あと一撃に、すべてを
クラフトの動きは、なおもキマイラを圧倒していた。
全てが見えている。
相手の動き、戦場の空気、仲間の息遣いすらも——
(……このまま押し切る)
そう確信した瞬間だった。
——違和感。
最初はほんの些細なものだった。
一瞬、踏み込みが遅れた。
(……?)
すぐに修正しようとするが、妙な感覚が残る。
視界の端で、ブラスの足がわずかに動いた。
いつもなら、その動きの意図が即座に理解できるはずだった。
だが——
(読めている……なのに……?)
理解はできる。
だが、身体がついてこない。
今までなら一瞬で回避できたキマイラの爪が、わずかに遅れて動いた足をかすめる。
鈍い痛みが走るが、それよりも違和感が増していく。
「っ……くそ……!」
(さっきまで、俺は……)
仲間の動きすら手に取るようにわかり、攻撃も紙一重で回避し、最適な位置に立ち回ることができていた。
それが、今——
(遅い……!)
感覚はある。動きも読めている。
だが、足が重い。
腕が遅れる。
疲労が、まるで鎖のように身体を縛りつける。
(まずい……)
その思考の隙を突くように、キマイラの鋭い爪が正面から迫る。
(避けられ——)
「ちっ……流石に、出来過ぎだったか!」
直後、ブラスの肩がクラフトの体を後方へ弾き飛ばした。
《剛壁の構え》
ブラスの盾がキマイラの一撃を受け止める。
衝撃で岩盤が砕け、砂埃が舞い上がる。
「クラフト、一旦下がれ! キールのとこまで行って息を調えろ!」
クラフトはブラスに投げ出されるように後方へ下がる。
足がふらつく。
キールが即座に駆け寄り、クラフトの肩を支えた。
「おい、クラフト、大丈夫ですか?」
「……っ、大丈夫だ……」
苦しげに息を吐きながら、クラフトは拳を握りしめた。
視界はまだ冴えている。
敵の動きも、周囲の気配も、頭の中にははっきりと入ってくる。
けれど——体が、ついてこない。
さっきまでの反応速度が嘘みたいに、足が動かず、腕にも力が入らない。
「っ……くそっ……」
すべてが見えているのに、踏み出せない。届かない。
頭と身体が、まるで別の場所にあるみたいだった。
その違和感は、焦りとなって胸に刺さる。
一気に押し寄せた疲労が、まるで鎖のように四肢を縛りつけていた。
ブラスが静かに息を吐く。
荒い呼吸のまま盾を構え直し、ゆっくりと姿勢を整える。
「……さて、どうするか」
目の前には、いまだ健在なキマイラ。
巨体は傷ついているが、獰猛な瞳にはまったく怯えの色がない。
むしろ、ますます鋭さを増しているようにすら見えた。
時間は、ない。
「キール、魔力はまだあるか?」
ブラスの問いに、キールは即答する。
「……大丈夫です!」
しかし、それは事実ではない。
キールの魔力は限界に近かった。
だが、今この場で「無理だ」と口にする選択肢はなかった。
ブラスはキールをじっと見つめる。
「よし——クラフトとお前で時間を稼げ」
その言葉に、キールは思わず息を呑む。
「……どういうことですか?」
不信感ではない。
ただ、この場の戦力で「時間を稼ぐ」という選択が、どう考えても無謀だった。
クラフトはすでに限界を迎えている。
呼吸は荒く、剣を構える腕も重そうだ。
キール自身も、キマイラに攻撃を当てる術を持たない。
数分。
たったそれだけの時間すら、持ちこたえられるか分からない。
——それでも。
クラフトはブラスの目を見据え、迷いなく叫んだ。
「キール! ブラスを信じろ!」
キールが唇を引き結ぶ。
信じろ?
何を?
この状況で?
キールの頭の中で、冷静な思考が働く。
だが、その思考を打ち消すように、クラフトの声が重なる。
「ブラスが、何も考えずに動くわけがない」
確かに、ブラスは一見、直感で動くタイプだ。
だが、その動きは、数多の戦場をくぐり抜けてきたからこそ研ぎ澄まされたものだ。
圧倒的な戦闘経験から即断で勝ち筋を探し出す。
そして——ブラスが決めたとき、それが覆ったことはない。
キールは静かに息を吸った。
(……まったく、理解不能な戦術だ)
理論的に見れば、この場で「時間稼ぎ」など到底成立しない。
だが、理屈を超えた場所で、クラフトは「勝機」を信じている。
ならば、自分にできることは一つ。
「……了解しました」
キールは短くそう答え、魔力を練る。
ブラスが2人をまっすぐ見つめる。
「頼むぞ……!」
クラフトが肩を揺らしながら剣を構える。
「——さあ、行くぞ」
轟く咆哮が、洞窟全体に響き渡る。
キマイラが、再び殺意を持って動き出した。
ブラスは、リリーに駆け寄りじっと見つめた。
その目には、決意と覚悟が宿っていた。
「……リリー、よく聞け」
静かに、しかし確かな強さを持った声が響く。
ブラスは、一歩リリーに近づくと、彼女の肩に手を置いた。
「お前がやるべきことは、ただ一つだ」
そう言うと、ブラスは短く作戦を伝える。
その言葉は端的で、無駄がなかった。
リリーは、一瞬目を見開いた。
「えっ……!?」
その内容に驚きを隠せない。
「でも、それって……!」
すぐに不安そうに首を振った。
「ブラス、危ないよ! それに……私、もう魔力が……!」
声が震える。
マナポーションも尽き、魔力の枯渇が全身を支配していた。
さっきの戦いで、すでに限界を超えていたはずだった。
ブラスの目には、迷いがなかった。
「いいかリリー——」
声が低く響く。
いつもの豪快な笑みはない。
ただ、真剣な眼差しで、厳しく——それでいて、確信に満ちた言葉が続いた。
「このままじゃ、クラフトも、キールも死ぬ。数分後には確実にな」
リリーの心臓が跳ね上がる。
「でも……!」
「だから——今、この瞬間だけでいい」
ブラスが静かに言った。
「お前の限界は、俺が見てきた。……まだ先があるって、知ってるんだよ」
言葉に力がこもる。
ブラスの手が、大きくリリーの肩を掴んだ。
「後のことは考えるな、身体の隅々から魔力を搾り出せ」
リリーは、ブラスの目を見つめる。
そこにあるのは、迷いのない覚悟。
リリーは奥歯を噛み締める。
痛む身体を奮い立たせ、震える手を強く握りしめた。
「……わかったわ」
瞳の奥に宿る光が変わる。
リリーの魔力が再び収束し始める。
限界を超え、枯渇したはずの力が、最後の火を灯すように集約されていく。
ブラスは微かに頷いた。
「よし——行くぞ!」




