プロローグの終わりに
「……クラフト、これからどうするの?」
リリーが、そっと問いかけた。
クラフトは、ゆっくりと目を伏せる。
答えを出すには、まだ時間が足りなかった。
「……分からない」
ぽつりと呟く。
「でも、このままじゃダメなんだろうな」
微かに笑みを浮かべながら、ぼそりと漏らす。
リリーは、じっと彼を見つめる。
「お姉ちゃんだったら……きっと何て言うかな」
「さぁな」
クラフトは肩をすくめた。
「多分、『考えてるだけじゃダメでしょ!』って言うだろうな」
「……うん」
リリーは、小さく笑った。
けれど、その瞳はどこか潤んでいる。
クラフトは、ふっと息を吐いた。
窓の向こうに視線を向ける。
「……俺は、まだ何をすればいいか分からない」
「でも、じっとしてるわけにはいかないよな」
そう言いながら、自分の拳を見つめる。
かつて、何度も剣を握りしめて戦ってきた手。
けれど、リディアを救えなかったこの手に、まだ何ができるのか——。
「リリー」
クラフトは、静かに彼女の方を向く。
「俺は……もう少し、考えてみる」
「リディアのためじゃなく、俺自身のために」
リリーは少しだけ驚いたように目を瞬かせ、それからゆっくりと頷いた。
「……うん」
クラフトは目を閉じ、もう一度深く息を吸った。
何をすればいいのかはまだ分からない。
でも、止まっているわけにはいかない。
「……そろそろ、帰らないと」
リリーが静かに呟き、ゆっくりと立ち上がった。
クラフトはぼんやりとその景色を眺めながら、リリーの小さな動きを目の端で捉える。
リリーは扉に手をかけたが、すぐには開けず、一瞬だけ逡巡した。
そして——
「……また、お姉ちゃんの昔話してもいいかな?」
ふと、ぽつりと呟いた。
その声は、少しだけ遠慮がちで、少しだけ怖がっているようだった。
クラフトは一瞬、何も言わずにリリーを見つめた。
「……ああ」
クラフトは静かに頷いた。
それが、たった一言の答えでも、それで十分だった。
リリーの瞳が少しだけ潤み、安心したように微笑む。
そして、そっと扉を開けると、朝の光の中へと消えていった。
部屋に残った静寂の中、クラフトはふっと息を吐く。
窓の隙間から入り込む朝の空気が、少しだけ冷たくて、でも心地よかった。
——また、話せばいい。
それが、彼らが前へ進むための、大切な一歩になるのだから。
朝の空気は、夜の雨の名残をわずかに残しながらも、澄んでいた。
昨日までの重苦しさとは違い、街の喧騒がどこか遠く感じる。
クラフトは、ぼんやりと市場を歩いていた。
朝の光が、じんわりと肌に染み込むようだった。
思わず目を細める。
——こんなに眩しかったか?
こうして市場を歩いたのは、いつぶりだろうか?
冷えた体を、ほんの少しだけ温めてくれるような気がした。
商人の威勢のいい呼び声、
食べ物を売る屋台の香ばしい匂い、
そして、時折響く子供たちの無邪気な笑い声。
——だが、その中に、ふと違う声が混じる。
「スキルを売れば、お母さんの薬代が手に入るんだ!」
クラフトの足が止まった。
通りの隅、小さな少年が店主と話している。
「それで、本当にいいのか?」
店主が渋い顔で聞く。
「うん!」
少年は力強く頷いた。
「だって、スキルを売れば、すぐにお金になるんでしょ? それでお母さんを助けられるなら、それでいいんだ!」
少年は、店主と何か話をした後、小走りに去ろうとした。
クラフトは、思わず少年の肩を掴んだ。
「待て……!」 声が震えていた。
少年は驚いてクラフトを見上げる。
小さな手に握られたスキル売買の契約書。
「本当に……それでいいのか?」
クラフトの声は、思ったよりも掠れていた。
「だって……お母さんが苦しんでるのに、何もしない方がいいの?」
その言葉に、クラフトは息を呑んだ。
目の前の少年が、まるで過去のリディアと重なって見えた。
——リディアも、同じだった。
リリーをアカデミアに通わせるため、
生活のため、
未来のために。
自分のスキルを売り、すべてを犠牲にして、それでもなお、必死に前に進もうとした。
だが、結局、その先に待っていたのは——
クラフトは、拳を強く握った。
この少年も、数年後に同じ道を辿るのか?
スキルを売ることで、今は救われるかもしれない。
だが、それは未来を失うことでもある。
このままでは、また誰かがリディアのように、追い詰められる。
「……」
自分は、今まで努力してきた。
アカデミアに入り、主席で卒業し、冒険者として頭角を現した。
だが、それは本当に努力の結果なのか?
努力する自由が与えられていた。
努力を裏切られずに済む状況だった。
逃げ場のない状況ではなかったから。
だからこそ、「努力すれば道が開ける」と思い込んでいた。
もし、自分がこの少年のように、スキルを売らなければならない状況にあったら——
リディアのように、未来を担保にするしかない環境にいたら——
自分は、本当に同じ道を歩めただろうか?
——いや、そんなはずはない。
「……俺は、ずっと見えていなかったのか」
ぽつりと呟いた言葉は、虚空に溶ける。
だが、次の瞬間、胸の奥に鋭い棘のような痛みが走った。
違う。
見えていなかったんじゃない。
見たくなかった のだ。
——どんなに苦しくても、諦めなければ道は開ける。
——努力すれば報われる。
そう信じることで、これまでの自分を正当化していた。
けれど、目の前の少年は——
リディアは——
その理屈では救われなかった。
「違う。俺はずっと、気づかないふりをしていたんだ….努力すれば救われる? ふざけるな」
「それで救われなかった奴は、どうなる?」
気づけば、拳を握りしめていた。
少年の姿が、遠ざかっていく。
「考え続けるしかない。目を逸らさずに。」
本当の意味で、努力が報われる世界を作るには?
クラフトは、初めて「自分の頭で」考え始めた。
——プロローグはここで終わりを告げた
物語は、いよいよ本編へと歩を進める——
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
この物語のプロローグでは、クラフトという男が、立ち止まって、悩んで、少しだけ歩き出すまでの姿を描きました。
でも、本当の物語はここからです。
リディアの死。
それが彼の中に残したものは、悲しみだけじゃなく、「これまで信じてきた正しさを見直す」というきっかけでした。
「努力すれば報われる」なんて言葉の裏にある現実と向き合う物語が、いよいよ動き出します。
……とはいえ、その前にちょっとだけ、番外編を挟みます。
プロローグでは描ききれなかった“あの日”の裏側に少しだけ触れておきたいと思っています。




