最期の咆哮、そしてブラス
《剛壁の構え》——発動。
ブラスが巨大な盾を掲げ、その背中に全ての魔力を集める。
「——撃て!」
リリーの掌から、雷鳴が迸る。
《雷耀貫徹》
稲妻が、ブラスの背を撃ち抜く。
轟音。
雷撃が盾に吸収され、一瞬の静寂のあと——
爆発。
爆風と衝撃が、ブラスの全身を包み込んだ。
巨大な爆炎の中から突如ブラス飛び出し音速の突進。
彼の巨体が、雷鳴を裂く弾丸のごとく、音速を超えてキマイラへと突き進んだ。
「うおおおおおおおお!!!」
咆哮と共に、巨大な斧が振り下ろされる。
《震雷斧》——!!
雷撃の軌道が、キマイラの身体を貫いた。
獣の咆哮が洞窟を揺るがし、キマイラの巨体が——
崖へと、叩き落とされた。
同時に爆風の余波が、ブラスの全身を容赦なく押し流す。
「くそっ……止まらねぇ……!」
足裏が岩を捉えかけるが、削り取られた足場が崩れ、踏ん張る余地を失う。
(はは……やっちまったか……)
冷静な自分が、心の奥でそう呟いた。
身体が宙を舞う中、ブラスは遠ざかる洞窟の天井を見上げる。
(……もしこれが俺の最期になるなら、悪くねぇな。)
満足げな笑みが、口元に浮かぶ。
「——ブラス!!!!!」
リリーの絶叫が洞窟内に響き渡る。
キマイラの巨体と共に、ブラスの大きな背中が崖の淵を越えていった。
その瞬間、時間が止まったかのように感じられた。
「ブラスッ!!!」
クラフトとキールの身体が、衝動のままに動いた。
崖へと駆け寄り、手を伸ばす。
——だが、間に合わない。
重力に引かれ、ブラスの巨体は暗闇へと消えていく。
リリーの足が崩れ落ちる。
「嫌……いやだ……!」
「ブラス……! 嘘よ……っ!!」
喉が裂けるような叫びが、空虚な洞窟に響く。
だが、答えはない。
キールは静かに拳を握りしめた。
冷静であろうとした。
理論的に考えれば、ブラスがあの高さから生還する可能性は……
いや、考えるまでもなくゼロだ。
それでも——
(……あの男が、こんなところで死ぬはずがない)
そう信じたかった。
だが、現実は目の前にある。
キールの手が、無意識に杖を握る。
「くそっ……!!」
鋭く息を吐き、キールは杖を地面に叩きつけた。
いつもの冷静さはどこにもなかった。
「何をしてる……こんなこと……こんなこと……!」
感情が言葉にならない。
こんなにも、無力だったのか。
そして——
「っ……!!」
クラフトはただ、拳を握りしめた。
戦った。
限界まで力を出し切った。
……なのに。
「……くそ……ッ」
頭を下げたまま、震える拳を地面に叩きつける。
拳の骨が軋む音がした。
「俺が、もう少し、戦えていれば……!」
奥歯を噛み締める。
自分を奮い立たせようとした。
だが、身体の芯が凍ったように動かない。
「俺は……」
「俺たちは……ここまでしか、来れなかったのかよ……!」
沈黙が、洞窟を満たす。
焦げた岩の匂い。
舞い上がる砂埃。
その中で、三人は崖を見下ろし続けた。
ブラスは、いない。
誰よりも頼れて、誰よりも強かった男が——
いない。
「……」
リリーの肩が震えた。
目の奥が熱い。
視界が滲む。
「嫌だ……戻ってきてよ……」
かすれた声が、静かにこぼれた。
だが、返事はない。
彼の豪快な笑い声も、もう聞こえない。
ブラスは——いなくなったのだ。
誰も、言葉を発しなかった。
何も、言えるはずがなかった。
静寂が、洞窟に満ちていた。
——静寂。
洞窟内の空気は、異様なほど重かった。
しかし——
突如、崖の下から響いたのは、苦しげな咆哮だった。
「——!!?」
全員の表情が凍りつく。
次の瞬間、もがくように爪が岩を擦るような、不気味な音が聞こえた。
ギリギリギリ……
「……あの高さだぞ……?」
クラフトが、ありえないものを見るような目で崖の下を覗き込む。
キールが、嫌な予感を覚えながら静かに呟く。
「….まさか登ってくる気ですか?」
「——嘘だろ!!!」
キマイラの爪が岩に食い込み、ゴリゴリと音を立てながら少しずつ登り始める。
「ダメだ、止めるぞ!」
クラフトが即座に剣を構え、魔力を込めようとした、その瞬間——
「てめぇ、まだ生きてんのかよ!!!」
怒声。
凄まじい怒声が、崖下から響いた。
「……え?」
「普通あの高さから落ちたら死ぬんだよ!!!」
ドォォォン!!!!
「空気読めよ!!!」
ズォォォン!!!!
「だいたい百獣の王が!!!」
ズドォォォン!!!!
「なんで蛇の指示で動いてんだよぉォォ!!!」
——ズドンッ!!!
「グギャァァアアアア!!!???」
キマイラの咆哮が、今までにない異様な響きに変わる。
明らかに、恐怖の色が混じっていた。
「えっ……?」
リリーが涙目で困惑する。
ゴリ……ギリ……
キマイラの爪が岩を掴もうとする。
「進化に失敗したのかァァァ!!!?」
——ズドン!!!
「ギャウッッ!!!???」
完全に怯えた悲鳴。
「お前らのチームワーク、終わってんぞォォォ!!!クソがァァァアア!!!」
——ドゴォン!!!!
「ギャウウウウウウウ!!!!」
……ズルッ……ズルル……
そして——
崖の下から、再び静寂が訪れた。
全員が固まる。
キマイラの気配が、完全に消えていた。
「……?」
キールが戸惑いながら崖を覗き込む。
クラフトも、リリーも、何が起こったのか理解できないまま呆然としていた。
そんな中——
「おーい、キール! 捕縛糸たらしてくれー!!」
「……え?」
崖の下から、あまりにも普段通りの豪快な声が響く。
キール、クラフト、リリー、全員が呆然と顔を見合わせた。
「聞こえてるかー?」
「おーい!」
全員が沈黙する。
——何も言葉が出ない。
キールが冷静になろうとし、額を押さえながら言った。
「……ちょっと待ってください。整理しましょう」
「うん……」
クラフトが深く頷く。
「まず、ブラスはとんでもない高さの崖から落ちました」
「うん」
「その直後、キマイラが生きていました」
「うん……」
「そして、キマイラが登ってこようとしました」
「うん……?」
「そして、崖下からブラスの怒声が聞こえた?」
「……え?」
「そのあと、キマイラが明らかに悲鳴を上げた?」
「……え?」
「……現状、ブラスが普通に呼びかけてる?」
「…………」
「…………」
「……ちょっと待て、どういうことだ!?」
崖下の闇から、ブラスの呑気な声が響いていた。
「おーい、まだかー?」
「飯食ってるのかー?」
「もしかして帰ったのかー?」
崖の下からの声を聞きながら、誰もが言葉を失っていた。
静寂の中、ただ一つ確かなことは——『キマイラは二度と登ってこない』 ということだった。




