが短く息を吐き、クラフトの腕を軽く引いた。
「行きましょう。時間は限られてます」
クラフトはもう一度ブラスを振り返ったが、彼はただ無言で手を振るだけだった。
重厚な扉が静かに開いた。
中は一見すると簡素だった。だが、その中央——
一枚板でできた巨大な机の向こうに座っていたのは、ヴェルシュトラのギルド長だった。
静かに座っているだけで、空間の意味そのものが変わったかのような、圧倒的な存在感があった。
見た目は三十代そこそこ。
だが、整った外見よりも目を奪われるのは、その眼光だった。
まるで、こちらの思考の芯をじっと見透かすような、静かな鋭さ。
キールがわずかに足を止め、リリーも身じろぎして隣に寄った。
二人は僅かな躊躇いのあと、椅子に腰を下ろす。
その中で——クラフトだけが、ほとんど間を置かずに堂々と腰を下ろした。
一瞬だけ、ギルド長の視線がクラフトに向けられる。
測るようでも、試すようでもなく——ただ、静かに在るものを見るようなまなざし。
だがクラフトは、目をそらさなかった。
(……この感じ、何だ?)
威圧でも敵意でもない。
だが、空間全体を掌握するような“場の重力”が、その男にはあった。
そしてその奥に——”説明できない違和感”
何かが、心の奥に引っかかる。
ギルド長は、口を開いた。
「単刀直入に伝える——ノクスを、我がヴェルシュトラに迎え入れたい」
空気が一瞬、張り詰めた。
「……やはり来ましたか」
キールが小さく呟く。
ギルド長の隣に控えていた補佐が一歩前へ出て、分厚い書類を差し出す。
「こちらが、提示させていただく条件です」
クラフトたちの目の前に置かれた書類には、信じがたい内容が並んでいた。
契約金は破格。
給金は月々の固定に加え、成果に応じた報酬が上乗せされる。
さらに必要とされるスキルは、すべてヴェルシュトラが無償で提供——そう明記されていた。
「……本気、なんですか、これ……?」
リリーが呆然とつぶやく。
キールも目を走らせたまま、息を呑む。
「破格ですね。……逆に、ここまでされると、何を期待されているのか気になってきますよ」
ギルド長は二人の反応にも一切動じず、静かに続けた。
「私は、努力する者に正当な機会を与える。それが、ヴェルシュトラの存在意義だ」
その口調に高圧的な響きはない。
淡々としている。だが、そこに込められた意味は明確だった。
クラフトが、わずかに眉をひそめた。
「……チャンスを?」
「人は、生まれながらにして平等ではない」
男は、まるで古くから知っていた真実を確認するかのように言葉を重ねる。
「だが、不平等の中でも“向上しようとする意思”を持つ者はいる。私は、その意思に応える仕組みを整えた」
指先で机を軽く叩きながら、男は続けた。
「与えたのは救済ではない。“競う場”だ。誰もが挑めるとは言わない。だが、挑む者には、登るための梯子を用意する。それが我々の役割だ」
クラフトは黙っていた。
その視線の奥で、言葉を探しているようだった。
ギルド長は話を続ける。
「アカデミアもそうだ。かつては貴族の子弟しか入れなかった——閉ざされた場だった。私はそれを壊した。制度を解体し、門戸を開いた。努力する者すべてに、学ぶ機会を与えるために」
その言葉に、リリーの指が微かに震えた。
彼女の視線はテーブルの書類の上を彷徨い、やがてクラフトの横顔へと移る。
クラフトは、ゆっくりと息を吐いた。
穏やかに——だが、どこかに熱を帯びた声音で言葉を返す。
「……でも、それって、“努力できる”立場にある奴にしか意味がないだろ」
言葉は静かだが、否定の意志は強くこもっていた。
「スキルも金もないやつが、“選べる”と思うか? 登れる梯子が見えてても、踏み出せない奴らだっているんだ」
沈黙を破ったのは、リリーだった。
それまでずっと伏せていたまなざしをゆっくりと上げ、ギルド長の正面に目を据える。
その瞳には、静かだが凍るような問いが宿っていた。
「……あなたの社会は、本当に平等なの?」
その声はか細い。だが、空気に溶けず、はっきりと届いた。
ギルド長は、わずかに目を細める。
「……ふむ」と短く呟いたのち、その問いの意味を探るようにリリーを見つめ返す。
リリーは一呼吸置き、まっすぐに言葉を放った。
「私のお姉ちゃんは、私をアカデミアに入れるために……魔契約を結んで」
「そして——死にました」
その瞬間、キールが視線を動かし、クラフトは唇をかみしめる。
リリーの声に揺らぎはない。けれど、その小さな体の奥では、今にも崩れてしまいそうな痛みが震えていた。
「私が生きるために、お姉ちゃんは命を削った。それが……それが、あなたの言う“機会”なの?」
その問いは、理屈ではない。
誰にも否定できない、感情の叫びだった。
ギルド長は静かに目を閉じた。
やがて、重みのある声で応じる。
「君の姉は、自らの意思で挑戦を選んだ」
「誰かのために、すべてを賭ける覚悟——それを、私は否定しない」
語調に激情はない。ただ、確信だけがある。
「貴族の血に守られて学ぶのではなく、意志によって学びを得る。それが新たな時代の価値だ」
「君の姉は、そうした価値の象徴だ。……誇るべきことだ」
クラフトの拳が、ぎり、と音を立てる。
木の机に触れた指先に、力がこもった。
「……何を言っている……」
唸るような声が漏れたそのとき。
リリーが、首を横に振った。
声は震えていたが、否定の意志は強かった。
「……お姉ちゃんは、そんな未来を……望んでなんかいなかった」
誰かが用意した“価値”のために死ぬことを、リディアは願っていなかった。
ただ、妹が生きてほしいと、それだけを願っていた。
その想いを踏みにじる言葉に、リリーの声は小さく、だが確かに届いていた。
キールは黙っていた。
静かに、じっと、ヴェルシュトラの頂点に座る男を見つめる。
感情の色を一切浮かべぬその目には、むしろ冷静すぎるほどの沈黙が宿っていた。
(……非情だ)
心の中で、そう断じる声が響いた。
だが、同時に否定できなかった。
(——だが、そこには、一つの筋が通っている)
声高に語られる“意志”や“挑戦”という言葉。
リディアの死を「称賛」に変える論理。
感情では到底受け入れられない理屈だった。それでも、その構造は美しく整っていた。
(力がなければ、守れない)
胸の奥に、古い痛みが滲む。
(……リディアのように、ただ“削られ”、終わるだけ)
努力した者が報われるとは限らない。
だが、努力しなければ、何も手に入らない——それが、現実だった。
(アカデミアを開いたのも、確かに理想だったはずだ)
かつて、自分が子供の頃に夢見た場所。
だが、それに入るにはスキルと金が必要だった現実。
その門戸を“誰にでも”開いたのは、今目の前にいるこの男だった。
理想に最も近い改革を、現実に実行した人物。
(……それだけで、正しいと言えるのか?)
キールは小さく息を吐いた。
感情でもなく、完全な理屈でもない。
自分でもまだ名づけられない“疑問”が、胸の中に静かに広がっていく。
彼は黙ったまま、再び視線を戻す。
思考の奥で、何かがゆっくりと、形になり始めていた。
再び沈黙が落ちた。
だが、今度は鋭く、切り裂くような声がそれを破った。
「……お前の社会じゃ、リディアみたいな人間が死んでも、それが“正しい”ってことか?」
クラフトの声には、かすかに震えがあった。
怒りというより——痛み。
魂の奥をえぐられるような、哀しみの響きだった。
男は表情を変えないまま、淡々と返す。
「私は、彼女の死を望んだわけではない」
その言葉に偽りはなかった。
だが、同情もなかった。
「だが、挑戦には常にリスクが伴う。彼女はそれを引き受け、自らの意志で未来を変えた」
「そうした意志ある行動は、称賛されるべきだ」
「——ふざけるな!!」
クラフトが怒声を上げ、拳を振り下ろした。
重く鈍い音が、机の上に響く。
紙が舞い、静まり返った部屋の空気が一瞬揺れた。
「リディアが求めてたのは、そんな称賛じゃない!!」
「誰かに“偉かった”なんて言ってもらうために、命を削ったんじゃない!」
その叫びには、抗いようのない感情が込められていた。
男は動じない。
静かに、問いかけるように言葉を投げる。
「ならば君はどうする?」
「彼女の死を嘆き、世界を憎むか? それとも、その意志を次に繋げるか?」
クラフトは俯いたまま、しばらく黙っていた。
肩がわずかに震えている。
だが、それは怒りのせいではなかった。
やがて、ぽつりと吐き出す。
「命を賭ける“覚悟”がなきゃ守れない、なんてのは……」
「そんな世界が、まともなわけないだろ……!」
それは叫びではない。
小さく、しかし確かに、世界に投げかけられた否定だった。
彼はゆっくりと立ち上がる。
振り返ることなく、短く言い放つ。
「……キール、リリー。帰るぞ」
数歩だけ歩き、ドアの前でふと足を止める。
「……あんたの言うことも、全部が間違ってるわけじゃない。
でも——俺は、そこにはいられない」
その声には怒りも高ぶりもなかった。ただ静かに、深く、遠ざかるような決別の響きがあった。
彼の背に、誰も声をかける者はいなかった。
静かな足音だけが、ヴェルシュトラの石床に吸い込まれていく。
そのあとに残されたのは、閉じられた扉と、どこまでも静かな余白だった。




