語られなかった背中と、見上げた騎士団
先頭を歩いていた、銀髪を後ろに束ねた騎士がふと立ち止まり、視線を向けた。
次の瞬間、硬かった表情が一気に崩れ、懐かしげな笑みが浮かぶ。
「……ブラス……! まだ生きてやがったか!」
その一言が場の空気を切り裂いた。
クラフトは思わず口を半開きにしたまま、硬直する。
「……えっ?」
キールも視線を泳がせながら、困惑したように目を細める。
「……は?」
リリーに至っては、目をぱちぱちと瞬かせながら、言葉も出ずにその場で固まっていた。
だが、その困惑をよそに、ブラスはいつもの調子で腕を組み、口角を上げる。
「おう、バルト。久しぶりだな! お前がレギスの団長になったって聞いて驚いたぜ!」
ブラスとバルトが笑いながら肩を叩き合う様子は、戦友そのものだった。
「ブラスさん!? 本当に!?」
「俺、“防壁の構え”習得しました!」
「この前、ブラスさんの背筋を模写して彫刻にしたんですよ! 見ます!?」
若いレギスの戦士たちが次々とブラスの周囲に群がっていく。
少年のような目で彼を見つめ、まるで英雄を前にしたように、目を輝かせていた。
「ここにいるってことは……戻ってきてくれたんですか!? ヴェルシュトラに!」
ひときわ高まった期待の声に、ブラスはわずかに眉を下げ、申し訳なさそうに笑った。
「……わりぃな。そうじゃねぇんだ。」
それだけの言葉だった。
だが、それで十分だった。
戦士たちの表情が、少しずつ変わっていく。
肩の力が抜けた者、視線を逸らす者、ただ静かにうなだれる者——
あたたかな光がすっと翳ったような、そんなささやかな変化がそこにあった。
「……そう…….ですか……」
その声には、恨みも怒りもなかった。
ただ、遠くに行ってしまう背中を、黙って見送るような——そんな寂しさがあった。
その様子を見たバルトが重々しく頷き、後輩の肩を軽く叩いた。
「ブラスが決めた道だ。俺たちがどうこう言うことじゃない。応援してやれ。」
「……はい……分かりました……」
静かなやり取りの最中、クラフトたちは一言も発せず、ただその場で立ち尽くしていた。
理解が追いつかない。
状況も、関係性も、すべてが彼らの想像の斜め上だった。
「……なぁ……キール」
クラフトが小声でつぶやく。
「……なんでしょう」
「いま、何が起きてるんだ?」
「……私が聞きたいくらいです」
言葉を失ったままの三人。
ただ一人、ブラスの背だけが頼もしく、そして少しだけ遠く感じられた。
別れ際、レギスの騎士たちが整列し、門の奥へと戻ろうとしたそのとき——
バルトがふと立ち止まり、懐に手を入れた。
「そうだ、ちょうどいい土産がある。」
そう言って、手にしたのは小さなガラス瓶。
重厚な蓋がされたそれを、バルトは無造作にブラスへと放った。
「ほらよ。」
「おっ……!?」
ブラスは慣れた手つきでキャッチし、中身を覗き込む。
その瞬間、目を輝かせた。
瓶の中には、どろりとした赤黒い液体がとぐろを巻いていた。
まるで粘り気のある油のように、光を鈍く反射している。
「おおおおっ! ありがとな、バルト!!」
ブラスはまるで子どもが贈り物をもらったように大喜びしながら、即座に瓶の蓋を開ける。
バルトはあきれたように肩をすくめた。
「……お前の味覚は本当にどうなってるんだ?」
「普通の人間は、そんなもん飲まないぞ?」
「まったく、ブラスらしいな……」
ため息混じりの言葉には、皮肉よりも懐かしさがにじんでいた。
互いの時間を共有した者にしかわからない、確かな絆がその場に漂う。
「ありがとな、バルト。やっぱお前、わかってんなぁ!」
「……ったく、いい加減身体壊すなよ」
そう言って、バルトは手を差し出した。
ブラスも即座に手を伸ばし、ふたりの掌が音を立ててぶつかる。
ごつごつとした、分厚い手と手。
無言のまま、がっしりと握手を交わした。
バルトはそれ以上何も言わず、騎士たちの列へと戻っていく。
鎧が揺れる音とともに、レギスの背中は静かに遠ざかっていった。
その場に残されたクラフトたちは、しばし言葉を失っていた。
レギスの騎士団が去ったあと、静寂が戻る。
その余韻が完全に消える前に、クラフトとキールが同時にブラスの方へと振り向いた。
「……なあ、聞いてないぞ。」
クラフトが眉をひそめながら、じろりとブラスを睨む。
「どういうことだ!? お前、レギスの連中と顔馴染みなのか!?」
キールも目を丸くし、思わず詰め寄る。
だが、当の本人はまるで他人事のように肩をすくめた。
「……あれ? 俺、副団長やってたの、言ってなかったっけ?」
「「はぁああああ!?!?」」
クラフトとキールが、同時に声を張り上げる。
その絶叫は、ヴェルシュトラの門にまで反響したかもしれない。
「副団長!? お前が!? あのレギスの!?」
クラフトは信じられないとばかりに目を見開き、口元をわななかせた。
「いや……待ってください」
キールは額を押さえながら、ぐらりと一歩後ろへよろめく。
「んー……言ってなかったか?」
ブラスは本当に覚えていないように、呑気に首を傾げる。
「……絶対に言ってない。」
クラフトは心底呆れた表情で、ゆっくりと頭を抱えた。
「お前の適当さ、極まってるな……!!」
キールは苦悶の表情を浮かべ、怒りとも呆れともつかぬ声を漏らす。
だが、ブラスはどこ吹く風だった。
「ま、いろいろあってな。ヴェルシュトラの連中には色々目をつけられてたし、バルトに押し付けられたって感じだ」
どこか遠くを見るような表情で言うその口ぶりには、過去へのわずかな未練と、今の自分に対する納得が入り混じっていた。
その言葉に、クラフトとキールは互いに目を見合わせ、言葉を失った。
——いつもは豪快で、底抜けに明るいブラスの、ほんの一瞬だけ垣間見せた“昔の顔”。
それがどこか、今の空気を静かに引き締めていた。
リリーもまた、黙ったままブラスの背中を見つめていた。
普段の彼からは想像もできない、ほんのかすかな寂しさ。
その影を追うように、リリーの表情にもわずかな陰りが射す。
(……副団長って、おかわり自由で、イスに背もたれある人、なんだろうか……)
おかわり自由......背もたれ付き......彼がかつてどれほどの責任を背負い、どれほどの重圧に晒されてきたのかを思うと、胸の奥が少しだけ痛んだ。
リリーは、その思いを言葉に変えることなく、ただ静かにその場に佇んでいた。
 




