血の底に眠るもの
採掘場は不気味なほどに静まり返っていた。
かつて鉱夫たちの足音が響き、鉱石を掘り出していた場所には、今や何の音もない。ただひんやりとした空気が肌を撫でるだけだった。
リリーの足取りが、先ほどまでの軽やかさを失っていた。
「……何もない」
肩を落としながら、小さな靴が地面を擦るように進む。
「ブラスの予言、当たっちゃったのかな……」
ブラスは苦笑いしながら肩をすくめた。
「俺のせいじゃねぇよ! ただの偶然だっての!」
「次は『大金が降ってくる』とか予言してもらえませんかね?」
キールが淡々と皮肉を込める。
「お、お前ら俺のことなんだと思ってんだ!?」
ブラスが釈明しようとするも、キールはすでに次のルートを確認し、クラフトは軽く腕を組んで「さて、行くか」と呟く。
「……ヴェルシュトラの依頼が間違っていたのか?」
クラフトが周囲を見回しながら呟く。
確かに、これまでの例から考えれば、魔導石の採掘場でモンスターが発生するのは自然なことだった。だが、それは“まだ魔導石が残っている場合”の話だ。
今目の前に広がる採掘場は、見る限りほぼ回収が終わった状態だった。
「まあ、さっさと確認して、何もなけりゃ帰るだけだな」
ブラスが斧の柄を軽く叩きながら言う。
「その通りですね」
キールも同意する。
そうして、クラフトたちは採掘場の奥へと進んでいった。
進むにつれ、空気が変わり始めた。
——鼻をつく、鉄のような匂い。
「……血の匂い?」
クラフトが足を止め、周囲を見回した。
気のせいではない。確かに血の匂いが漂っている。
「いやぁな感じがするな……」
ブラスが警戒を強める。
やがて、視界が開けた瞬間——
クラフトたちは言葉を失った。
広がるのは、血の海。
下方に広がる広大な空洞には、無数のモンスターがうごめいていた。
「……な、なんだ、これ……?」
リリーが息を呑む。
そこでは、トロールとミノタウルス、ヘルハウンドたちが狂ったように互いを噛み砕き、殴り合い、血まみれになりながら殺し合っていた。
「モンスター同士の共食い……?」
ブラスが眉をひそめる。
「……異常ですね」
キールも低く呟く。
通常、異種のモンスターが共存することはあっても、ここまで無秩序な殺し合いをすることはほとんどない。
クラフトが洞窟の底に目を向ける。
血の匂いに混じって、未回収の魔導石が点在し、それを囲むようにモンスターたちが狂乱していた。
「……これは、ただのモンスター発生では済まされない案件ですね」
岩陰からモンスターたちを見下ろしながら、キールは冷静に状況を分析した。
「一旦、引き返しましょう。これだけの数を相手にするのは危険です」
クラフトは歯を食いしばりながら下の光景を見つめる。
「……このまま放っておけば、近隣の住人に被害が出るかもしれない」
「ですが、現状ではまともに戦える状況ではありません」
キールの指摘に、クラフトは無意識にリリーを見やる。
「ねぇクラフト……もしこの先、私に何かあったら、リリーのことお願いね。」
あの時の声が、脳裏にこだまする。
リディアに託された、大切な仲間。
——こんな場所で無理をするわけにはいかない。
握りしめた拳に、わずかに力がこもる。
「……分かった、引き返す」
クラフトは渋々頷いた。
静かに、モンスターに気づかれぬよう、来た道を戻ろうとする——
その時だった。
「……ッ!?」
突然、洞窟の奥から、ミノタウロスの苦しげな咆哮が響いた。
続いて、トロールの猛々しい叫び。
「……ッ!?」
突然、洞窟の奥で、ミノタウロスの角がトロールの巨体を捉え、壁際へと押し込む。トロールの背が岩壁にめり込み、その衝撃で岩が砕け散った。
トロールも負けじと腕を振り上げる。分厚い筋肉が隆起し、棍棒が唸りを上げながら空を裂く。振り下ろされたそれは、ミノタウロスの胴を打ち据え、その巨体を地面ごと沈み込ませた。
衝撃に耐えきれず、洞窟の壁に亀裂が走る。粉塵が舞い上がり、足元の岩盤がわずかに軋んだ。
「おい、やべぇぞ……!」
ブラスが険しい声を漏らす。
ミノタウロスは倒れ込む寸前の体勢から無理やり踏みとどまり、反撃の機を狙う。大きく腕を振るうと、トロールの胴を掴み、重たい体を無理やり引きずり上げた。そして、そのまま力任せに投げ飛ばす。
岩肌が深く抉れ、洞窟全体に振動が広がる。
天井から小さな石がこぼれ落ち、それが合図となるように、大きな岩盤がずれ始めた。
「……逃げろ!!」
ブラスの叫びとほぼ同時に、洞窟の壁が音もなく崩れ落ち、足元が一気に沈み込む。
クラフトたちの足元が崩れ、抗う間もなくの底へと飲み込まれた。
――視界が反転した。
耳をつんざくような轟音とともに、クラフトたちは宙を舞い、そのまま崩れた地面へと叩きつけられる。
重力に引かれるまま、暗闇へと落ちていく。
「くそっ……!」
クラフトは咄嗟に身体をひねり、着地の衝撃を和らげる。だが、背中に受けた衝撃が肺から空気を奪い、息が詰まる。
砂煙が巻き上がり、視界が霞む。
「おい、大丈夫か!?」
ブラスの怒鳴る声が響いた。
「なんとか……」
クラフトは痛む肩を押さえながら立ち上がる。
その瞬間――
獣の瞳が、闇の中で一斉に光った。
「……ッ!!」
獰猛なヘルハウンドの群れが、四方からじりじりと包囲していた。
ミノタウロスとトロールは暴走を続け、壁を叩きつけるたびに岩が砕け、振動が伝わってくる。
「こんなに囲まれると、ちょっと照れるな」
ブラスが斧を構えながら笑う。
ヘルハウンドの一匹が唸りをあげ、鋭い牙を剥いた瞬間――
「……まとめて吹っ飛べ!!」
クラフトの足が地を踏みしめた。
《震脚波動》――!
衝撃が波紋のように広がり、ヘルハウンドの群れが四方へと弾き飛ばされた。
しかし地に叩きつけられたはずのヘルハウンドたちが、ゆっくりと蠢き始める。折れた足を引きずりながら立ち上がる個体。内臓がはみ出しかけたまま、それでも執拗に前へと進もうとする個体。四肢が動かないのか、血まみれの体を地面に擦りつけ、這いずるように迫ってくる個体もいた。
クラフトの眉がわずかに歪む。キールも冷静な表情のまま、静かに息を吐いた。
「……どうやら、普通の魔物ではなさそうですね」
「……何だこいつら……!?」
折れた足でふらつきながらも、狂気に染まった目でこちらを睨み、再び突進してくる。
「止まらないか……!」
クラフトが歯を食いしばる
キールが静かに手を掲げた。
《影槍》――!
闇から生まれた無数の槍が、獣達の胸を正確に貫く。
ヘルハウンドの体が痙攣し、口から血を吐きながらその場に崩れ落ちる――
――はずだった。
しかし。
槍を受けながらも、獣はそのまま走り続けていた。
「ッ……!?」
キールの目がわずかに見開かれる。
普通なら即死のはずの一撃を受けても、微塵も怯まない。
「おいおい……おかしいだろコイツら、どうなってやがる……?」
ブラスが苦々しげに呟く。
キールが即座に判断する。
「くっ…まともに戦う相手ではありません一旦、距離を取って退きましょう」
そう言うや否や、クラフトたちは一斉に走り出す。
しかし——ふと、脳裏に蘇るのは、つい数時間前のブラスの言葉。
「お、オラついたモンスターの群れがウジャウジャいて、イカれた狂戦士みたいな連中が血みどろで追いかけてきたりな!」
クラフトとキールは、走りながらふと互いに視線を交わした。
言葉はない。ただ、わずかに眉をひそめ、揃って小さくため息をつく。
そして——
同時に、ブラスの方へとゆっくりと横目を向ける。
冷たい視線。
無言の圧力。
まるで「お前のせいだ」と言わんばかりの、容赦ない無言の糾弾。
「た、たまたまだ!」
焦ったブラスが必死に言い訳をするが、二人の視線は揺るがない。
むしろ、その沈黙が何より雄弁に、「お前のせいに決まってるだろ」と告げていた。
そしてリリーが目を輝かせながら言った。
「すごい!ブラスの予言、また当たったね!」
「お前はなんで嬉しそうなんだよ!?」
ブラスが頭を抱えた。
歯を食いしばるでもなく、怒るでもなく、ただ苦々しく口の端を持ち上げた。もはや運命を悟った者の諦めに近い笑みだった。
「なぁ……俺たちって、いつも魔物の群れに追いかけられてないか?」
「今さら気づいたんですか?」
キールが皮肉たっぷりに肩をすくめる。
「むしろ、逃げる速度が上がってることに気づきませんか? 進化してますよ、私たち」
その背後では、異形のヘルハウンドたちが、狂気じみた咆哮を上げながら、血の匂いに誘われるように迫っていた。




