必要とされる日々と、置き去りの現在
朝日が昇るころ、リリーの足が、重く沈むような感覚を抱えながら、訓練場へと向かう。
胸の奥では、冷たいものが広がっていた。
「そんな攻撃じゃ、リディアは倒せなかった」
「リディアなら、もっと早く動けた」
「お前、本当に戦うつもりか?」
耳にこびりついた言葉が、何度も頭の中で反響する。
やらなきゃ。
もっと強くならなきゃ。
お姉ちゃんみたいに——。
指先に力を込め、剣を握る。
恐怖を振り払うように、深く息を吸った。
扉の前で、一度だけ小さく拳を握りしめる。
そして——
意を決して扉を開いた、その瞬間。
目の前の光景に、リリーの足が止まる。
そこにいたのは、クラフトではなかった。
代わりに、待っていたのは——
「よぉ、リリー」
ブラスが、訓練用の木剣を肩に担ぎながら片手を挙げる。
「今日から俺が見ることになった」
リリーは、一瞬言葉を失った。
「……え?」
ブラスは特に表情を変えず、淡々と続ける。
「クラフトは、ちょっとな……でも安心しろ。今日から俺がみてやるからよ」
リリーの手が、ぎゅっと木剣を握りしめる。
何があったのか、ブラスは説明しようとしない。
だが、その態度がすべてを物語っていた。
「……うん」
短く返事をし、剣を構え直す。
その手には、迷いと戸惑いが入り混じっていた。
クラフト、何もせず街を彷徨う
街は今日も活気に満ちていた。
商人の掛け声、冒険者たちの笑い声、子供たちの無邪気なはしゃぎ声。
すべてが、ただの雑音のように聞こえた。
「……俺は、何をしている……?」
気づけば、何もせず、ただ歩いているだけだった。
以前なら、訓練をし、クエストを受け、リリーの剣を取る手を支えていた。
だが、今は—— 何もない。
足が、勝手に訓練場へ向かっていた。
考えるよりも先に、身体が動いていた。
そこに行けば、何かが変わると思ったのか?
それとも、ただ現実を確認するためだったのか?
門の向こうから、剣の打ち合う音が聞こえてくる。
リリーの変化
「はっ……!」
リリーの掛け声とともに、木剣が振り下ろされる。
それを、ブラスが同じ木剣で軽く受け止めた。
「いいぞ、そのままっ!」
ブラスの言葉に、リリーはさらに踏み込む。
その表情には、かつて見せたことのない光が宿っていた。
リリーは、以前よりも明らかに活き活きしている。
剣を振るうたびに、自分の成長を確かめるような 前向きな気持ち が見えた。
「よし、いい感じだな。今日はここまでにしとくか」
ブラスがそう言うと、リリーは肩で息をしながらも、「やった!」と小さく笑った。
その光景を、クラフトは門の影からただじっと見ていた。
剣を振るうリリーの姿。
笑顔を見せる彼女。
それは、クラフトと訓練していた頃には見せなかったものだった。
喉がひりつく。
胸の奥が冷たくなる。
「……俺と訓練していた時は、あんな表情……してなかったよな」
それが、何よりも突き刺さった。
リディアは、リリーを俺に託した。
俺が守るべき存在だったはずだ。
だが、今目の前にいるリリーは——
俺がいなくても、もう大丈夫だとでもいうように、楽しそうに剣を振るっている。
それは、喜ぶべきことなのか?
違う。
リリーが成長したことが悲しいのではない。
自分が 「その成長のために必要とされなくなった」 ことが、怖かった。
「リリーを守る」ことすら手放した俺は、一体何なんだ?
俺は、何をしている?
俺は、何のためにここにいる?
何もかもを失ったような気がした。
リディアがいない。
リリーも、もう自分を必要としていない。
それなら、俺は—— 何者なんだ?
クラフトは、その場を離れた。
だが、それは どこへ向かうためでもなかった。
ただ、訓練場に これ以上いることに耐えられなかった だけだった。
喧騒が満ちる酒場の中、クラフトはただ一人、静かにグラスを傾けていた。
周囲では、冒険者たちが騒ぎ、笑い、酒を酌み交わしている。
活気に満ちた空間——以前の自分なら、仲間たちと軽く飲んで、馬鹿話の一つでもしていたかもしれない。
だが、今のクラフトは違った。
周囲の笑い声も、ざわめきも、すべてが遠かった。
――お前がいない方が、みんな幸せだ。
ふと頭の中で、声が響いた。
自分のものとは思えないほど冷たく、突き放すような声だった。
――お前がいなければ、リリーは苦しまなくて済んだ。
「……違う」
――お前がいなければ、リディアだって、別の道を選べたんだ。
「やめろ……」
――お前がいなければ、ブラスだって、リリーの世話を押し付けられずに済んだ。
「うるさい……」
吐き捨てるように、小さく呟いた。
――お前がいなければ、誰も傷つかなかった。
「……やめてくれ……」
叫びたい衝動を必死に抑えながら、クラフトは震える手でグラスを掴んだ。
酒を一気に喉に流し込むが、何も変わらない。
どれだけ飲んでも、この声からは逃げられないのだと、どこかで分かっていた。
「…..うるさい……」
小さく吐き捨てるように呟く。
何もかもが、くだらなかった。
どれだけ飲んでも、この思考は止まらない。
どれだけ飲んでも、何も変わらない。
もういい、何も考えたくない——
——そのとき。
「ここにいましたか、クラフト」
冷静な声が、背後から届く。
クラフトは反応しなかった。
「……いつまでそうしているつもりですか?」
無視をしようとする。
けれど、頭の中で反響していた声と、目の前の現実が重なり、ズキリと痛む。
「……聞いてますか?クラフト」
キールの声が、少し苛立ちを帯びる。
その瞬間——
「うるさい!」
まるで呪詛のように、低くくぐもった声が口をついた。
キールの表情が僅かに変わる。
クラフトはグラスを回しながら、ぼそりと呟く。
「お前が……ロフタの町をリディアに教えたんだろ」
言葉を発した瞬間、クラフトの手が無意識に拳を握りしめた。
キールは、一瞬無言になった。
その沈黙が、すべてを物語っているようだった。
だが、キールはすぐに静かに答えた。
「……そうです」
クラフトの拳が、さらに強く握られる。
「……お前、それで何も感じないのか?」
キールは目を伏せる。
けれど、その表情は変えなかった。
「私は、リディアに選択肢を与えた」
「選んだのは、リディアです」
その言葉は、どこか自分に言い聞かせるようにも聞こえた。
クラフトの胸の奥で、何かが弾けた。
「お前……それでいいと思っているのか?」
怒りに震える声が、低く響く。
キールは再び目を伏せる。
そして、わずかに息を吐き、静かに答えた。
「……納得するしかないでしょう」
その声は、微かに揺れていた。
クラフトは息を詰まらせた。
キールが、こんな風に言葉を揺らせることは滅多にない。
「お前、リディアに何を言った?」
キールは僅かに目を細めた後、淡々とした口調で言った。
「……大金が必要になったらどうするか、そう言われました」
冷静に言っているつもりなのだろう。
だが、その声はどこか硬い。
「そして、私は……」
キールの言葉が一瞬、途切れる。
こんな風に言葉を詰まらせるキールを見るのは、珍しかった。
「……冗談混じりに、ロフタの町の話をした」
「……そんな契約をする奴の気がしれないと」
そう言った瞬間、キールの手が、ぎゅっと握られる。
その手は、かすかに震えていた。
「それでも……リディアは行った」
声に、かすかな苛立ちが滲む。
だが、それはクラフトに向けたものではなく——
自分自身に向けたものだった。
「……私は……何を間違えたんですかね?」
キールは、自分に問いかけるように言った。
クラフトは、目を見開く。
「……お前……」
キールは、ふっと笑う。
だが、それは冷笑ではない。
乾いた、自己嫌悪に満ちた笑いだった。
「バカげてますね」
「私は合理的に考えた。ただ、それだけです」
キールの手がまだ震えていることに、クラフトは気づく。
「……お前、ほんとは……」
何かを言おうとした。
しかし——
「もう話は終わりですね」
キールは、クラフトの言葉を遮るように言い放つ。
クラフトは、何か言いかけた。
だが、キールはすでに背を向けていた。
その背中が、どこか重たく見えた。
彼は振り返らず、そのまま静かに去っていく。
クラフトはただ、その背中を見送るしかなかった。
グラスを手に取る。
けれど、もはや酒を口に運ぶ気になれなかった。
「お前がいなければ、もっと違う道があったはずだ」
再びクラフトの頭の中に響く。
リリーも、ブラスも、キールも——
もう、俺がいなくても大丈夫だ。
じゃあ、俺は?
俺は、何のために、ここにいる?
「うるさい……」
心の中で、何度も何度も掻き消そうとする。
だが、何をしても、酒を飲んでも、その言葉は消えなかった。
お読みいただき、ありがとうございました。
小さな物語ですが、どこかに残るものがあれば嬉しいです。
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